藍色の音色
明るい声に迎えられたアリスは、ぎこちなくも何とか挨拶を返しながら自分が唯一落ち着ける空間である自室へ戻ってきた。アリスの自室は殺風景というよりは、むしろ生活感の感じられない部屋だった。家具も、片手で数えられるくらい少なかった。
部屋の中央に存在を主張するように置かれているキングサイズのベッドに、その横にある高さのある机。そして、壁に沿って食器や本の収容されたチェストとクローゼット、窓際に置かれた二人がけの柔らかなソファー。それから、バルコニーに通じる扉の前に置かれたこれまた高さのある小さな机がある。
アリスは迷うことなくベッドに向かってダイビングした。
アリスの華奢な身体を受け止めたベッドは、全く軋んだりしなかった。ルキはそんな彼女を呆れたように見ながら自分もポフンという音と共に小さく変化すると、ベッドの上に上がってグーンと背を伸ばした。やはり、狼には見えない。そのままルキは、ごろんと仰向けになったパートナーの少女に向かって声を掛けた。
『アリス、疲れたのか』
「別に疲れていないですよ。僕のことよりも、ルキはどうですか?」
『我にその問いは不要だ』
ルキは見た目が狼だろうと、その存在は正しく位置付けすると『楽器』という名の精霊だ。精霊にも種別もあるが、ルキはその中でもかなり高位の存在なのか人間で言うところの感情や感覚が希薄で、アリスがしっかりと変化に目を向けていないと彼は自分について関心がないので音の調子が悪くなるまで放っておくのだ。
楽器とウォークライムの関係において、お互いの状態を把握しておくことは何よりも大切なことだと言われている。というのも、彼らへの依頼は不定期にやってくるので、緊急で要請が来た場合にすぐ旅立てるようにしておかなくてはならないからだ。
・・・とはいうもののアリスとルキの場合、アリスの方も自分のことには興味がない。正に、ウォークライムの中でも一番特異的な組み合わせの者たちだ。
「・・・・・・」
そっけなく寝息を立てて眠り始めたルキを見ながら、アリスは寝返りを打って仰向けになる。黒髪がぱさりとベッドに広がる。ぼんやりとしながら、ルキを起こさないようにそこから降りて、バルコニーの前に置かれている机の上にひっそりと存在しているモノを手にとる。
透明なガラスのケースに見える永遠の氷結という名の結晶に包まれているモノを見て、アリスは小さく息を吐いた。それは、この世界では大切にされているもので、大切なものを保存するために使用されている。
全てが支給品である家具の中で唯一アリスが所有しているもので、水鏡色のその中には、銀色のネックレスが存在していた。修繕と塗装を何度も繰り返して行ったせいで脆くなってしまったそれは、今では観賞することしか出来ないものになってしまっているが壊れてしまうより何倍も好かった。
じっと見つめながら、それを覆っている結晶の表面を今にも壊れてしまいそうなガラス細工を触るように、繊細な手付きで撫でると、アリスはその鮮紅色の双眸を静かに閉じる。
・・・何処かに存在している、僕の家族への道標。
思い出すのは、もう十数年前の朧にしか思い出せない家族との最後の記憶だった。失われていく熱と、泣き叫ぶ子供たちの悲痛な涙――鮮紅色に焼きついたままの、愛憎と悲壮の旋律。
『お前は、生きているのが辛いか?』
そう聞かれたのは、あの日が初めてで最後だった。あの日から、そう感じたことなんて一度も無かった訳ではなかったけれど、心のどこかでそう感じていたかもしれないなと他人事のように思うのはアリスのクセだ。
『アリス、そなた泣いているのか』
「・・・僕の涙は、誰かの流した涙です」
いつの間にか傍にやってきていたルキは、アリスに寄り添うように立っていた。手にしていたそれを机に戻してアリスは言った。その拍子に、彼女の瞳から一滴の涙が零れ落ちたが、その表情は涙を流しているようには見えなかった。
アリスがそっと撫でてやると、ルキはその姿を一瞬でハープへと変えた。銀色の美しいそれを片手に、彼女はバルコニーへと歩みを進める。夜と夕方の入り混じった幻想的な色の空を見ながら、アリスはそこへ立つとハープを構えた。
そして、その指先がゆっくりと弦を弾き始めた。緩やかに流れる音色は、悲しげで、祈りか悲壮か。はたまた、誰かへのレクイエムなのか。少女の頬を、一筋の涙が伝って落ちた。