#第二部 第二章
今までのお話
ロワンドテーリャから地球へ向けて旅立ったフレードとディム。
コスモ・エクスプレスの途中停車駅“トロピカル・プラネット”でフレードは亡き妻カメリアにそっくりなクロディーネに心奪われ、気持ちが揺らいでいる。
ディムが読んでいる本「星の漣のむこうには」の著者茉莉沙は太陽に恋するが、太陽はもな美とつきあう事に。
やがて茉莉沙はピアニスト、もな美はバレリーナ、太陽は宇宙飛行士にと三人は夢を叶えてゆく。 茉莉沙は酒の勢いで太陽に想いを告げ、太陽も本当は茉莉沙を好きだと言うが、旅先の湖畔でプロポーズしているところをもな美が目撃してそのまま湖へ身を投じてしまい、もな美は行方不明になってしまった。
茉莉沙はショックで太陽を忘れようとするが、太陽の熱意と周りの後押しに考え直し、二人はついに結婚へ。
アメリカで二人の子供に囲まれ幸せに暮らしていたが、ある日太陽から「エルディック彗星が墜落」という耳を疑う事実を知らされてしまう。
茉莉沙は子供と共に一時帰国するが、太陽は宇宙開発局“WASA”に監禁され、どうしても連れ戻さんと再び単身でアメリカへ。
WASAで太陽に再会できたはいいが、Xデーを前にエルディック彗星が頭上に………
茉莉沙たちはもうおしまいだと思ったが、気がつくと何故か見知らぬところにいた。
するとあやしい男たちに「お妃が逢いたがってるから迎えに来た」と言われ、城へと連れて行かれる。
その逢いたがっていたお妃とは、湖で消えたあのもな美だった!
三人で午餐をとりながらもな美の話を聞いていると、自分達は亜空間から時空を越え地球から遠く離れたロワンドテーリャという星に一瞬でやってきたという。
そしてもな美は自分の事を語り始めた。
明朗快活、優雅で美人のもな美はイメージの華やかさとは裏腹に、イギリスの学校で、そして帰国してからもいじめに遭っていたという。
私立のフューゲンドリッヒ学園を志望したのも、公立の学校に嫌気がさしたからだった。
バレエの発表会で、初めて全力で踊れる自信をつけたと目を輝かせて言うもな美は、本当は茉莉沙の事が羨ましかったと言い、意外な言葉に茉莉沙は戸惑っていた……
登場人物
モナミ・グレイス・デ・ヤポナーリア 数々のせつない体験を経て、そしてお妃に。
夏沢太陽 茉莉沙と九死に一生を得、遠きロワンドテーリャへ……
フレード・ナツザワ 年の離れたクロディーネに惹かれてゆく
ディム・ナツザワ 恋の星トロピカル・プラネットで父に負けずに恋してる?
トピー・ミールズ コスモ・エクスプレスの乗務員でチーフパーサー
ジル・アンドローザ 茉莉沙ともな美に、過酷な運命を告げる占い師
エンドラ クロディーネのホテル従業員
アデル もな美が所属するル・グランシエルバレエ団支配人
エレーヌ フューゲンドリッヒ学園パリ校でのもな美の級友
シャンティエ パリの病院の医師
クロディーネ・パデュウ フレードたちが泊まるホテルの社長の娘
夏沢茉莉沙 もな美の知られざる生き様を知って愕然としてしまう
*この物語はフィクションであり、登場人物や団体・建物・一部の天体などは架空のものであります。また文中に不適切な表現があるかも知れませんが、登場人物の心情やストーリーを盛り上げる為ですのでご了承下さい。
★ボサノヴァの調べ
「少し冷えてきたな……やはり夜風に当たり過ぎたか」
灯台のあかりは夜の陽射し。遠い沖を、逆側の険しい山を露わにする。
潮風がさっきよりも強くなってきたので、風邪などひいて旅に支障が出ないようフレードは ホテルへ戻ろうと蒼い浜辺を引き返した。
眠気を誘う唄を歌ってる波と、海に降り注ぎそうな無数の星のコラボレーション。
一人で観ていても、心が溶けてしまいそうな気がする。
(君達もムードに酔いしれるのもいいけど、熱など出したりしないようにな)
愛を囁くカップル達が相変らずいくつも寄り添うので、フレードは心で注意を促し、軽く笑っていた。
やがてホテルへ帰り着くと少し体を温めたいと思い、一階のロビーにバーがある事をふと思い出した。
(冷えた体を芯から温めるには、やはりアルコールが一番だな)
Bar de etoile (バー エトワール)
そう書かれたドアを押してみた。
「いらっしゃいませ。あら!」
「あ……」
カウンターの中のホステス嬢は、なんとクロディーネだった。
いくら社長の娘とはいえ、ここまでこき使うとは何て人遣いの荒いホテルなんだと、フレードは感嘆の溜息をついた。
「うふふ……驚いたでしょう?まるで私が休む間もなくアゴで使われているとお思いでしょうね」
(ドキッ!)
