旅立ちの前に
さようなら、さようなら。愛しい故郷。愛した人達。
さあ、旅立ちの準備を始めよう。
イミーナ・グランデールはその日、16歳の誕生日を迎えた。16歳というのは、この国の女性にとっては特別な意味を持っている。
イミーナが産まれた広大な土地を支配するエグゼス帝国は、《アカファリテの大祭》と呼ばれる年に一度の豊穣祭を帝都で行っている。一週間にも及ぶ大祭は、各地で採れた新鮮な果物や珍しい菓子類、貴金属、美味しい屋台が連なり、帝国各地から商人や観光客が押し寄せてくる。
年々その規模は拡大を遂げ、今では国を挙げてこの大祭を支援している程だ。帝国の粋を集めた大祭は、今では各国から大量の観光客が訪れる一種の観光行事と化していた。
その《アカファリテの大祭》の目玉と言えば、帝国中から集められた16歳の三人の乙女が竜の巫女姫として大祭期間中、様々な催し物に出席する事だろう。無論その乙女数人は見目麗しい少女が選ばれ、大祭期間中はあらゆる贅を凝らした食べ物を食し、普段は会えないような高位貴族、果ては皇族とも面談が叶うという。また選ばれた少女は大祭後、貴族から平民に至るまで数多くの縁談が舞い込む事でも有名だ。
16歳となった少女がこの年齢に特別な意味を見出だしているのも、それだけ理由のある事なのだ。
イミーナは、その乙女に選ばれてはいないものの、他の家族全員がこの大祭の運営に関わっている。
神殿の巫女である聖女と名高い姉、エリアナは竜の巫女姫として選ばれた少女達の礼儀作法を教え、大祭期間中は様々な伝統儀式に則った儀礼に出席する。これはエリアナが巫女となってから長く続いた儀礼的な行事だ。
若き皇帝の懐刀と呼ばれる騎士の兄、オズワルドは皇帝の警護に当たっている。オズワルドは皇帝の側近中の側近。特に目を掛けられた存在として近衛騎士からの人望も厚く、皇帝の影にオズワルドあり、とも言われている孤高の騎士でもある。
そして叔父の帝国宰相は、影で運営を支え、各所に指示を出し大祭が恙無く滞りなく収められるようその辣腕を振るうのだ。
丁度大祭期間前に16歳の誕生日を迎えるイミーナにとって、忙しい最中にも関わらず時間を割いてささやかな誕生日会を開いてくれる家族に、毎年申し訳なさと共に切なさが沸き起こってくる。駄々を捏ねた子どものような言い訳だ。イミーナには過ぎた家族、家名を持って生まれたことが不幸の始まりなのかもしれない。
イミーナの両親はイミーナが幼い頃に事故で亡くなっている。だからこの三人が本当の意味で家族であり、叔父はイミーナにとって養父という掛け替えのない存在でもあった。
―――イミーナは貰われっ子。
―――なんであんな子が、あのお二人の妹なの?
幼い頃から幾度となく繰り返し周囲で囁かれる悪意の無い呟きに、イミーナは心身共に疲弊していた。
今もそう。イミーナの誕生日会だというのに、訪れる客の殆どがイミーナではなく、イミーナを祝うためだけに神殿や皇城から駆けつけてくれた姉や兄、叔父を目当てにやって来ているのだ。
皆普段からその役目によって多忙な為、家族一同で過ごすことなど最近では殆ど無いと言って良い。優しい姉や兄は時折家に帰ってきては、イミーナの近況をつぶさに聞き、また珍しい菓子などがあればプレゼントしてくれ、何くれとなく世話を焼いてくれる。
二人の過保護なその様子に、イミーナはいつも申し訳なさと切なさと有り難さで、心が掻き回されるような複雑な思いを抱いてしまう。
高名な二つ名を抱く姉兄二人が心を砕いて接してくれるのは、イミーナが二人の妹だから。
それ以外に理由などない。ただ、それだけだ。
『イミーナはとても優しい子ね。どうか貴女はそのままで居て頂戴』
そう笑う姉の優しさに癒された。
『イミーナは凄いな。でも、一人で頑張らなくても良いんだぞ? 少しは周りの力に頼って良いんだからな』
そう励ます兄の強さに力を貰った。
『イミーナ。何でも良いから大事な物を作りなさい。そうすればお前はもう、それを糧に生きていける』
そう諭す叔父の温かさに涙した。
大好きな、大好きな家族。
でも、何処かその距離は近くて遠い存在だった。まるでそれは、遠くにあるキラキラした物を近くて遠い場所から眺めるように。
