君に、愛を込めて
しとしとと降り続ける雨は、今日も止む気配がなかった。
秋雨前線の影響だというこの雨のおかげで、残暑を引きずっていた気温はぐっと下がり、大分過ごしやすく感じられる。通りに面した大きな硝子窓に書かれた「珈琲喫茶」の鏡文字越しに、通りをゆく暗い色の傘を眺めながら、広瀬圭一は急ぐわけでもなく、黙々と開店準備に取りかかっていた。
カウンターの横に置かれたラジオが、雑音混じりに時刻を告げる。看板に書かれた「午前11時」という営業時間からは、もう10分も過ぎていた。
しかし、店に客が来るのは、いつでも正午を過ぎてからの午後の時間帯だけで、どこかの繁盛店のように開店前から店の前に行列ができているわけではない。その上、休みも気まぐれなこの店に、開店時間から押しかける客もいない。
そこにあってもなくても、誰も気に留めないくらいの店。そんな趣味半分の仕事の気楽さを広瀬は好んでいた。
しかし、この日はどうやらいつもとは違ったようだった。
雨水を静かに跳ねて、一台のセダンが硝子窓を横切り、店の駐車場に入っていく。それからややあって、助手席から一人の女が、店の入口に走り寄るのが見えた。女は髪についた雨粒を払いもせずに、硝子の外からまだ暗い店内を伺う。
客だろうか。広瀬はカウンターの中から出ると、ドアを開けた。
「すみません、まだ開店準備が――」
少しやかましすぎるドアベルの音にほんの少し顔をしかめ、女の顔も見ずに広瀬は低く言う。
「広瀬圭一さん、ですね」
すると、それを遮るように広瀬の名が呼ばれた。言葉を発したのは、女ではなく、その後ろから駆けてきた男だった。くたびれた背広を来た男。その顔には、曇天に似合わない、にこやかな笑顔が浮かんでいる。
まさか。
広瀬は、はっとして女の顔を見た。逆光で良く見えなかったが、その顔立ちは懐かしい人を思い出させるに十分な、可愛らしい顔をしていた。
どうやら、来るべき時がやって来てしまったらしい。
ややあって、広瀬はそう悟ると、できるだけ平静を装い、目の前にたたずむ義妹の名を口にした。
「もしかして、佳純ちゃん?」
「……お義兄さん。ご無沙汰しています」
雨空の淀んだ暗さのせいか、俯き加減の佳純の顔は、青ざめているように見えた。
濡れた前髪が数本、額に貼りつき、長いまつげは不安そうに震えている。大きめのショルダーバッグを抱えた腕は、自分を抱きしめるように華奢な体に回され、これから起こるかもしれない何かに怯えているようだった。
「今日はどうして……」
「捜査一課の橋本と申します。広瀬さんに、ちょっとお話を聞かせてもらえないかと思いまして」
口を開いた広瀬を遮って、橋本と名乗った男が黒い警察手帳を開く。そして、数秒間、広瀬が手帳の文字と写真を確認する間を取った後、さっさとそれをズボンのポケットの中に仕舞い込んだ。
「話、ですか……」
鼓動が速くなる胸を知られまいと、広瀬はうなずいた。
「それならとりあえず、中へ……。雨も降っていますし」
慎重に言葉を選ぶと、二人を中へ引き入れる。
鬼が出るか、蛇が出るか。
広瀬は外の札が「準備中」になっていることを確認しながら、そう自分に言い聞かせた。しかし、いざ警察がやってきたとなると、どうしても浮足立たずにはいられなかった。
「なかなか趣のある内装ですな」
地声なのだろうか、大きな声に広瀬が振り向くと、橋本が腰をそるようにして、店の中を眺め回していた。
「ログハウス調、というんですかねえ? 天井が吹き抜けなのが、何とも気持ちがいい」
「……ありがとうございます」
「ここ、お義兄さんのご両親が住んでいたのを、お義兄さんたちで改装してお店にしたんですよね」
佳純が小さな声でつぶやく。
広瀬が最後に佳純と会ったのは、あの手紙を渡した時のことで、彼女はまだ高校生だった。そのころよりも背が少し伸び、大人びた雰囲気になった佳純は、そっくりと言ってもいいほど彼女によく似ている。
ふとした拍子に、彼女がここに戻って来たような錯覚にとらわれそうになりながら、広瀬はそんな自分を戒めた。
「ほう。自分たちで改装した、ということは……」
にこやかな面を被っているような橋本が、広瀬を振り返った。
「広瀬さんと――それから、5年前に失踪した奥さんの純子さん、ということですか?」
「……ええ、そうです」
それは緊張のせいか、それとも純子の名を久しぶりに聞いたせいか。相槌を打つ声が一瞬、裏返りそうになる。
橋本は不審に思わなかっただろうか。広瀬は思わず彼の表情を確認したが、橋本は素知らぬふうに天井を眺めていた。
「どうぞ、座ってください。コーヒーでも淹れますから」
そう口にしてしまってから、先に何の用件か聞くべきだったと、胸の中で舌打ちをする。これでは、長くなるだろう話の内容に見当が付いていると言っているようなものだ。
しかし、言ってしまったことは戻らない。とにかく、落ちつけ、と広瀬は自分に言い聞かせると、できるだけ平静に刑事の横を通り抜け、カウンターの中に収まった。
「これはありがたい。いや、今日はかなり冷えますからね」
「そうですね」
広瀬は返事をしながら、臙脂色のコーヒーカップを三人分、湯で温める。
「しかし、いつまで降るんでしょうなあ。私は雨が嫌いでしてね、というのもやはり年ですかなあ、どうも膝が痛んで」
「それは大変ですね。まだしばらく降りそうですから」
「そうみたいですねえ、困ったもんだ」
広瀬はちらりと佳純を伺った。
よくしゃべる刑事と反対に、椅子に座った佳純は身動き一つしなかった。ショルダーバッグを抱きしめ、何かを祈るようにただひたすらに瞳を俯かせている。佳純の横のラジオからやけに明るい調子の歌声が響き、その声に共鳴するようにザザ、と耳障りな音が大きく鳴った。
