世界の神話
少女の小さな音色が鳴り響いているバルコニーの様子を、オフィスにいた女性が見つめていた。彼女は暫く微かな音色に耳を澄ませると、中断していた作業に戻った。湯気をふわふわと上げているカップの中のほろ苦いコーヒーを飲みながら、報告書の内容に目を通していく。
世界各地を飛び回っているウォークライムは、任務遂行において生じたもの報告することを義務付けられている。それも、先に依頼のあった場所を調査してから、彼らがその場に行くのが順序になっているのだが、あまりにそこが遠すぎていたりすると調査隊が行くことができなかったりするので、彼ら自身に行動を委ねることが少ないとはいえある。
「・・・弦に支障をきたすなんて、どうなってるの」
鉄が錆びたり、調律しなければ音が狂ってしまうことと同じように、クライムも音が変わったりその能力が劣化したりする。だから、メンテナンスは定期的に丁重かつ厳重に行われているのだ。
それなのに、演奏中にクライムに傷が付くのはどうしてだ。よっぽどのことがなければ、精霊たる彼らを傷つけることなど出来るはずがないのだ。それは、本人たちもそう言っていたのだから。
「・・・彼女が向かったのは、何処だったかしら?」
「此処から東南方向に位置しているフォーリアという教会管轄の街があった所ですよ、所長」
「旧大戦で消滅した街だったわね・・・」
レイーシャの斜め後ろに立っている彼女の秘書官である男性が告げたその街の名前は、現在存在している大陸地図の中からは消えてしまっている街の名前だった。
――先の戦争が勃発していた時期に、多くの街が消え、多くの人が亡くなって、多くの小国が滅ぼされ、多くのモノが歴史の中から姿を消した。過去に消え去ったモノを、覚えている人がどれくらいいるのだろうか。多いとは、決して言えないだろう。
フォーリアという街は多くの亜種族が生活していたことから、階級差別の激しい軍事系国家から真っ先に狙われてしまった国だ。普通の人間と違って亜種の血がその身に流れている者達は、種族によっては本当に強い力を持っている。学者たちによれば、武闘系亜種・白虎は、普通の人間の能力値と比べてみると、約六倍から八倍も能力値が高いらしい。
亜種は歴史を振り返ってみると最下層種族として虐げられていて、白虎はそんな亜種の中でも逆に人間を奴隷のように扱っていた歴史がある。それも災いしてか、フォーリアは跡形もなく消滅させられて、住人たちは各地に飛散したと言われている。
だが、最期まで戦い抜いた白虎だけは、生き残りがいるのかすら分からない状況だった。絶滅したのではないかと、たった数年前のことなのにそう考えられているのは、人間側も多くの犠牲を出してしまったからだ。亜種の中には、彼らを探しているものもいると言うのに。
「弦爺様に見解を伺ってみたところ、弦の残滓からアリシア嬢が向かった戦場にいた霊が強力な霊力を持っていたのではないかと。フォーリアの近くだったことから、本人も霊が亜種のものだったと推測されているのでは?」
「相変わらず洞察力が鋭いわね、ハリス」
レイーシャが報告書に目を落とせば、備考欄のところに秘書官ハリス・ローツェルの言ったとおりのことが報告されている。新調された弦には、対霊力用に強いコーティングが掛けられていたという記述もあった。
科学と魔法の混じったこの世界において、唯一不確定な存在だといわれているのは『霊』というものである。それは、その存在が科学でもなければ魔法でもなく、生死の境という人界の外の存在だからだ。大人でなくとも、子供だって知っている世界創世記がそう告げている。
* * * * *
――遥か忘却の彼方に、この世界は創造された。神は、世界という名の箱庭に美しさを望んでいた。我々人間は、その中で大いなる罪を犯した。『七つの大罪』と称されて我々の中に眠っている「暴食」、「色欲」、「強欲」、「憂鬱」、「憤怒」、「傲慢」、「嫉妬」という名の罪。
我々の歩んできた歴史とは欲という物で形成されているが、ひとつだけ違うものがある。生死の境の存在である『霊』という存在だ。我々の死後の姿であり、我々の生前の姿であるとも言えるだろう。どちらが正解かは誰にも分からない。
そして、『精霊』という存在。唯一、霊と渡り合うことが出来る世界の調停者。そして、彼らは彼らの持つ独特な波長が適合するものにのみ従うのだ。ウォーカーの起源はここにある。たった一人の天使が、精霊と心を通わせることで、初めて世界に渦巻いていた霊を昇天させることに成功した。ここで初めて精霊は語ったのだという。
『霊とは、生死の境という人界の外の存在だ』
大地に縛られたままの哀れな魂を、精霊とウォークライムが響かせる音にだけ彼らは応じ、絡まりついた想いから解放されるのだ。
* * * * *
「・・・・・・」
冷め切ってしまったコーヒーを口にすると、じんわりと苦い風味が広がる。そと同時に、レイーシャの眉間に皺がよった。頭の中に浮かんだことも含めて、情報を整理していくと頭の中にあるひとつの答えが浮かび上がった。もしかしたら、あの子が――だから・・・?
「・・・・・・」
「?どうかなさいましたか、所長」
「・・・いいえ、何でもないわ。それより、もう一杯コーヒーもらえないかしら」
「わかりました。すぐにお持ちします」
丁寧にお辞儀をしたハリスが出て行くと、レイーシャは立ち上がって、今まで座っていた場所の後ろにある窓辺にたって小さくつぶやいた。
「『聖女』の再来、か・・・」