イミーナだけが、部外者だった。
広く名の知れた誇り高い姉と兄はイミーナにとっても大切な存在だ。
けれどそれは、イミーナ以上に帝国の人間であれば憧憬を抱く存在でもある。今もイミーナの誕生日会に訪れた客は、イミーナにおざなりなお祝いの言葉を述べると直ぐ様姉や兄の側に行き、そわそわと落ち着かない様子で話し掛けに行くのだ。
イミーナに友達は居ない。
きっと誕生日会を抜け出したとしても、話し掛けてくる客のあしらいに忙しい家族や招待客は気付きもしないだろう。
そう思えば途端に逃げ出したくなって、イミーナは自然な仕草で誕生日会が行われているホールを抜け、警護の隙を見計らって家を飛び出し、イミーナが幼い頃から足繁く通っている屋敷の裏手に広がる帝都の森へと入っていった。
長い裾のドレスをたくし上げ、小走りに歩いているイミーナの姿をもし誰かに見られれでもすれば、きっと卒倒されることだろう。なにせこの国の女性達は素足―――特に踝より上の部分―――を見せるなど、下品ではしたないことだと教えられているのだから。
帝都の森は広く、奥深くまで行けば清廉な空気を纏う大きな滝や神秘的な森林群が広がっているけれど、今はそこまで行く必要はない。森の入り口から徒歩二分程度の所にある湖が、イミーナお気に入りの場所であり目的地だった。
―――それは一種の賭けだった。
今は深夜に差し掛かっていて、月の明かりが照らしているとはいえ夜も深いのだ。だから、そこに目当ての人がいるかどうかなんて分かる筈もない。たくし上げていたドレスの裾を下ろし、軽く衣裳を整えて深呼吸し、イミーナは開けたその場所に一歩踏み出した。
「やあ、イミーナ。良い夜だね。今日はどうしたの?」
ああ、彼だ。
じんと胸を熱くするその姿に、イミーナはぽかぽかと温かくなる胸をそっと抑え、さくさくと草を踏んでその人の元へ歩いていく。
ああ本当に、なんて美しい人なんだろう。その姿を見ただけで、イミーナは泣きたくなる程の愛しさに襲われる。
湖畔に腰かけたその人は真っ直ぐにイミーナを見てにこりと微笑んだ。
銀糸で紡いだかのような美しい銀の髪は流れるように背中の中程まで流れ、その広い背を覆っている。ゆったりと着崩した白絹の衣装と相俟って、その人の回りがまるで光っているようにも見える。
深く闇色に沈んだ湖との対比が眩しくてイミーナはその幻想的とも言える光景に目を細めた。ぽんぽん暗に隣に座るよう誘うその人に微笑み返し、イミーナはスカートの裾を払って腰を下ろした。
「お誕生日会だったのだけど、抜け出してきたの。明日から大祭だっていうのに、皆暢気なものよね」
努めて明るく肩を竦めれば、その人はくすくすと笑って肯定する。その透き通る声色のなんと涼やかなことか。
イミーナは失礼にならない程度にじっとその人を見つめた。
「ああ、そうか。イミーナは今日16歳になったんだね。おめでとう、イミーナ」
「ありがとう。ギュスターヴさん」
「ふふ、イミーナ。ギルで良いといつも言っているだろう?」
「はい、ギル」
ギュスターヴ――ギルは、イミーナが4歳を迎える年に出会った男性だった。
当時、どうしても耐えられない出来事があって森へ逃げ込んだ所を保護してくれたギルは、また何か吐き出したい事があればこの森へ来れば良いと言ってくれた優しい人だった。本来であれば警戒して然るべき相手なのかもしれないけれど、家族以外で初めて他意のない眼差しを向けてくれたギルは、イミーナにとって特別な人でもあった。
そう、イミーナとギルとの出会いがとても一般的なものであったのならば、恐らくこんなにも親切にしてくれるギルを不審人物だと断定すしていた事だろう。
けれどイミーナがそうしなかったのは、一重にギルがイミーナに向ける感情は慈しみだとか親愛だとか、凡そ家族や恋人へ向けるようなものであったが故だ。
もしこれが演技だったとしても―――例えば、イミーナを篭絡する為の罠であったとしても―――何かの拍子に裏切られても構わないと思う程、イミーナはギルという一人の男性に傾倒していた。