消しましょうか、と広瀬がラジオのボタンに手を伸ばす。すると、橋本は「いえ、このままで」と、首を振った。
「しかし、これは歌番組ですかな。広瀬さんは、ニュースをお聞きにならない?」
「ニュース、ですか?」
「ええ」
橋本の言葉に、佳純も少し顔を上げた。
何と答えたほうがいいのだろう? 少し広瀬は迷って、それから本当のことを言った。
「特に、聞かないですね」
「テレビも?」
「ええ」
「若いのに、古風な方だ」
からからと橋本は笑い、佳純に同意を求めるように顔を向けた。
「あ……ええ、お義兄さんは携帯を持ってないってお話を、刑事さんとしてて……」
佳純がしどろもどろに答える。
「そうなんですってね。だから連絡を取るのに困りましてね、それで佳純さんに案内してもらったというわけで……この店の電話も、通じないとか?」
「……電話代を払ってないですから」
「誰かから連絡が来たら、困るんじゃないですか?」
「まあ、ないなりにやっていけてるんで」
いちいち大袈裟に言う橋本に、広瀬は辛抱強く答えた。「誰かから連絡がきたら」――そうやって外堀から埋めていくのが警察のやり方なのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、ぷうんとコーヒーのいい匂いが立って、広瀬は思い出したように温めたカップを手に取った。
「……ラジオ、変えてもいいですかね? そろそろ――」
広瀬の返事も待たずに、橋本は周波数のつまみを少しずつひねった。雨だからだろう、いつもはクリアに聞こえる様々な音はくぐもって捉えどころなく、近づいては遠のいていく。けれど橋本は辛抱強く耳を澄ませ、アナウンサーらしき男性の単調な声に周波数を合わせた。
『――続いて交通情報、そして県内の主なニュースをお伝えいたします。交通情報センターの浦部さん、どうぞ――』
「砂糖とミルクは、そこにありますので」
広瀬は二人の前にコーヒーを並べる。そして少し考えてから、橋本から見えないように後ろを向き、自分のコーヒーに愛蔵のウイスキーを垂らした。
「いや、私は実は甘党でしてね」
橋本は嬉しそうにそう言うと、砂糖を三本ざらざらとコーヒーの中に入れてかき混ぜ、一口啜った。
「ああ、うまい。佳純さんは?」
橋本が砂糖を差し出すと、佳純はゆるく首を振り、じっと焦げ茶色の液面を見つめた。しかし、鼻をくすぐる湯気と、気持ちが落ち着くようなキリマンジャロの匂いに惹かれたのだろう、ブラックのまま少しだけ口をつける。
あいつもコーヒーはブラックだったな。
俯きっぱなしの佳純を見ながら、広瀬もウイスキーの芳香の混じった液体を口に含む。
『――浦部さん、ありがとうござい――た。続きまして、県内のニュースです――』
橋本がコーヒーを飲むために口を閉じると、店内は沈黙に包まれた。途切れ途切れのラジオの音が静かな空間で大きく聞こえ、耐えがたいほどの沈黙をいなす。
「……ったんです」
そのとき、佳純がようやく、小さく言葉を口に出した。広瀬は顔を上げた。素知らぬ風を装いながら、自分の挙動を見つめている橋本の気配を、肌でひしひしと感じ取る。
「……見つかったんです」
カップを持つ佳純の小さな手が、細かく震えている。広瀬は、抑えた声で聞き返した。
「見つかったって、何が?」
ここでボロを出すわけにはいかない。ザザ、とラジオの雑音が不快に鼓膜を震わせ、佳純がすがるような目で広瀬を見上げた。
「お義兄さん……」
『――のニュースです。松賀山で白骨化した遺体が見つかった事件について――お伝えします。6日、地元の猟師によって発見されたこの白骨化遺体――死後数年は経過している模様で――警察は殺人・死体遺棄事件として捜査を開始、死因と身元特定を急ぐとともに、行方不明者の――を――』
橋本はこのニュースを俺に聞かせたかったのか。
広瀬は橋本の顔を見たい衝動を押さえて、俯く佳純をじっと見つめた。地面に立っているはずの足がふわりと浮いたような感覚がし、胸の中には苦いものが広がった。
あれから5年――いつかこうなることなど、予想できたことだった。その「いつか」が、思惑よりも少し早く来ただけのことだ。それよりも今は、佳純の状態を確かめることが重要だ。
自分にそう言い聞かせ、顔を上げないままの佳純を、じっと見つめた。
「……お姉ちゃんだったんです」
泣きだしそうな声で佳純が言った。
「お姉ちゃんだった、って?」
白々しく聞こえるだろうか。しかし、いまはこう答えるより仕方がない。広瀬は息を詰めて聞き返した。
「松賀山の白骨化した遺体ね、あれ、遺留品――身元特定に使えるものはなかったんですよ。しかし、便利なものがありまして、歯の治療痕、そんなもんで誰かっていうのはわかるですよ」
カップの底の溶け切らない砂糖を未練がましく掬いながら、橋本が言う。
「まあ、最近は歯医者に行ったことがないって人のほうが少ないですから。奥さんも行ってたでしょう、歯医者」
「そう、ですかね……」
広瀬は曖昧に答える。少なくとも、純子がいなくなる前の2年間は、彼女はどこの病院にもかかっていないはずだった。
「それでね、まあ、歯の照合でわかったんです。あの白骨の身元が、あなたの奥さんであり、佳純さんの姉の、広瀬純子さんだってことがね」
橋本の言葉に、佳純が堪え切れずに鼻をすする。
「警察の人は、殺人事件として捜査してるって……、それで私も事情を聞かれて……。お義兄さんは、何か知りませんか」
佳純はようやく顔を上げ、涙に濡れた瞳で真っすぐに広瀬を見上げる。広瀬は祈るような思いで、佳純の瞳を確かめる。
