4
村長の家の三階。明かりも点いていない真っ暗な部屋の窓。そこに白い人型が立っていた。
それはしばらく窓際で立ったままだったので、ぼくは廃墟に出るという大破壊の日に死んだ旧時代の人の幽霊を連想したりしてドキドキした。けれどもちろんそんなことはなくて、やがてその人は一歩窓に寄り、月明かりがその姿をしっかりと照らし出した。
その時のぼくの気持ちをどう表現したらいいのか、とても迷う。見とれてしまった、というだけでは全部言い切れていない気がする。本当にその人の姿だけを見つめて、周りの窓とか壁とか屋根、屋敷、空、通り、みんな真っ黒になって、白い姿が浮かんで見えていたんだ。
あの女が白いドレスを着て、窓際から空を眺めている。どのくらいそうしていたのか、ぼくには記憶がない。でも、そんなに長い間じゃなかったと思う。
白いドレスは多分トート村長が用意したんだろう。村長には娘がいて、十五歳まで一緒に暮らしていたけれど、「掟」に従って三年前ボゴタシティへ行ってしまった。多分今頃ボゴタの有力者か何かの奥さんになっているはずだ。その娘さんのドレスに違いない。けれども少し女には小さくて、袖が七分の丈になってしまい、スカートの部分が膝の上になっている。それでも元々女が着ていたあの奇妙な体の線が浮き出る服みたいにはならないで、ドレスはふんわりと体を覆っていた。多分やせているに違いない。
長い髪はあの時見たままの金色で、同じ月明かりの下、同じようにきらきらして見えた。白い顔はこの距離だと遺跡から見つかる人形の顔のように小さくて、ぼくの知るどんな女の人とも違って見えた。
どのくらい経ったのか、カシャンという音とともに彼女の背後から明かりが差して、その姿がシルエットになった。
ぼくはさっと顔を下げ、屋根を作るシュロの陰から盗み見る。
「起きていたのですか?」
くぐもって聞こえるけれどよく通る村長の声だ。
「はい」
女の声があの浜辺の時よりも若く聞こえたので、ぼくはびっくりした。
「ご心配なのですね。大丈夫です。誰にも何もさせませんよ」
村長の声はいつもの自信たっぷりのものだった。姿はここからは見えないけれど、女が振り返って見たので、背後のドアから話しているのだろう。
「心配はしていません」
女の声も若いけれどしっかりしていて、よく通った。
「間もなくあなたをどうするか、決まります。上級市のひとつに行くと思います。きっとそこの施政者があなたを宇宙へ返してくれるでしょう」
村長の声に女は頷いて、再び窓に向いた。その時。
目が合った。ぼくはシュロの葉陰から覗いていたけれど、すぐに目が合った、と確信した。そしてぼくは動けなくなった。
「そう信じています」
女は落ち着いて言ったが、目はこちらを射抜くようにしてじっと動かない。
「では、おやすみなさい」
村長がそう言った後で、付け足すように言うのが聞こえる。
「まさかとは思いますが、ここから飛び降りて逃げようとなされても無駄ですよ。下では三人が見張っています。おとなしくして、私を困らせないでくださいね」
「承知しています」
女の言葉を追いかけるようにガシャンとドアの閉じる音が聞こえ、合わせるように、ここからは見えない屋敷の煉瓦塀の陰からわざとらしい咳払いが聞こえる。
さあ、困った。女はじっとぼくを見つめたまま動かない。海からの風が顔を撫で、それは塩辛くべたつく感じで鼻の脇がかゆくなったが動くことが出来ない。しばらく見つめ合ったまま時間が過ぎて行った。
やがて、ぼくはうつ伏せになったままあごを上げている不自然な格好が限界となって、仕方がなしに身じろぎし、鼻を掻く。すると女も動き出し、右手を長い髪にやって手ぐしで漉いた。その仕草がまるで手を振るようにも見え、ぼくはまた見とれてしまう。表情はよく分からないけれど、ぼくには微笑んでいるようにも見える。そして女は、まるっきりぼくが存在していないかのように鎧戸を閉じてしまった。
しばらくは身動き一つ出来なかった。女が消えた窓を見つめて、ぼくは荒い呼吸をしていた。そうしている内に、なんだか怖くなって来て、ぼくはそうっと後退りすると屋根から裏の廃品置き場へ滑り落ちるようにして降りる。後は忍び足でそこを後にして、家に向かった。
途中、二人組で巡回している自警団を何度も見かけたけれど、ぼくは何とかやり過ごし、家にたどり着いたときには東の空が少し紫色に変わっていて、鳥の声が聞こえ始める時間になっていた。
ぼくが話し終えると、ルックはふうーっと大きな息を吐き出し、そうしてからふんっと鼻を鳴らした。
「その子、マレイのことどう思ったのかな」
ルックは最初にぼくの報告を聞いてから、あの女のことをぼくらとそう歳の変わらない女の子だと信じてしまったみたいだった。
「村長がうやうやしくしているんだぞ、マレイのことなんか鼻にもかけてねえよ、その子は」
ベンは両腕を頭の後ろに組んだまま天井をにらんでいて、ぼくの方を見もしない。ベンもすっかり女を十代だと思っている様子で、あの夜、抜け駆けして女を見たぼくのことが面白くないみたいだった。ベンもルックも親父さんの他に兄弟もいて、騒ぎの興奮であの日は家を抜け出すことが出来なかったんだ。だからぼくの大胆な行動がうらやましかったに違いない。
その後はもう話すこともやることもなくなって、ぼくらは思い思いにぼうっとして過ごした。
一時もじっとしていたらムズムズとしてしまうぼくらはなぜ我慢して待っていたんだろう?