図星をさされて、思わずフレードは自分の左胸を押さえてしまった。
「今夜はこのバーで一人欠員が出てしまったので、私がヘルプにかり出されたのですわ。さぁ、おしぼりをどうぞ。お飲み物は何がよろしいですかしら?」
「こ、コニャックを……」
「かしこまりましたわ」
クロディーネはなんと不思議な女性だろう。
初めて逢ったときは髪に花を挿し、ムームーを着た南国娘風で、夕餉の刻には着物を纏った艶姿。そして今、黒いドレスの謎を秘めたバーのマダムだ。
次々と変化する彼女は、その時々に合った微笑を投げかけ、フレードの気持ちを悪魔のように攪乱してゆく。
そんな彼女に惑わされて、底なし沼にズブズブはまっていったとしても万更でもないと、フレードは頭の隅でちらりと思った。
エチルアルコールを含んだ琥珀色の液体は高く馨って、そんな気持ちを喉元まで運んでしまいそうになる。
「クロディーネさん、明日も忙しいのですか?」
「いいえ、朝食の支度が済んだらあとは手がすきますわ」
「そうですか、あの……」
「何ですの?」
「あの……私、実を言うと初めて貴女を見たとき……」
「シッ……」
クロディーネの紅いマニキュアの人差し指が言いかけた唇に蓋をして、そのあとの言葉を遮ってしまった。
「いけませんわ、ナツザワ様。お酔いになってるのね。もうおしまいになさった方が宜しいのではなくて?」
禁じられた言葉は、薄暗いバーの空間に躍り出しそうになりながらも喉に渦を巻いたままで、フレードはやり切れない気分になってきてしまった。
「ふふっ、意地悪な女だとお思いかしら?でも続きは明日、伺いますわ」
悪女?魔性の女?男の扱いを知っている?
彼女がますます分からなくなってきたが、ただひとつ分かっているのは、クロディーネという流れの速い河で、フレードが今まさに溺れそうになっているのだ。
紫の煙がランプのシェイドのあたりにゆらめき、ボサノヴァの甘い調べが彼女の妖しげなアトモスフェアを揺らして、フレードの視界がだんだん、段々ぼんやりとして行った。
★I love you……
(昨夜はちょっと飲み過ぎたかな?気がつけばいつの間にか部屋で寝ていたし、ディムが帰って来たのも知らないし……)
『お早うございます。朝食のお時間でございますわ』
クロディーネの声で目覚め、脳内が淀んでいるまま食卓の膳についたものの、食事は二日酔い気味のフレードの喉をろくに通らなかった。
代わりに食べ盛りのディムが、焼き魚だの、出し巻き玉子だの、納豆だの、味噌汁だの『うまい、うまい』とフレードの分まで平らげてしまったのだ。
『お粗末様でございました。私はもうすぐ仕事が明けますので、宜しかったらこのホテルの前のビーチにありますパームツリーの木陰でお待ちくださいませ』
『あれえ?パパどーしたの、デート?』
『コ、コラッ、大人をからかうんじゃない!』
『キャハハッごめんごめん、邪魔しないからねー』
悪戯坊主に冷やかされながら、年甲斐もなくドギマギして、フレードは砂浜への階段を降りて行った。
常夏の星を気紛れに渡る甘い風が、フレードの髪を乱してゆく。
パラソルの花に色とりどりの水着。
熱帯のビーチでは色彩も熱い。
フレードがもう少し若ければ真っ直ぐ海に向かっていただろうが、今はこの木陰のベンチで涼んでいる方が快適だと思う。
沖を漂うヨットを見ていると、不意に目の前が真っ暗になってしまった。
「うふふ、だーれだ?」
柔らかく響く声に、悪戯の主がすぐに分かった。
「クロディーネさん」
「当たりー(^^)うふふっ、見破られてしまいましたわね。ごめんなさい、こんな子供みたいな事をして」
こういう少女みたいな一面もあるのは意外だったが、クロディーネがさらに愛おしく思えてくるフレードがいた。
「ねぇ、せっかくですから少し泳ぎません?私も今は非番ですので楽しみたいですわ」
「でも水着が」
「あら、それでしたらこの先にヌーディスト・ビーチもありますのよ」
「え……」
「うふふ、冗談ですわ。波打ち際を歩くだけでも気持ちよろしくてよ。さ、行きましょう」
クロディーネはフレードの手をごく自然につないで歩き始めた。
しっとり落ち着いた女性かと思っていたら、このようなジョークも飛び出すし、積極的に手もつないでくる。
クロディーネの意外性に戸惑いながら、フレードの胸はときめいているだけ―――
(どうしたんだろう、こんなに年下の女の人にリードされて、しかも年甲斐もなく胸が疼く。まるで若かった日々が甦ってくるようだ……)
トロピカル・プラネットの魔力は、男が及び腰なら女を小悪魔に変えてしまうのだろうか。
クロディーネに連れられて渚を歩くフレードは、まるで散歩をさせられる犬のようだ。
しかし少しも恥ずかしいなどと思ってはいない。
こうしていると、新婚旅行に出かけたあの日のようだ―――
『フレード、キャア待ってえ』
『ほら見て、パール貝よ』
『フレード、愛しているわ……』
胸の中には甘いラヴ・バラードが流れている。
白い砂のビーチ、透明な水、遠くの珊瑚礁があざやかに色変えて、波寄せる汀にカメリアが振り返る。
『フレード、愛しているわ……』
カメリアに生き写しのこの女性は、同じ科白を囁いてくれるだろうか?
