プロローグ
平行世界を発明しコンピューター、インターネットを予見した現代SF黎明期の作家、マレイ・ラインスター氏に捧げます。
学校の帰り道、ぼくはいつものように商人の丘へ向かった。
ベンやルックら、マンクス先生言うところの問題児たちは、自分の家へ直行し山羊の乳を飲んでからフットボールや解放軍ごっこをする。ぼくも彼らにしつこく誘われたりすればそちらに参加するけれど、大概はまっすぐ商人の丘へ行き、その突端にある見晴らし台で一人いることの方が多かった。
通い慣れた踏み分け道を行くと、やがて視界が開け、きらきらと輝く大海原が飛び込んでくる。アマゾン海と呼ぶそこは「大破滅の日」以前は広大なジャングルだった。そう学校で教わったのは三年前のこと。
マンクス先生は、漁師たちが魚やエビを採っているあの場所は元々コロンビア全体の数十倍も広いジャングルで、網の目のような大河が流れていたと教えてくれたけど、とても信じられる話じゃない。しかも昔の海岸は、今ぼくが見下ろしている砂浜から千五百キロは離れたところにあり、この村もアンデス山脈の中にある山の村だった、なんて言うものだからベンがげらげら笑い出し、それがみんなに伝染して先生が「本当だったんだぞ!」と怒り出す始末だった。
ぼくの知っている海は、村の漁師たちのラガーが薄灰色の帆を広げていたり、波間に漂っているのが見えるだけの静かで見慣れた場所だった。
この海も夕暮れ時はオレンジ色に染まってそれは美しいけれど、ぼくのお気に入りの風景は反対の方角にあった。
商人の丘の南西、ちょうど海の反対側は一面のジャングルだった。正確にはまるでひび割れのように合間合間に海が入り込んでいて、そこは歩くより早く移動出来る便利な水の道になっていた。
日が暮れるとその水面があっという間にオレンジ色の帯となる。そして濃い緑だったジャングルは青紫色や濃い青に変わって行き、同じような色だけれど、もっと透き通った藍色に変わった南の空にやがて一番星が見えてくる。その先、ずうっと先にぼくがこの丘に登る理由があった。
天に伸びる一本の糸。
ここからはとてもじゃないけど見えない。とても細くてとても遠くにあるから見えるわけがないんだ。
それを見たのはぼくが五歳か六歳の時。父さんたちが新しい農具を手に入れるため、村人や近隣の村に住む人たちと大きな帆船に乗ってパウヒルの港まで行った時のことだった。
「ほら、よく見てごらん」
パウヒルの港は、ぼくらのサンマルティン村から帆船で二日南に行った先にある。港に着いたその日の夕暮れ時、父さんはぼくを港を臨む丘へと連れ出した。
「ずっと南のあの辺り、よおく見るんだぞ」
それは天気が良くて乾燥し、すっきりと見通せる夕暮れ時にしか見えないのだという。そいつはふいに姿を現した。その時のことをマンクス先生に話したら、沈み掛けた太陽がちょうどよい角度となり細い糸に当たってきらきらと光る、だから普段は見えないそれが見えるんだと教えてくれた。
そいつは見た人にしか分からない不思議な色をしている。空の色とも海の色とも違う薄いオレンジで、それが照り返しではなく自分で光っているかのようにきらめくと、まるでオレンジ色の展覧会のように様々な光を放つんだ。ぼくらはそいつが夕闇の中へ溶け込んで見えなくなるまで、飽きもせずにずっと見つめていた。
その夜。港の大きな宿屋で親しくなった商人が教えてくれたことには、すごくたまに、そいつに走る銀色の光の粒を見ることがあるらしい。それは夜中に起きることが多いけれど、夜は決まった者以外絶対に外に出てはならないと言う「掟」があるから、それを見ることが出来る者はごくわずかなんだそうだ。昼間でもそいつは動くことがあるけれど、これも太陽が輝くなかでは見つけることは難しいらしい。