青みがかった、不思議な色の瞳。
よほど注意してみなければわからないかもしれないその色に、広瀬はがつんと頭を殴られたような思いがした。
――圭ちゃん。
懐かしい、純子の声が広瀬の頭の中に鮮明に蘇る。そしてそれと同時に、純子の体に深々と飲み込まれていったナイフの感触が、生々しく両手に蘇った。
「お義兄さん?」
佳純が心配そうに広瀬を覗き込む。その佳純の青みがかった瞳は、やはりあのときの純子にそっくりだった。広瀬は息を止め、ただじっと佳純の瞳を見つめ返した。
※
純子と広瀬は高校のころからの付き合いで、だからこそ広瀬は、彼女は何かを言い出したら最後、絶対にその計画を貫き通す頑固さがあるということを充分に知っていた。
それから、同時に彼女の立てる計画には、必ず、どこかに穴があるということも。
例えば、それはこんなことだった。
日曜に電車での遠出を計画した彼女は、休日ダイヤではなく平日ダイヤで予定を立てていた。それから、記念日に手の込んだおかずを並べたはいいけれど、ご飯を炊くのを忘れた、なんてこともざらにあった。
そんなときに頭を抱える彼女に、笑って解決策を出すのは、いつも広瀬の役目だった。
まったく、君は馬鹿だなあ。
おっちょこちょいの彼女を笑って、広瀬はよくそう言った。もちろん馬鹿にしているのではない。広瀬は、完璧ではない、どこか抜けた彼女がとても可愛らしいと思っていたからだ。
けれど、そんな広瀬の言葉に、純子はいつも子どものように口をとがらせ、次こそは大丈夫だから、と言い返す。そしてまた失敗したことなどけろりと忘れて、次の計画を練り始めるのだった。
だから、純子がいつものように話し始めたとき、それはもう彼女の中で決定していることであり、自分に求められていることはそれを手伝うか否か――そして尻拭いをするか否かということなのだということを、広瀬はよく理解していた。
けれど、長い付き合いの純子を十分に理解しているはずの広瀬にとっても、そのとき彼女の言いだしたことは、簡単に承諾しようもないことだった。
「圭ちゃん、お願いがあるんだけど」
純子はそう言ったとき、少し緊張しているようだった。だから、せんべい布団に寝転がり、店で出す料理のレシピとにらめっこしていた広瀬は、どうしたことかと起き上がり、純子の顔を見た。
質素なアパートの白すぎる蛍光灯の光が、彼女の瞳を青みがかったようにきれいに見せている。前からこんな色をしてたかな。広瀬がふとそう思ったのと、純子が真面目に冗談のようなことを言ったのは同時だった。
「あのね、圭ちゃん。私の死体をどこか見つからない場所へ埋めてほしいの。人目につかない所――そうね、ありきたりだけど山なんかがいいな。あ、どこの山にするかはこれからちゃんと調べるから、いまは置いておいて……でも、とにかく7年は見つかっちゃだめなの。いい?」
いいも悪いも……。広瀬はしばらく、ぽかん、とあっけにとられてから、困惑気味に言葉を続けた。
いい? っていうか、まずどうして君が死体になっている前提なんだ? それとも、この話は何十年も後に、君がお婆さんになって死んだら散骨してほしい、とかいう類の話なの?
1年ほど前に純子の母親が亡くなってから、彼女は疲れたと言ってだるそうにしていることが多かった。一人きりの親を亡くした心労は相当なものだろうと、そっとしておいたのだが、自分の死を考えるとなると、かなり鬱の傾向があるのかもしれない。
広瀬が心配そうにレシピを閉じると、純子は、違うわよ、と怒ったようにそう言って、それから珍しく躊躇いながら、封筒に入った紙束を広瀬に差し出した。
「これ」
何だよ、と広瀬がそれを受けとろうとする。しかし、純子は小学生のイタズラのようにさっと封筒を引いて、けれど顔は真剣そのものに、広瀬を試すような目をした。
「これを見たら、その時点で圭ちゃんも共犯なんだからね?」
共犯だなんて、随分と物騒な言い方だ。
広瀬はそう思いながらも、純子の手から封筒を取り、中に入っていた紙束をめくった。図書館の本やインターネットからコピーしてきたのだろうか、紙には荒く潰れた読みにくい文字と数字が羅列されていて、広瀬は顔をしかめた。
「ちゃんと読んでよ」
渋い顔の広瀬の背中を、純子が叩く。広瀬はため息をつきながら、膨大な文字の中から単語を拾い読みした。
『――根本的な治療はないため、腎移植が行われ――しかし国内の腎移植待機患者数は多く、移植までの平均待機日数は約14年――また移植の費用が高額――課題となる――』
「腎」というのは、「腎臓」の略だろうか。移植ってことは、腎臓を丸々誰かのものと取り換えるってことだろう。そういえば腎臓ってのは二つあると学校で習った気がする。だから、一つ誰かにあげても、もう一つは残るわけだから大丈夫なんだろうか。
広瀬がそんな呑気なことを考えていると、しびれを切らしたように純子が言った。
「うちのお母さんがずっと病院に通ってたのは知ってるでしょ? その病気がね、私も病名なんて知らなかったんだけどね」
広瀬の見ている紙を、純子はひったくるようにして取ってめくると、ある言葉を指した。
「原因不明の腎臓機能不全症候群。お母さんが受けた診断よ」
聞き慣れない名だった。大体、純子の母親の死因は心臓がどうとか、という話だった気がする。
広瀬が首をかしげると、純子はうなづいた。
「あのね、お母さんの『心不全』っていう死因は、どうもこの腎臓なんとかの合併症らしいの。ええと、合併症っていうのは――ほら、ガンの人の死因は『ガン』じゃないって言うじゃない? ガンのせいで体が弱って『肺炎』になったとか、肺をやられて『呼吸不全』になった、とか。わかる? そういう、ガンが直接の原因じゃないけど、ガンのせいでなる病気を『合併症』っていうんだって。だから」