フレードの胸の中に、二人の女性がぐるぐると渦潮を巻いている。
「どうかなさったの?」
「あ、いや……」
「あの……昨夜ホテルのバーで言おうとなさった事、大体分かってましたわ。でもね、女はお酒の勢いで殿方に口説かれるのを意外と好まないものですのよ。だから今日お誘いしたの。ここなら誰も見てないし聞いてないから、宜しかったら続きを聞かせて……」
辺りを見てみると、いつしか人も疎らな所まで来ていた。
トロピカル・プラネットではみんな自分の愛を囁くのに忙しくて、他人の「アイラヴユー」など聞く耳を持っていないが、フレードの口を開きやすい場所をクロディーネはわざわざ選んだようだ。
フレードは呼吸を整えて、クロディーネの瞳をまっすぐ見つめた。
「は、初めて逢ったあの時から、この胸の高鳴りを抑えられなかった……」
潮騒が急に高まって、白い海鳥の群れが啼きながら通り過ぎてゆく。
「貴女のことが……好きです」
「私も、私もよ……」
胸の中のラヴ・バラードが、更に音高く鳴り響いている。
これは想い出ではなく、紛れもない現実。
フレードと、天から舞い降りたように現れたクロディーネはいつしか抱き合い、こうなる事は時間の問題だったように、今熱き口づけを交し合う。
打ち寄せる波は足元を濡らし、海鳥たちはまた、祝福するように歌っている。
長いあいだ息と息が縺れ、熱い感触に気が遠くなりそうになる。
背中にまわす紅い爪の指が、背筋を愛しげに撫でている。
「ああ、ずっと前から貴方に逢いたかった、そんな気がするわ……」
クロディーネのこの一言は、一瞬フレードを混乱の境地へと突き落としてしまった。
フレードは息を感じる程近くにある女の顔が、誰なのか見分けられなくなっていた。
そして言ってはいけない言葉を発してしまったのだ。
「私もだ。愛してるよ、カメリア……」
「………!」
パシン!
フレードの頬に痛みが走った。
それは痛みではなく哀しみだとクロディーネの瞳が言っている。
そこから海の水より塩辛い涙の洪水が溢れ出していた。
(ハッ、しまった!何て事を言ったんだ)
言の葉は大気へと飛び出してしまえば時は遅し。
栗色の巻き髪は、陽を浴びて束の間輝きながら翻り、そのまま風のように揺れながら遠くなってゆく。
「待って!クロディーネさん、待っ……」
追いかけようとしても、フレードは砂に足をとられて腹這いになってしまった。
「待って、違うんだ!」
後悔に打ちひしがれて、起き上がる事もできない。
フレードは、青いサマードレスの裾がヒラヒラとあおられて遠ざかるのを、ただ見送っていた―――
★ジェラス・ヴァレンタイン
「時に―――」
もな美の双眸が、私を真っ直ぐに見つめた。
「私が湖で姿を消してからというもの、貴女は幸せそうで何よりですこと」
「いえ、私はそんな……」
幸せになる前に、長い苦しみを抱えてた事を言おうとも、とても言葉では言い表せない。
「貴女の言わんとする事は分かっています。私には全てが見えていました。先程も申した通り、このロワンドテーリャ星は地球の数倍も科学が発達しています。貴女達の行動など手に取るようにお見通しですのよ」
私の上半身に、サアーッと木枯らしが駆け抜ける感じがする。
少女の頃より、どこかミステリアスな雰囲気を持ってはいたが、この時のもな美は一瞬、人間の仮面をつけた魔女のように私の瞳に映りこんだ。
「あれから貴女は、足を患った私が絶望の淵に追い込まれたのは“自分のせい”だと良心の呵責に苛まれていたのも知っています。しかし、周りの人や太陽の温かさに後押しをされて輝くばかりの幸福へと嫁いでいった―――それはそれで良い事です」
「……………」
もな美の口調や態度は、暖炉の炎のようにあたたかで穏やかなのに、私を責めている気がするのは何故なのだろう?単なる気のせいだといいのだが……
「でも私にも貴女に負けぬ程の紆余曲折があったのですよ」
「ええ、私は気づかなかったけど、周りの人々に冷たくされてきたのでしょう?」
「いいえ、それだけじゃないわ」
もな美は、再び窓の外を遠く旅しはじめた。
『あら太陽君、思ったより元気そうじゃない。ヨカッタ』
『星座の観察もいいケド、夜風は体に毒ヨ』
『この間もらったお年玉が意外に多くて、天体望遠鏡買ったんだ。ついうれしくてつい時間忘れて見てたらこうなっちゃった。デモ、星ってホントキレイだなー』
『私も見たーい。今度見せてえ』
『抜け駆けはダメよ。ワタシだって見たいわ』
『じゃ僕が元気になったら、ネ』