今思い返せば、何かが起きるに違いなかったけれど、それが何か分からない、分からないままなのがすごくいやだ、そういう思いでぼくらはそこにいた。ここにいて、あの女のことで何が起きるのか、人伝えではなく、自分の目と耳とで確かめたい。そういうことだったと思う。そしてそれがその後のぼくらの運命を変えた。
作業場の振り子時計が妙に甲高い音で六時を告げると、待っていた動きが始まった。
「おい、出てきたぞ!」
例の金網椅子から通り越しに集会所をにらんでいたベンが立ち上がる。ぼくは壁に寄りかかって座っていたから、立ち上がる時、ちょっと足のしびれにびっくりしてしまった。それくらい長い時間だったんだ。
集会所から人々がガヤガヤと出てくる。いつの間にか通りに人が集まって、祭りの時や市の立つ日の賑わいに近い状態になる。ぼくらと同じで皆、待っていたんだろう。
「どうなったんだ、ロン」
「監視者様をどうするのか、決まったのか?」
村人たちの声に対し、自警団の団長ホリットが声を張る。
「我々は監視者を一番ふさわしいと思われる上級市に預けることにした」
囲む人々が声を上げる。
「ふさわしい、とは何だ?」
「いったいどこのことだ?
「そりゃ、ボゴタシティじゃないのかね?」
ぼくらも作業場の入り口からことの次第を知ろうと、雁首そろえて耳をそばだてた。
「話し合いの結果」
村長が前に出て、話を引き継ぐ。
「我々サンマルティンは遭難した監視者、エミリー様をメデジンへお預けする」
一斉に驚きと怒声やら歓声やらが巻き上がった。
メデジンはぼくらの村サンマルティンから遠く離れた上級市で、コロンビアでもボゴタシティ、カリシティに並ぶ力を持つ街だった。けれど、その街はここから四百キロ近く離れた場所にあり、早掛けの馬か自動車を使っても三日は掛かる。一番近い上級市はボゴタシティで、ここなら百キロちょっとで、実際メデジンよりもサンマルティンとのつき合いは深かった。
「へえ。エミリーって言うんだ、あの子は」
ルックがこの騒ぎの中、場違いなことを言っている。ぼくはいったいどうなるんだろう、と思って胸がザワザワしていた。ベンも落ち着かない様子で、作業場の入り口の大きな扉をつま先で蹴り続けている。
「静かに!静かにしろ!」
ホリットが大声で騒ぎを鎮め、村長が再び話し出した。
「詳しくはふれを出すが、簡単に説明すると、我々評議会はまず、エミリー様の処遇について我々だけでは対処出来ないと決し、四つの上級市に助けを求めた。ボゴタシティ、カリシティ、メデジン、そしてククタだ。それぞれの市と無線で交信し、話し合い、ボゴタシティからは使者を迎えた。その結果、我々にとって一番有意義と思える判断をしたメデジンにエミリー様を引き取って頂くことに決めたのだ」
「有意義な判断とはなんだ!」
「メデジンにやってしまったらボゴタシティが怒るぞ」
「そうだ、きちんと説明しろ!」
村人の声は大きく響いて、再びガヤガヤと意見を言い合う烏合の衆になってしまう。ホリットや自警団、父さんたちが前に出て、それぞれ好き勝手に言い合いを始めた村人の間に入り、なだめようとする。でも、こういうことになるとどうしてもお祭り騒ぎになってしまう村の人たちはなかなか言うことを聞かない。ついに方々でつかみ合いを始めてしまった。
ぼくはため息を吐いて、それでも少しは聞き取ろうとしていた。切れ切れに村長やホリットが言っていることが分かる。つまり、ボゴタシティよりメデジンの方がずっといい条件を出してきたらしい。条件とは対等な取引とか援助とかそんな話だったけれど、疑う人は評議員がメデジンからワイロをもらっているんだと声高に言い張った。ぼくは父さんがそんなことするはずはないと憤慨したけれど、ボゴタシティの方が近いのになぜ条件とかだけで遠い街へエミリーを渡すのか、どうも納得がいかなかった。
そしてついにあれが始まったんだ。
パーン。
そいつはぼくらを飛び上がらせるほど驚かせた。猟師が使うライフル銃よりずっと甲高い音がした。
パーン。パーン。
集まっていた村人のうち、手を振りかざして怒っていた一人がパタンと倒れる。人々がはっとして動きを止め、どよめきが起きると同時に空高く、パタパタと音がした。