明らかに話についてこれない様子の広瀬に、純子はそこで一旦言葉を切って言葉を模索した。
「ええとね、順を追って説明すると、お母さんは2年前にこの腎臓なんたらを発症して、腎臓が働かなくなってたの。でも、この病気は進行していくばっかりで、治療することができない――治らない病気なのね。唯一助かる方法はあるけど、それは腎臓移植で……」
それでさっきの紙に移植の情報が載ってたのか。広瀬は納得してうなづいた。腎臓が悪くなるとどうなるのかなんて、あまり想像もつかないけれど、やっかいな病気もあるものだ。
しかし、腎臓病を患っていた、純子の母親はもう亡くなってしまった。それなのに今さら何を調べているのだろう。
浮かない顔で話の続きを待つ広瀬に、純子は淡々と説明した。
「だけど、腎臓移植は待っている人が大勢いて、この病気の場合、進行が早いから、待ってる間に死んじゃうの。かといって海外で移植するには何千万って単位のお金がいるし、だからどうしようもないんだって」
とすると、お義母さんを助けてあげようと思っても、助からなかったってことか。頭で情報を整理し、しばらくしてから広瀬は呟いた。
どんなに死が酷かろうと、何千万というまとまった金など、例え純子の親戚中を当たっても出てくるものではない。もちろん広瀬にもそんな金が用意できる当てはない。
それに銀行だって消費者金融だって、そんな大金をポンと貸してくれるところはないだろう。金がないと助からない病気ってのはあるんだな、と広瀬は漠然と思う。
「そう、だから助からないの」
純子が小さな声で言って、広瀬を見た。
うん、だからお義母さんの話だろ、それならもう――と広瀬は言いかけて、そして何か言いしれぬ不安に囚われた。
天井の白すぎる蛍光灯の光で、純子の瞳はなぜか青みがかってきれいだった。
そういえば、これと同じような色をどこかで見たような気がする。広瀬は眉を寄せて記憶をたどった。そのときは気にも止めてもいなかったけれど、もしかしてこれは――。
「……この病気は20歳を過ぎてから発症する、遺伝性の腎炎なの。症状としては、体のむくみや倦怠感、それに水晶体の青濁――瞳が青みがかって見えるんだって」
義母と同じ瞳の色をして、純子は泣き笑いのような表情で言った。
「ごめんね、圭ちゃん。私、死ぬの」
その言葉が冗談などではないことは明らかだった。呆然とする広瀬の目の前で、純子の瞳から唐突に涙が零れて落ちる。ひとつ、そして二つ――。
その冷たい滴は、広瀬の心を一瞬で凍らせた。
※
ざらついた雑音が鼓膜を不快に揺らしている。
それがラジオの音なのか、それとも強くなり始めた外の雨の音なのかわからないまま、広瀬は沈黙を守り続けた。
いま自分を見つめる佳純の瞳は、やはりあのときの純子の瞳と同じ色だ――彼が考えていたのは、やはりそんなことだった。
「……お義兄さん?」
佳純が少し首をかしげて、目尻の涙を拭う。
「……ああ、すまない。少し、ぼうっとして」
この青い目。病気は、佳純にも遺伝していたのだ。
広瀬はいたたまれない気持ちでウイスキー入りのコーヒーを飲みほし、少し投げやりな動作で二杯目を淹れた。
「あ、私にもいただけますかな。いや、こんなに旨いコーヒーは刑事なんて仕事をやってちゃ、めったに飲めないもんでね」
橋本が何を考えているのか分からない顔で笑う。広瀬は黙って空いたカップを引き寄せ、サーバーから残りのコーヒーを注いだ。
「……驚かれるのも無理はない。5年前に失踪した奥さんが、亡くなっていた、それも殺されていたというんですから」
再び丁寧にスティックシュガーを三本入れ、かきまぜながら、橋本が独り言のように言う。殺された、という無遠慮な言葉に、佳純が肩を震わせ、何度も目をしばたく。
「義妹さんにもお聞きしたんですがね、その……奥さんが家出をされた時の状況というのを、伺いたいんですが。ええと、奥さんが家出をされてすぐに警察に届けを出されていますね?」
橋本がポケットから引きずり出したメモを見ながら、広瀬に尋ねる。広瀬は静かにうなずいた。
「ええ、失踪した日に」
「その際、広瀬さんは家出の理由について、心当たりがないとおっしゃっておられるようですが、それは今も同じですか?」
「はい、まったく」
ふうむ、とため息をついて、橋本は佳純を見た。
「まあ、義妹さんもまったく心当たりがないと……」
「でも、私は当時、県外の全寮制高校に通っていたので、姉と会う機会もなくて……最後に会ったのは母のお葬式のときで……だから」
佳純は厳しいことで有名な進学校の名を上げると、橋本はぴくりと眉を上げた。
「失礼ですが、佳純さんのところは母子家庭でしたよね? それでお母さんも亡くなって、その、学校のお金はどなたが?」
「学校は、奨学金があったので……」
「ほう、なるほど。優秀でいらっしゃったんですね、こりゃ失礼」
いいえ、と佳純が少し笑って首を振る。橋本はコーヒーをごくりと一口飲むと、そうそう、と思いついたように言った。
「何でも、置き手紙があったとか――佳純さん宛と、それからあなた宛にも。残念ながら当時、内容の記録まではしていないんですが、実物をお持ちでしたら見せていただけますか?」
「それが……」
広瀬は緊張を悟られまいと、コーヒーを啜るふりをした。橋本が自然に広瀬を見つめる。
「……捨ててしまいましてね」
「ほう」
橋本は興味を引かれながらも、それを隠すように目を見開いた。
「なぜですか?」
「当時は突然、家出されて怒ってたんだろうと思います。ですからろくに内容も読まずに…燃やしてしまって」