『ヤッターうれしいー(^^)』
『……………』
小学生の頃、私ともな美で風邪で寝込んだ太陽を見舞った時に太陽の顔を見てホッとしたと同時に、朧げだが私は太陽の事が好きなんだと実感した。
しかし、その時一瞬流れた微妙な空気が何なのかは、まだ分からずにいたのだ。
「私がもっと鈍感で恋する事に疎い少女だったら、運命は今と大幅に違っていたでしょう。でも私は気づいてしまった。自分の気持ちにも、貴女が誰を見ていたのか、も……」
やはり、彼女は私と同じ気持ちだった。
私がうすうす感づいていたように、もな美も私の初恋を見抜いていた。
よりによって私ともな美の視線の焦点は、太陽だったなんて……
「私は焦ったわ。貴女達を見ていると、まるでカルメンとドン・ホセのよう……寄り添うべくしてそこに存在しているように見えたのです。でも、カルメンは悲劇のヒロイン。私は脇役のミカエラでいいから、貴女にはヒロインになってもらおうと思ったわ」
『もうすぐバレンタインねぇ、マリサちゃん、チョコレート誰かにあげるの?』
『私は別に、パトラちゃんこそどうなの?』
『まぁネ。義理チョコだけど』
そう言いながらも、私は内心ときめきを抑えきれずにいた。
密かにチョコレートを買って、寒い夕暮れのプラタナスの並木道で太陽を待ち伏せし、彼を見つけて声をかけようとしたところまでは良かったが……
『た………』
『太陽クーン!良かったーっ今日会えなかったらどうしようかと思っちゃった。はいコレ、プレゼントよー』
『ありがとう、パトラ』
『どういたしまして。受け取ってもらえて嬉しいワ、ふふ。ねえ、腕組もうか』
『よせよ、ハハハ……』
「あの時、私には分かっていた。貴女が彼にチョコレートを渡してしまえば、彼はもう私に振り向く事はないと―――私は一世一代の賭けに出るつもりで、プラタナスの陰に隠れて待っていたわ。そして、恋の勝利者となった。本当はどうしよう、どうしようってずーっとドキドキしてたけど、私の中の気弱な天使が小悪魔に打ち負かされる瞬間だったわ。貴女には気の毒な事をしたけれど、恋の戦いは真剣勝負だから……」
もな美は明るくて、積極的で、飄々(ひょうひょう)とした女性だと思っていた。
しかし彼女には私以上に複雑な心の襞がかくされていたのだ。
“ライオンはウサギを倒す時も全力を尽くす”
私が気弱で、もな美に負けてしまったのではない。
この言葉の意味が今更ながらに分かったと、そんな気がする。
★私はBallerina
「失礼致します、レスモデーラ・ブーフのソテー、デルビョーニ添えでございます」
「これは地球でいうところの、最高級牛フィレ肉ステーキに匹敵するメインディッシュよ。冷めないうちに召し上がれ」
もな美に勧められるままナイフを入れてみると、断面にはジュワ〜ッと溢れんばかりの肉汁で潤っている。口に運んでみると、舌の上で淡雪が解けて小さくなっていくような感じが堪らない。
「おい…しい!」
「でしょう。お気に召して頂いて結構だわ」
もな美も微笑みながら舌鼓を打っている。
さっきまで少し重かった空気が、霧の晴れ間に日が差す様に和みはじめた。
しかし、もな美が目を伏せもの想う仕草を見せると、あたりは再び深い海へと沈んでゆく。
「幼い頃の周りの冷たい態度があったせいか、私の野心はとどまる所を知らなかったの。恋の成就に飽き足らず、夢と栄光を掴むためにそれからの私は必死になったわ……」
『エ・アン、エ・ドゥ…違います!もな美さん、そこはもっと羽根のように!』
『はぁ、はぁ……申し訳ありません、もう一度お願いします』
『エ・トワ、パッセ、ピルエット…はいジュテ!そう、流れるように…エ・キャトル、エ・サンク……』
足のマメがつぶれて血が流れても、もな美は泣きながら何度も立ち上がった。
世界の大舞台に立つまでは絶対に負けないと、そう信じて。
そして私と同じように、彼女にもチャンスは巡ってきたのだ……
『31番、一ノ原もな美さん』
『はい』
私がフューゲンドリッヒ学園の姉妹校留学の試験に勝負を賭けていた頃、もな美もまた、賽を投げようとしていたのだ。
《必ず、このチャンスを掴むのよ!》
《いいえ、もしかしてダメかも……》
彼女は名前を呼ばれると、矛盾したふたつの思いが紛争を勃発し始めた。
しかし、この戦いは他ならぬもな美のため。
ネガティブな自分には絶対に勝つという気持ちを維持しようと懸命に努めた。
……すると、不思議な事がもな美に起こったのだ!