ギルは森の番人のような役割をしているらしく、ギルが許可した人間でなければこの森に入ることは愚か、森の結界を通り抜けることも出来ないのだという。
ギル曰く、イミーナが初めて来たときはまだ幼かったから結界などに反応せず入れたのだろうと言う。ギルと会って話をし、その後森へと自由に出入りする許可を得たイミーナは、家族の目を盗んではこっそりとこの場所を訪れて、ギルとの交流を深めていた。
ギルは、イミーナを傷付けはしない。それが何となく分かっているからこそ、イミーナはギルの側に来るのだった。
「ねえ、ギル。私ね、この国を出ようと思うのよ」
唐突に、イミーナはそう切り出した。
その目に映る感情を見たくなくて、努めて淡々と地面を見つめて言い募った。
既に心の中に決めてはいたけれど、でもギルがどういう反応をするのか怖かった。
「もうこの国に未練は無いわ。…だって私の居場所は何処にも無いんですもの」
思い浮かぶのは、イミーナを蔑み疎んだ人達の顔ばかり。
正直、この国で経験した良い思い出は、かけがえの無い家族たる兄や姉、叔父と過ごすことの出来た貴重な日常だけだ。後はそう、イミーナにとってはもう一人の兄か、或いは過保護な親のようなギルだけだった。
この国に居ればイミーナには必ず家族の評判がついて回る。この国でイミーナは、常に針の筵に晒されていた。それはイミーナ自身が望むと望まないとに関わらず、だ。
多分この国にこれからも長く居続ければ居続ける程に、苦しい環境に身を置くことになってしまう。
そうした生活が生涯を通して続くなど、イミーナにとっては拷問にも等しかった。これまでだって、姉や兄が居たからこそ耐え続けられたのだ。
けれどもう、16歳となったイミーナ自身には、最早その環境に耐えられるだけの気力は残ってはいなかった。
「……そう。寂しくなるね」
寂しいとそう言ってくれる人が一人居るだけでも嬉しい。思わず口元が綻ぶと、ギルは僅かに目を細め、イミーナの頭を撫でてくれた。
その感触が心地よくて頬を緩め僅かに俯いたイミーナは、ギルの目に浮かぶ凶暴な鋭い眼差しに気付くことは無かった。
「それじゃあ、出発する日になったら、必ず此処へ寄ってくれるかい?」
「ここへ、ですか?」
「うん、そうだよ。約束してくれるね?」
約束してくれなければ、ここからは出してあげないよ。
そんな声に押され、いつになく強引なギルに少しだけ疑問が浮かぶものの、当初からその予定にしていたイミーナは、一も二もなく頷いた。いや、寧ろイミーナにとってギルの言葉は本当に歓迎するべきものだったのだ。
―――一人で旅立つ、という事こそ寂しいものはない。例えそれが、自分自身で決めた事であったとしても。
それからイミーナは飽きることなく今後の展望を努めて明るくギルと話し、未来への希望に胸を膨らませていた。
*
「この国を出る、か。悪くないのかもしれないね」
手を振って去っていくイミーナを森の入口から見送って、ギュスターヴは静かに湖畔へと戻った。
空を見上げれば、美しい二つの蒼月が浮かび、静かに月光を地上に照らしている。ギュスターヴにとってこの場所は、例えるならば休息地の一つ。決してこの土地に縛られているわけではない。
ギュスターヴを知る者達は何か勘違いしているようだけれど、元々ギュスターヴがこの地に在ったのは、愛しい存在がこの地に留まっていたが故のこと。
その存在が居なくなるのであれば、ギュスターヴがこの地に執着する理由など無かった。
「さて、私も少し準備をしないといけないね」
掌に浮かび上がった光の玉を森の数か所に飛ばし、ギュスターヴは手近な石に腰かけて、ゆっくりと空を仰いだ。
面倒なことこの上ないが、ギュスターヴがこの森を離れたと同時に警報装置のようなものが城に鳴り響いてしまうことだろう。いっそ探査の術を破り、すべての警報装置を切ってしまうかと考えるが、それだと余計に怪しまれてしまうだろう。
この国の人間は嫌いではないが、好んで近づこうとは思わない。
それが今代の皇帝であれ、官吏であれ同じことだった。
「楽しみだね、本当に」
ギュスターヴはそっと息を吐いて、夜明けを静かに待ち続けた。
朝はもうすぐ側まで迫っていた。