「なぜ、奥さんが家出をしたかは気にならなかったんですか? いや、その手紙にはきっと出ていった理由が書いてあったと思うんですが……」
「あまり記憶にありませんね」
広瀬は肩をすくめると、佳純に視線を移した。
「佳純ちゃん宛の手紙には、何も書いてなかったんですか?」
「ええ、彼女はきちんと取って置いたんですがね……」
橋本は佳純に目顔で確認を取ると、これはもちろんコピーですが、と断り、ポケットから畳んだ紙きれを取り出した。
「ええと、『家を出ることにしました、探さないでください。すべては私の勝手で圭一さんは悪くありません、何かあったら彼を頼ってください』。これだけです」
「そうですか」
できればあの子にも、ちゃんとお別れを言いたいけど、と辛そうに机に向かい、むくんだ指でペンを取った純子の姿が、広瀬の脳裏に一瞬浮かび、そして消えた。手紙を書くにしても、もっときちんとしたものを書きたかっただろうに、と広瀬は今さらながら心を痛める。
言葉少なに言う広瀬に、橋本はため息をついて頭をかいた。
「こんなこと言っちゃあなんですが、広瀬さんは奥さんを探そうとは思わなかったんですか?」
「……どうしてですか?」
もう態度を取り繕う必要もない。
覚悟を決めた広瀬が橋本に顔を向けると、彼は咳払いをして続けた。
「この失踪は彼女の意志じゃないかもしれない、何か事件に巻き込まれたのかもしれませんよね? 普通の人なら心配になると思いますが……心配して、大抵の人は警察に何度も通ったり、チラシをつくったり、あとはそうですね――いつでも連絡が取れるように、電話を解約するなんてことはしないんじゃないかなと…」
「まさか、お義兄さんを疑ってるんですか? それなら――」
橋本の言葉に、涙目の佳純が小さく抗議する。しかし、橋本は佳純をなだめるように、へらへらとした笑顔でうなづいた。
「いや、どんな人でも疑ってかかるの警察でして。特別、お義兄さんだけを疑ってるわけじゃありませんよ。ただ、配偶者が殺されていたというのに、どんな風に誰が殺したのか、とも聞かないのもおかしな話だとは思いますけどね」
「そんなこと……」
ガタン、と椅子を鳴らし、佳純は裏切られたような顔をして立ち上がった。
「刑事さんは知らないかもしれませんが、私はお姉ちゃんとお義兄さんのこと、ずっと知って、わかってるんです。だってお姉ちゃんたちは私が小さいころから一緒にいて……喧嘩だってすることなかったし、すごく仲が良くてお似合いで、お互いを大事に思ってるのが私にだってよくわかって……だからお姉ちゃんに何かあったとしても、お義兄さんが関わってるはずがないんです。絶対に、お義兄さんがお姉ちゃんを……なんて……ありえなくて……」
涙声の佳純の言葉はだんだん嗚咽が混じり、そして聞こえなくなった。
「お義兄さんを疑うなんて、そんなこと……ひどい……」
佳純は両手で顔を覆って泣き崩れる。ラジオのニュースはいつの間にか終わり、女性の声で読み上げられる天気予報が、この先も数日、雨が降り続くことを知らせていた。
雨か。
広瀬はぼんやりと硝子窓を流れる雨粒を眺めた。降りやまぬ雨は、佳純の嗚咽と混じって、空が流す涙のようだった。
「……やってない、とは言ってあげないんですか?」
黙ったまま、外を眺める広瀬に、橋本が静かに言った。
「それとも何か、我々に黙っていることがあるんでしょうか」
広瀬は橋本を無視して、踵を返した。そして背後のキャビネットから薄青の大きな封筒を取り出し、そっと佳純に差し出す。
「これは……?」
不安そうな青い瞳で、佳純が広瀬を見上げる。広瀬は深呼吸して、そして言った。
「純子が君のために残したものだ。受け取ってほしい」
「お姉ちゃんが……?」
広瀬が小さくうなずく。そのうなずきに促されて、佳純のむくんだ指が震えながら封筒に触れた。
※
「……問題は、佳純のことなの」
それは純子が一通り大泣きし、ぶつけどころのない怒りを叫び、どうしようもない運命を呪って絶望し、ぷつんと糸が切れたように動かなくなってからしばらく後のことだった。
広瀬の胸に力なく頭を預けていた純子が、呟くように言った。
「あの子も20歳を過ぎたら、いつか発症するはずよ。いま15だから――あと最短なら5年ね。発症してすぐ死ぬわけでもないし、まだ猶予はあると思うけど」
遺伝性の病気でも、佳純ちゃんが発症するかどうかはわからないだろ。広瀬が言うと、純子は微かに首をかしげた。
「遺伝する確率は四分の一……25パーセントくらいだって書いてあったけど、でもそんなのわからないわ。だって、私も……」
その確率を引き当てたんだから、とほとんど消え入りそうな声で彼女は呟く。
「佳純が発症する可能性は十分にある。……だから、私、考えたの。どうせ死ぬなら、佳純の力になりたいって」
純子の声が、急に力強さを帯びる。彼女が何を言いたいのか分からずに、広瀬は黙ったまま純子の髪を撫でつづけた。
「あのね、圭ちゃん。私、生命保険に入ったの。死亡保障5000万のやつ。私が死んだら、佳純が受け取って、海外で移植ができるように」
病気じゃ、入れないだろ。広瀬が静かに答える。そうね、と純子は目を瞑り、それからやはり揺るぎのない目を開き、しっかりと広瀬を見上げた。
「だから、この計画を圭ちゃんに手伝ってほしいの」
私のために、と純子は付け足す。
こんなときまでいつもの計画か、と広瀬は思わず苦笑いして、それから言いしれぬ寂しさにぞっとした。きっとこれが、純子の立てる最後の計画なのだ。
計画ってなんだよ。君が死んだ時、病気じゃなかったとでも言えばいいのか?