緊張で張り裂けそうな講堂のステージに立つと、もな美の目には麗らかな春の情景が映り込んだ。
咲き綻ぶ花のあいだを遊ぶ蝶々
やわらかな馨りに包まれて 蝶を追いかける若い姫君
“蝶々さん、どこへ行くの? 私と一緒に遊んで 私も楽しいところへ連れてって”
ドレスの裾も気にしないで駆けまわる姫
あたたかな陽差しが喜びを連れてくる
“待って 待って そんなに急がないで”
足もと危うく バランスは傾いて 花の中へ
“きゃああ!”
“危ない!”
“お嬢さん 大丈夫ですか?”
“ハッ 貴方はどなた?”
倒れ込んだのは どこかの王子と見受けられる 腕の中
陽炎のゆらめきのなかで 姫君の胸は全力で走る馬車のよう
どうしたの私? 走りすぎたのかしら? すごくあついわ
顔が紅くないかしら? ああ 恥ずかしい!
生まれて初めて感じる気持ち これは何? これが恋なの?
陽の光は やさしく微笑んでいるだけ………
『はい、結構です』
気がつけばそこは、試験管たちのいる講堂のステージ。
夢醒めやらぬままいつしかテストは済んでいた。
『あ、どうもありがとうございました』
どんな風に踊ったか憶えていないけれど、精一杯ベストを尽くした充実感がもな美の胸を満たしていて、「あとは野となれ山となれ」―――そんな言葉がよぎっていった。
★彼女はやはり……
「気がつけばそこは、試験管たちのいる講堂のステージ。
夢醒めやらぬままいつしか……」
「ちょっと静かにできないか?本を読むなら黙読しなさい」
「はぁ〜い。チッ、機嫌悪いでやんの。どーせあの女の人にフラれたんじゃないのかい」
「何か言ったか!?」
「あ〜うわあ〜ナンでも〜」
身から出た錆とはいえ、フレードがご機嫌斜めなのは無理もない。
せっかくクロディーネと睦まじくなれたというのに、口が滑って余計な一言を発したお陰で、すっかり彼女に嫌われてしまったらしい。
(あ〜馬鹿馬鹿馬鹿!あんな事さえ言わなかったら、あの人も傷つかなかったのに。うう、思い出すのも情けない……)
フレードの胸には後悔のハリケーンが渦を巻いていて、自己嫌悪の嵐になす術もなくうなだれている。
一言謝りたいのは山々だが、きっと傷が深いであろうクロディーネにどんな顔をして会えばいいのかも分からない。
(いい年をして自分でも呆れてしまうよ。これじゃディムと変わらないな)
そんな事を悶々(もんもん)と考えていると、不意に声がした。
「失礼致します、お夕食の準備が整いました。ご用意して宜しいでしょうか?」
(ドキッ!ク、クロディーネさんだ。ああどうしよう、気まずいな……)
フレードは慌てふためきテラスに飛び出して、海を眺める振りを始めた。
「ハイ、どーぞ」
「失礼致します……」
(ウワッ、入ってきた!)
「アレッ?あの女の人どーしたんデスか?」
(え?)
フレードが振り向くと、窓ガラスの向こうには知らない女性がいた。
「あの女の人?ああ、お嬢様でございますね。お嬢…あの、クロディーネは体調が冴えないとかで、私エンドラが代わりにお世話致しますので宜しくお願い申し上げます。では只今こちらにお料理をお持ち致します、少々お待ち下さいませ」
クロディーネが体調を崩してるなんて、見え透いた言い訳なのは火を見るより明らかである。
悔恨のストームで荒れていたフレードの胸にはポッカリ空洞が開いてしまい、隙間風がヒュルルと空しく響いている。
「お客様ちょっと陽に焼けたようでございますね。頬とか鼻がいい色になってますよ。海は楽しかったですか?この星は“恋のアイランド”とも申しますので、黙っててもアバンチュールのバカンスをお楽しみになれますでしょ?さあ、おひとつどうぞ。今夜もまたお楽しみでございますでしょうね、オホホホ……」
お喋りなエンドラという仲居の話もフレードの耳には右から左へと抜けて行き、ビールに口をつけても飲んでいる気がしないし、料理の味も判別不能だ。当然食欲だって湧いては来ない。
そんなおかしなフレードを尻目にディムは持前の食欲を発揮して、どこへ入るのかと言いたくなる四次元的胃袋が活躍している。
「パパ食べないのォ?じゃあチョーダイね」
「あ?ああ……」
「まあお客様、お口に合わないでしょうか?それともどこか具合でも?」
「あ?あ、いえちょっと疲れてるだけで」
「まぁお気をつけて下さいね。油断して夏風邪をひかれる方も多うございますから。でもそんな時はパームツリーの木の実、これを煎じたものを飲みますとですね、たちどころにシャキーンと元気が出て風邪が飛んで行っちゃってしまうのですよ。しかも、このお薬はアッチの方にも効果絶大で、別のトコロもシャキーン!なんて事になっちゃうのでございますよ、オホホ……ではさっそく後でお持ちしましょうか?ホラ今宵ももうひと頑張り、なーんてお思いでしょう?殿方の強―い味方ですよ。オホホ」
立て板に水。オバサンと呼ばれる生物はお喋りをとったら何が残るのだろう?