光の糸を走る銀の粒は「監視者」が使う空への乗り物なんだ。
マンクス先生は声を潜めてそう教えた。
そう。ぼくらは監視者の下で生活する動物なんだ。やつらは天からぼくらを監視していて、ぼくらが掟を破らないかどうか見ている。もし破ったら、それは破壊を意味しているんだ。
ぼくらの村から五十キロほど北にぽっかりと開いたクレーターがある。それはぼくが生まれる前からあって、昔はビリャビセンシオと呼ばれていた立派な上級市だったらしいけれど、今では「天罰の穴」と呼ばれている。
昔、この街の人々が監視者を試すようなことをして、それが監視者をひどく怒らせ、町は天から「緋色の雷」を浴びて一瞬で燃え尽きてしまったという。その跡には大きな穴だけが開いていて、数万人いた町の人たちは誰一人助からなかった。ぼくらは村の老人たちから口々にそう教えられ、監視者を怒らせるようなことをしてはいけないと釘を刺されていたんだ。
監視者は普段目に触れない存在だけど、それは神様と同じ意味で恐れられていて、ぼくらはゴキブリのようにこそこそしている。いつも空から見られていることを忘れないように暮らしていたんだ。
このお話のきっかけになった事件が起きた日。
その日もこの夕暮れがきれいな日で、ぼくは商人の丘から「世界」を見下ろしていた。その頃、ぼくの世界はこの丘から見下ろせる範囲だけだったけれど、世界はこの範囲だけでも十分に広かった。
ジャングルの水路が太陽にかざした手のひらそっくりな血管みたいになった頃、ぼくは見えるはずもない夕陽に輝く天まで届く糸を想像していた。それを使って(そのときはその糸をどう使って上り下りするのかは知らなかったけれど)天と地を行き来することが出来たらどんなに楽しかろう、などと考えていた。
やがてぼくの神聖な時間も終わる。夕闇が夜へと変わり銀河がはっきりと見える頃には、家にいないとホリットたち自警団の大人にこっぴどく叱られる。ベンなんか真夜中に村の周りをうろついているところを巡回に捕まって、ジャングルにすむ赤尻猿そっくりになるまで叩かれた。だからぼくは完全に空が紫色になる前に急いで丘を降りなくてはならなかった。
そして丘への登り口に当たる、村から浜辺へ向かう道でばったり彼らに会ったんだ。
「マレイ!また丘に行ってたのか?」
父さんだった。その横には難しい顔をしたホリットがいて、すぐ後ろに村長さんがいる。その他漁師や村の顔役が十人ほど。
「どうしたの?」
ぼくは何か大変なことが起きたと感づいて、
「何かあったの?」
「早く家へ帰りなさい」
父さんは気に入らない時のくせで手をぱたぱたさせながら、
「家でおとなしくしているんだ」
そしてぼくの返事も待たず、ランタンを下げたホリットらとどんどん先へ行ってしまった。
「気をつけてお帰り」
列の一番最後にいた牧師のアイマールさんが手を振って微笑んだ。
ぼくは父さんたちを見送りながら少しその場で迷う。この先の浜辺で何か事件が起きたに違いない。そっと隠れて浜辺に行き、覗き見をしようかどうか。その時、後ろからぽんと肩を叩かれ、ぼくは飛び上がった。
「おい、おれだよ。静かにしろ」
ベンだった。ルックが横でにやにやしている。
「びっくりしたなぁ」
「親父さんなんて言ってた?」
「家に帰ってろ、って」
「ふうん」
ベンの目はきらきらしていて、これは何かよからぬいたずらを考えている時の目だった。ぼくも期待感でわくわくし出して、
「つけるの?」
「とーぜん!」
そしてぼくらは足音を忍ばせながら、もうだいぶ先に行ってしまったホリットのランタンの光を追っていったんだ。それがぼくらの人生を一変させてしまう一連の出来事の始まりだとは知らずに。