広瀬はそう言って、思いがけず声を詰まらせた。「君が死んだ時」――冗談のように言ったその言葉は思ったよりも重たく、恐ろしい響きをしていた。
けれど、沈み込む広瀬とは裏腹に、純子はむしろ水を得た魚のように生き生きと話した。
「そんなのは無駄よ。だって、保険会社はお母さんの病歴を調べると思うから。だから、たとえ圭ちゃんが病死じゃないって言い張っても、保険は下りないと思うの。本当にはっきり『病死じゃない』ってことにしないと」
でもどうやって? 広瀬はため息をついた。
いま確かに、淳子は自分の腕の中で生きている。彼女が死んでしまった時の話などしたくない。
けれど、計画の内容はどうであれ、純子がいつものように楽しげに話しているのを邪魔したくはなかったし、それにここで二人揃って死への悲しみに暮れるよりは健康的な気がした。だから、広瀬は何も言わずに純子の話を聞いた。
「だからね、私、ちゃんと調べて計画したんだから」
純子は泣き腫らした目でウインクしてみせると、一度広瀬から奪い取った紙束をめくった。
「自殺はだめなのよ。それでも保険は下りないから。それに、死体が残ってたら、病気だったってことがきっとばれちゃう。だから、死体は発見されちゃだめなの。そう考えてくとね、方法はこれしかないのよ」
純子の指が、失踪宣告と死亡認定、という文字をトントンと叩く。そして、その言葉の意味が分からすに黙ったまま肩をすくめた広瀬に、純子は得意げに説明した。
「これはね、どういうことかっていうと、行方不明になってから7年経つと、法律でこの人は――つまり私は死んだってことになるってことなの。そりゃそうよね、行方不明になった人がいつまでも生きてるってことにされたら、離婚もできないし、相続もできないし、困るものね」
7年も行方不明になったら……。そんなに長い間行方が分からないのなら、たしかに死んでいてもおかしくないだろう。それに確かにどこかの時点で行方不明になった人は死んだ、ということにしないと、その人は行方不明のまま永遠に死なないってことになる。
考えたこともなかったが、言われてみれば便利な制度があるものだと広瀬は感心した。
「だからね、7年経ったら、保険会社はどうしても生命保険を払わなきゃいけないのよ。私が死んだっていう証拠、つまり死体がなくってもね」
そう言って、純子は誰もいないのにあたりを見回し、声を潜めた。
「つまり、計画はこうよ。私は死ぬ前に手紙を書くわ。あなたと、それから佳純に、そうね――家出します、探さないでくださいなんて、常套句でいいと思うけど…もちろん、日付もきちんと入れてね。それで、それから7年経ったら、裁判所に手続きをしてもらう、と。そうしたら晴れて私は死亡認定されて、生命保険が下りるっていう寸法よ」
相当調べたのだろう、純子はテレビドラマの筋を話すようにすらすらと言う。
「でも、実際の私は、もちろん失踪したんじゃなくて、病気で死んでる。そしてその死体は、人目につかない山かどこかに埋められてるってわけ」
どう? 完璧な計画でしょ? と、無邪気な笑みで純子は笑った。そして、それからふと気づいたように、保険会社を騙すんだから笑っちゃ悪いわね、と言って笑うのをやめる。
純子が笑うのをやめると、部屋は元どおり静かになった。部屋の中には、二人分の息づかいしか聞こえなかった。
それで、その山へ埋めるのを、俺にしてほしいってことか? ――しばらくして、広瀬は小さく尋ねた。
自分が死ぬなんて嘘は、誰だって言わないだろう。ましてや純子がそんな冗談を言う人ではないことは知っている。だから、口では「純子が死ぬわけない」と言いたくても、その死という未来は焼印のように広瀬の心に刻まれ、その未来を動かすことなど不可能に思えた。
だから、やはり自分に問われているのは、純子の計画を手伝うか否かなのだ。
広瀬は胸の中で自嘲気味に思った。それから泣きそうになりながら、死んでしまう純子に比べれば、生きて彼女の願いを聞くことなどなんでもないことなのかもしれない。そう思った。それが、彼女が望むことならば、俺は――
「そう。どこの山に埋めてもらうのかとか、どうやって埋めるのか、とかそういうところはもうちょっと考えないといけないけど……ね、完璧な計画でしょ?」
でも、それって賭けじゃないか? 広瀬が言うと、純子はどういうこと? と首をかしげた。
やはり彼女は穴のない、完璧な計画を立てたつもりでいるのだ。広瀬は笑って――それから真面目に言った。
そりゃ7年、見つからなきゃいいよ。でも、見つかったらどうするんだ? 保険金も下りないし、埋めた俺が死体遺棄とかで捕まるだろ。だって、死体が勝手に埋まるわけがないんだから。
「ああ、それは大丈夫よ。圭ちゃんを犯罪者にはしないって言ったでしょ」
純子は笑って胸を張った。
「もし7年より早く発見された時のために、私と一緒に埋めてもらう用の遺書を書いておくから。ちゃんと劣化しないビニール袋に入れて、すべての計画は私が立てました、圭ちゃんは仕方なく私を埋めてくれただけですって。そうしたら圭ちゃんが捕まることなんてないわ」