二人ともついていけずに、少々ウンザリ気味のようだ。
「パパ、訊きもしないのにこのヒトずーっとしゃべってるね」
「あ?ああそうだな」
本当ならこの後ひと頑張りする筈だったのにと、フレードの胸の風穴が泣いている。
この星に降り立ち、クロディーネに逢ったのは神の悪戯。しかしその後悪魔に弄ばれて、フレードは運命の残酷さを呪うしかなかった。
「坊ちゃん美味しいでしょう?豊かな海の幸が新鮮なまま召し上がって頂けるのが自慢ですのよ、ホホホ―――」
「パパ、いい加減ウルサくない?」
「あ?ああ……」
★さがしもの
「憶えてるかしら?いつかジル・アンドローザの占いの館に行ったわね」
「ええ、よく憶えてる」
私ともな美がヨーロッパに発つ前、ジル・アンドローザという占い師にみてもらった事があった。ジルは驚異の的中率を誇り、マスコミでも引っ張りだこの人気ぶりで、私達も待合の行列に並んでいたのが昨日の事のようだ。
そんなジルが、もな美と私と太陽の三人の数奇な運命を今から思えばピタリと言い当てたのだ。
『ハッ、これは――』
『ジル先生、どうしたんですか?』
『未来のあなた方は、他の誰よりも数奇な道を行くのが私には見えます。或る時は花園で戯れ、また或る時は茨の棘に傷ついたりする……これは何かの因縁のよう。“葛藤”という言葉の如く葛と藤の蔓がもつれ合い、絡みあい、望むと望まざるとに関わらず、愛憎劇の舞台へ立たされる事になるのです。あなた方は現実を超えた謎のベールに包まれた事件に巻き込まれてしまいます。それはあまりに神秘的で、あまりに抽象的な為、私の理解が及ばないので説明は出来かねますが、“運命の竜巻”と呼ばせて頂きましょう。その運命の竜巻は否応なしにあなた方を襲い、その身を翻弄しますが、決してそこで絶望してはなりません。嫉妬と憎悪を捨て、お互いを愛するのです。さもないとそれぞれ相手の刃に倒れる事になってしまいます……あなた方は二人とも、やがて選ばれた人となるでしょう。それはこのクリスタルがはっきりと語りかけています。ですから、何が起きても自暴自棄にならずにご自分を信じて下さい。希望の光とは必ず、何よりの味方になってくれるものですわ』
「運命の竜巻……彼女はそう表現していた。正に私達三人は竜巻にさらわれ、この星へ導かれてしまった。きっとそれは逆らえない“さだめ”だったのでしょうね……」
もな美は目を閉じて感慨深げに溜息をつく。そして目を開き、鋭い目力をもって続けた。
「宇宙の星の軌道が変わらず規則正しいように、私達もそれぞれの星のもと、巡り巡っている……これを真理だと受けとめるしかないのよ」
気のせいだろうか?もな美の強気な瞳が潤み始めたように私には見えてしまった。
「はじめはね、留学先はロンドンの予定だったの。でも私、トラウマがあるからイギリスには行きたくなかったのよ。それで無理にお願いして、フューゲンドリッヒのパリ校へ留学させてもらったわ」
潤んだものが流れ落ちないようにしてるのか、もな美はグッと顔を上げている。
このあと恐らく繰りひろげられるであろう切ない話のやり切れなさが私の胸にも伝わって、いたたまれずに俯いてしまった。
『ねぇねぇ、ちょっと知ってる?あのル・グランシエルバレエ団、今度入団オーディションをやるそうよ!!』
『え、何ですって!?』
『…………!!』
パリの級友たちの噂を聞いて、もな美は絶句した。
ル・グランシエルバレエ団は世界でも有数の大バレエ団で、当然ながら人気も高く、入団しようものなら数千倍というとんでもない競争率の超難関をくぐらねばならない。これには流石に二の足を踏んでいたが、もな美の志はどうしても現実を超えたかった。
《ル・グランシエル……絶対に入りたい!私のすべてを引き換えにしても。だけど……》
マリー・アントワネットのように誇り高い彼女も、揺らいでしまう時だってある。もな美はそんな気持ちを、時々友達に打ち明けていた。
『ねえエレーヌ、私のバレエって何が必要?何が足りないと思う?』
『そうねぇ……モナミは優雅で気品もあるから、悪いとは思わないけど……でもどこかに影があるような感じがするのよ』
『影?』
『そう、影。たとえば悪魔の娘オディールを演じるなら、その影を存分に生かせると思うけど、オデット姫の場合は……確かに呪いをかけられた哀しさを表現しなければいけない。でもその内側には希望の光で満ちてなければならないと思うの』
『希望の光?……それはつまり、例えどんな役回りだろうとプリマ・ドンナには必要不可欠な要素だって事?!』
『え、ええ。私はそう思うわ』
『そっか。エレーヌありがと』
『あっモナミ、どこ行くの?』
『ちょっと寄宿舎に帰るわ』
もな美は寄宿舎にある書斎にこもって、ある書物を探していた。
『l’espoir…希望……えーっと、あ、これかしら?』
もな美の目に留まったのは、“泥が真珠に変わるとき ドゥボール・アルロー著”
少し古びたにおいのする頁をめくってみた――――
あなたがどんな傷を負っていても、必ず治癒はされるものです。
その治癒力はあなた自身に備わっているものなのですから。
もしもあなたの心が砂漠のように乾いて、何もない不毛の荒野でも
薔薇の花が咲き乱れる園にする事もできるのです。
勇気を持ちましょう、そして叶えたい希望を心に映し出しましょう。
きっとあなたはいつの間にか、鏡を覗いてみると、
なりたかった自分をそこに見出す事が出来る筈です。
《あ、これだわ!》
もな美は五百頁以上もあるその厚い本を借りると、登校やレッスン、食事や入浴以外の時は部屋にこもってその本を読みふけっていた。
そして、いよいよル・グランシエルバレエ団のオーディションの当日――――
『それでは皆さんには、今から踊ります創作ダンスの振り付けを憶えていただきます。この踊りの役柄ですが、物事の分別が全くつかない何の認識も持たない、いわゆる生まれたままの子供と同じ知性の少女が自分に目覚め、人の心・人の愛を理解してゆくという表現をして頂きます』
『えーっ何それー』
『むずかしいー』
『Oh,monDieu!』
『静かに!ではダンサーに注目して下さい。何度も踊らないので集中して憶えるように』
第一次、二次、三次審査と、もな美は次々にパスして見せ、最終審査の100名の中に見事残る事が出来た。しかし難しいどころではないこのテストには、流石に戸惑い気味だ。
♪#♪♪♭♪――――
《大丈夫、私はできる。必ずやり遂げて見事合格して見せるわ!》
順番待ちの間もな美は何度も何度も心で呟いて、自分の中にこの言葉を刻みつけていった。
そして―――――
『次、マドモアゼル・モナミ・イチノアラ』
『はいっ!』
もな美は目を閉じて呼吸を整えた。一瞬、全ての思いを瞑じてしまって、もな美は限りなく零に近いところへと心のレベルを下げてゆく。
《光が、見えた―――!》
開かれた双眸には、いつもそこにある強い意志の色は宿ってはいなかった。
審査員達が俄かにざわめき始めてゆく。
ピアノのメロディーに乗って、もな美が動き出した………
★水のように雪のように
「あの本にはとてもいい事が書いてあったわ。“あなたの輝きは、あなた自身の中にある―――”とね。私は、自分の中に眠る輝きを見出そうとしたのよ……」
テーブルには色鮮やかなフルーツと、彫刻のように見事なお菓子が並んでいる。カップに温かい飲み物が注がれると、お茶の薫りが部屋中に漂い始める。
もな美はその薫りを深く吸い込んで目を閉じた。
「私が立つ場所は、巨大な劇場の舞台。そのステージで、プリマ・ドンナとして舞うイメージが心の中から消えてしまわないよう努めたわ。そして何度も自分にこう言い聞かせたの。私は風、私は翼、私は光―――それをやってから、私の身体は不思議なほど軽くなっていったのよ……」
♪♪♭♪♪――――
オーディションの会場でピアノが鳴り始めると、もな美の顔つきはすっかり別人のようになり、審査員達を動揺させた。緊張で神妙に強張っていた顔が、そこだけ朝陽が射しているような清々(すがすが)しさを呈しはじめたのだ。
純真と無垢―――たった今この世に生を受けて現れたように道も方向も持たず、360度無限大の空間がもな美の周りに広がっているように感じる。
何という存在感、何という圧倒!
審査員はうならせられ、受験生たちは蒼ざめて言葉もない。
もな美はそんな周りを気にもしないで、ただ何も想わず青い空や陽の光、咲き誇る花やそよ風の心地よさ、そういったものを愛しむように笑いつづけている。
しかしそんな笑っている少女も、ある日突然気づきはじめた。
“私って何のために生まれてきたの?”
“私どうしてここにいるのかしら?”
いくら考えても分からない。
何故なら、たとえどんなに頭が良くてもはじき出せない答えだから。
少女は祈ります。“神様、私の疑問を教えて下さい”と。
そして、天からの回答はやって来た。
怒りや悲しみは 喜びの為にある
愚かな争いは 平和を想う為
挫折は 繁栄する為に
失敗は 成功の為に
貧しさは 豊かさを目指す為に
それぞれ存在するものだと 声が聞こえる
さぁ、恐がらないで 顔を上げて立ち上がり 前を向きなさい
汝の行く方はどちらでもいい
天上でも地獄でも どこでも自由に選ぶ事ができる
さぁ、選択しなさい 自分の心の命ずる方向を――――
少女は、今度は頭で考えようとせずに自分に問いかけてみた。
“私の好きなものは 一体なんだろう?”