まあ、運が悪かったら執行猶予付きの罪がついちゃうかもしれないけど、と純子は肩をすくめる。
そういうことじゃなくて、と広瀬は頭をかいた。俺はどうでもいいよ。でも、7年より早く発見されたら、肝心の佳純ちゃんにお金が残せないじゃないか。この計画は、佳純ちゃんにお金を残すためのものだろ。
「まあ、そうね」
そう言って、純子は少し悲しそうな顔をして、それから弱気な気持ちを吹き飛ばすように頭を振った。
「でも、賭けてみる価値はあるわ。だってそうでもしなくちゃ、絶対に佳純を助けるお金はつくれないんだもの。そりゃあ、一番いいのは、佳純が発症しないで幸せに生きてくれることだけど。でも、それでも私が死んじゃったら、佳純には肉親は誰もいなくなるんだから、お金はあったほうがいいわ。あの子は頭がいいから、きっといい大学に進んで、世の中の役に立てる子になると思うの」
純子は自分を奮い立たせるように、そう言う。
でもそんなにうまくいくもんかな、大体、何にしても君の立てた計画がうまくいった試しもないし。
考えることに疲れ、広瀬がわざと明るくそう言うと、純子は子どものように口を尖らせた。
「うまくいく、っていうか、命をかけた計画なのよ? 私だってすごく勉強して調べたんだから今度こそ大丈夫よ。だから、圭ちゃんは安心して、私を埋めることだけしてくれればいいから。ね?」
純子はそう言って、それから思い出したように小走りで箪笥の中から通帳を取って戻った。
「保険料はこの口座から引き落としになってるの。お金は手続きの時間もあるから、余裕を持って8年分、私が計算して入れておいたから。お願い、圭ちゃん」
8年分の保険料? そんな大金、どこから引っ張ってきたんだ?
驚いた広瀬が尋ねる前に、純子は胸に顔を押し付け、ぎゅっと広瀬の体を抱きしめた。その力の強さに、広瀬は言葉を失った。
「私のために、お願い」
そう請われ――返事をする代わりに、広瀬は彼女の体を強く抱きしめ返した。
――お願いね、圭ちゃん。
それから病気が進行して、寝たきりになっても、そのか細い声は変わることなく、純子は広瀬の手を取り、同じ言葉を繰り返し言い続けた。
そして、すべての準備が整った1年後、彼女は広瀬の手を握ったまま、帰らぬ人となった。
※
「これは、彼女がかけていた生命保険だ。受取人は君になっているから、請求するといい」
「え、でも、どうして……」
佳純は封筒を胸に抱いたまま、ぽかんとして広瀬を見つめる。
「それから……」
何か言いかけた橋本を制して、広瀬は戸棚の奥に仕舞っておいたコーヒー豆の大袋をカウンターに置いた。そして、自分の一挙一同を見逃すまいとする橋本に見せつけるように、中からゆっくりと透明なビニール袋を取り出した。
「お義兄さん……」
そのビニール袋の中身を見て、佳純が細く、かすれた声を上げる。膝が痛いとうそぶいていた橋本も身軽に椅子から飛びのき、佳純を後ろに下がらせた。
「広瀬、それを置け」
容疑者に格下げした途端、呼び捨てか。広瀬は少し頬を緩めた。
けれどそこは言われたとおり、手に持ったビニール袋をカウンターの上にそっと置く。
カタン、とビニールの中のナイフが小さな音を立て、ところどころ黒く汚れた刀身が、照明を跳ね返してきらりと光った。
「それは……」
不意をつかれた橋本が、言うべき言葉を模索する。
「凶器、ということでいいのか?」
「はい」
広瀬は簡単にそう答えると、両手を軽く上げた。
「逮捕してください。……純子を殺したのは、俺です」
「そんな、お義兄さん、どうして……」
言葉にならない声を上げて、佳純が床にしゃがみこむ。橋本が素早くカウンターの中に入り、広瀬を後ろ手に手錠をかけ、器用にも同時にポケットから出した携帯を耳に当てた。
「どうして、お姉ちゃんを殺すなんて……」
「別れると言われて、かっとなった」
できるだけ淡々と広瀬は答えた。もう佳純と会うこともないのだ。きっぱり別れたほうがお互いのためだろう。
応援を呼んだ橋本がパチンと携帯を閉じ、広瀬をカウンターから引きずり出す。佳純は呆然としながらも、懸命に広瀬をかばった。
「刑事さん、違うんです、きっとお義兄さんは……何かの間違いです、お義兄さんはそんなことできる人じゃ……だってお姉ちゃんたちは……」
「詳しいことは署で聞きますがね、自白もしているし、凶器もあるので残念ながら……」
橋本がそう言って肩をすくめる。そのとき、ドアベルのうるさい音と共に、応援の刑事たちがなだれ込むようにして乱入し、店内は一気に騒がしくなった。
「凶器はそれ、コーヒー豆の袋の中に隠してたようで」
広瀬の腕をつかんだまま、橋本があごでナイフをしゃくる。それに応えて駆けつけた刑事の一人が、慣れた様子で事実の確認をした。
「ナイフね、骨に残ってた刃物痕と一致するか、鑑定に回そう。それで、自白があったって?」
「ええ、詳しいことはまだですが。とりあえず連れてきますわ」
「はい、よろしく」
「ほら、行くぞ」
橋本が強引に広瀬の腕を引く。
「お義兄さん!」
純子によく似た、佳純の細い声が広瀬を呼ぶ。
――ね、完璧な計画でしょ?
広瀬は大人しく連行されながら、純子の得意げな顔を思い出す。馬鹿だなあ、と広瀬は口の中で呟いた。
まったく、何が完璧だよ。君の計画が完璧だったためしなんか、なかっただろ。
外に出ると、冷たい雨が広瀬を濡らした。
「頭、気をつけろよ」
橋本がそう言って、広瀬を車に押し込む。広瀬はぐったりと車のシートに体を預け、目を閉じた。
――本当なら、純子の立てた計画通り、彼女の遺体が7年以上見つからないことが理想だった。そうすれば生命保険は下りるし、そのときにもし佳純が発症していれば、その治療の資金になるはずだった。
そうすれば、広瀬も佳純もごく当たり前に日常を――彼女がいないだけで、他は以前と何も変わらない日常を過ごしていけばいいはずだった。
けれど、広瀬は純子の計画を信じなかった。だからこそ、いつものように行動を起こした。つまり、彼女の立てた計画の穴を埋めたのだ。
それは、純子が息を引き取った明くる朝、ぼんやりと彼女の残したものを眺めていたときのことだった。
目の前には、ビニールでくるまれた遺書に、佳純と自分宛の偽の置き手紙。それから保険の書類と、保険料の入った通帳が並べられている。あとは、広瀬がこの遺書と冷たくなった純子を、彼女と選んだ松賀山に埋めればいいだけだった。
しかし、彼女の計画に穴があることを疑った広瀬はそのとき、通帳をめくり、その残高を見た。そして予感通り、その額がおかしいことに気付き、保険の書類を見返し、それからもう一度通帳を見た。
――余裕を持って、お金は8年分入れてあるからね。
得意げに言った純子の、無邪気な笑顔が広瀬の胸に浮かぶ。広瀬は目に新たな涙を浮かべながらも、笑いをこらえ切れなくなって、思わず声を上げて笑った。
口座に入っていたのは、8年分どころか、一桁足りない額――1年分にも満たない金額だった。
数字は合っているから、一生懸命に紙に計算をして、最後にゼロの数でも数え間違えたんだろう。どこから生命保険8年分もの大金を用意したのかと不思議には思っていたが、つまりはそういうことだったのだ。
動かない純子の横で広瀬は笑い続けて、涙が出て、疲れて喉が痛くなって、そして咳払いをして、やっと黙った。
命をかけた計画だなんて大袈裟なことを言っておいて、単純な計算間違いをする、馬鹿やつだよ、君は。
冷たい純子の頬を撫でて、広瀬は悲しみに暮れた。馬鹿だなあ、そう広瀬が言えば、純子はすぐにむくれて言い返すはずなのに、いまは彼が何度そう呟いても、彼女ははぴくりとも動かなかった。
純子は死んでしまったのだ。それはわかっているのに、広瀬は純子に言い返してほしくて、何度も何度も、君は馬鹿だ、と繰り返した。
そして、彼女に言葉をかけ続けてもう一晩過ぎた頃、広瀬は彼女の計画を完遂することを誓った。
硬直していた純子の遺体は、時間が経って再び柔らかくなっていた。広瀬はそっと彼女を車に積み、松賀山へ向かった。そして用意しておいた穴に彼女を入れ――それから店から持ってきたナイフを手にしたのだ。
もし、君の計画通り、君がずっと見つからなければそれでいいんだけど。
広瀬は純子が封をしたビニールを破くと、中の遺書を取り出し、ライターで火をつけた。彼女の可愛らしい丸文字が、あっという間に真っ黒な灰となり、風に飛ばされて消えていく。
もし、7年以内に君が見つかって、かつ、そのときに佳純ちゃんが発症していたら? 君の計画じゃ、保険も下りないし、佳純ちゃんも助からない。それにそもそもお金の計算間違いなんて単純なミスをする君の計画に、ほかに幾つ穴があってもおかしくない。だから……
広瀬は手のナイフを純子に向け、肋骨のあたりにゆっくりと刃を差し込んだ。できるだけ骨に当たり、刺されたという証拠が残るように、力を入れて。それを何度か繰り返す。心臓の止まった純子の胸から血は流れず、包丁にはどす黒い血液がついた。その血のついた包丁を、広瀬はさきほど遺書の入っていたビニール袋に大事に入れて、大きく息をついた。
君はいまから腐り、骨だけになる。けれど、この骨に付いた傷は、君が誰かに刺されたことを証明するだろう。
骨に付いた傷がナイフによるものだと断定されれば、それが生前についたものか、それとも死後についたものかなんて、警察は調べないだろう。だって、死体をわざわざナイフで刺すやつなんかいない。そうだろ?
つまり、これは、俺が君を殺したことの証明になる。いいか、これが殺人なら、佳純ちゃんに保険は下りるんだ。だからそのときは、俺はこのナイフを証拠に、君を殺したと告白するよ。
……でもそのとき、もし、佳純ちゃんが発症していなかったらって?
そうだな、それでも証拠のナイフを出さなけりゃ、俺が殺したなんて物証は一切ないんだ。しらばっくれて――君には悪いけど『あんな女、出て行ってくれてせいせいしたよ』くらいのセリフは言ってやるつもりだ。だから――。
あとのことは心配するな、そう呟いて、広瀬は山を下りた。
おっちょこちょいな純子のおかげで、彼女が死んでしまったあとにも、俺にはまだやることが残っている。一桁間違った保険料のために、せいぜい店を繁盛させて、出来るだけ早く、金を口座に入れなきゃいけないからな。
広瀬は繰り返し、自分にそう言い聞かせた。
それから広瀬は働き続け――3年前にその金は貯まった。
これでいつ純子が見つかっても、佳純が発症しても、悔いはない、そう考えた彼は、徐々に店へ出る時間を減らし、ずっと待っていたのだ。客ではない誰かが、ドアベルを鳴らすその日を。
「やってくれ」
バタンと車のドアが閉まり、橋本が運転席に声をかけた。はい、と若々しい声が答え、そして車はすべるように走り出す。
雨はまだ止むことを知らなかった。広瀬を乗せたセダンは、滑らかな速度で雨を跳ね、道の向こうへ消えていった。
【完】
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