美しい自然 星空 楽しい苺狩り 褒められたとき
お祭り 美味しいご馳走 となりの男の子……?
少女の頬は薔薇色に……
ありがとう、わかりました 私信じます 豊かな心を
どんな意地悪な人も 微笑かければむこうも笑う
詐欺師だって悪人だって 愛すれば後悔の涙を流す筈
私は祈ります すべての人々の為に
そうすれば 愛はとめどもなく溢れ出して
激流のごとく留まるところを知らず 世界を浸してゆく
ピアノが止まった。
『はい、よろしい』
『……ありがとうございました』
もな美が見せたものは、単なる踊りではなかった。
それは、心の躍動。
もな美は心で上演された芝居を見事に演じて見せたのだ。
胸の中は充実感でいっぱいに満たされ、頬に熱い血潮が走っている。もな美の表情はいつも以上に輝きながら、オーディションの会場を去って行った。
もう合否など、どうでもよくなっていた。渾身の演技の素晴らしさを知る事のほうが、よっぽど大切な事だとわかったから……
《汗をかくのが、こんなに心地いいなんて今まで思わなかったわ。このすばらしい汗を、これからもたくさん流そう》
ヨーロッパへのウイニング・ダンスを踊ったときと同じく、或いはそれ以上に晴々とした気持ちになっていた。そして口をついて出てきた一言は……
「あとは野となれ、山となれ―――」
★言葉よ、届け
『1番線に停車中のトレインは、17時発急行地球行きでございます……』
「パパどーしたの?乗り場そっちじゃないよ」
「え?ああ、すまんすまん」
「モウ、大丈夫?ボーっとしちゃって」
「面目ない……」
あのビーチの事件以来、フレードはクロディーネに会ってはいない。
せっかく彼女が好意を持ってくれたというのに、彼女の気持ちを踏みにじる事になってしまった。
カメリアに瓜二つの女性にふらりと傾いたのは間違いだったのだろうか?
浮気なリゾート惑星で、束の間眩しい夢を見たと思って忘れた方がいいのだろうと、フレードは無理矢理自分を納得させるしかないようだ。
ただ、ほろ苦い気持ちを抱いたまま、このトロピカル・プラネットを旅立つのが切なく心残りだ……
列車のステップに乗り込むとき、ターミナル・エントランスの方を振り向いてみた。
やはり、あの優雅な佇いは見受けられない。
「ふ……」
小さな溜息をひとつつき、振り切るようにフレードは列車へと乗り込んだ。
「お帰りなさいませ、いかがでした?この星で存分にお楽しみになりましたでしょうか?」
「あ?ああ。自然豊かでいい所だったよ」
「それは宜しゅうございました」
にこやかに笑うトピーは何も知らない。それに合わせるかのようにフレードはつくり笑みを浮かべて、周りの誰にも心配をかけぬよう、哀しい想いは自分の箱の中へ人知れずしまいこんだ。
(早くトレインが発車しないかなあ……)
もう、一秒でもすぐにトロピカル・プラネットを発ってしまいたい。
とっとと次の星に向かって、恋の痛みなど思い出さないのが一番だと時計ばかり気にしているが、こんな時に限ってトピーはさっさと業務に戻ってしまい、ディムも黙って本ばかり読んでいる。発車までの僅かな待ち時間が永遠のように思えてきてしまう。
(よし、何か読んで気を紛らそう)
「ディム、ちょっと図書室車に行ってくる」
フレードはコンパートメントを出てライブラリーに向かい、本を物色し始めた。
(なるべくなら恋愛とは関係ない書物にしよう……)
頭を使って余計な事を考えないような難しい内容の書物を選んでいると、ふと目についた物があった。
“宇宙の哲学と真理について”
(あ、これが良さそうだ。よし、これにしよう)
フレードはその書物を借りて自分のコンパートメントへと向かおうとした時、車内アナウンスが流れた。
『皆様、大変お待たせ致しました。間もなく発車致します……』
(あ、いけない。すぐ戻らないとな)
ライブラリーは3号車、フレードたちのコンパートメントは最後部なので、小急ぎに移動しなければならない。
靴音をバタバタと立て客車間のデッキを渡っていると、ふとデッキの窓に鮮やかな黄色いものが映り込んだので、フレードは思わず持っていた書物をカシャンと床に落としてしまった。
「!」
鮮やかな黄色……それはムームードレスで、胸元にレイを飾り、栗色の巻き髪にも黄色い花を挿した姿が映っている。
「クロ……ディーネ?」
彼女は淋しげな表情で、躊躇いがちに立ち尽くしていたが、そのうち口を開き始めた。
「…………………」
ガラス越しでは声が届かない。
フレードはドアの所へと回った。
「フレードさん!」
「クロディーネさん!……悪かった、本当にすまない。君の気持ちを傷つけて、私は取り返しのつかない事をしてしまった」
「フレードさん、いいの。もういいの。あなたの心にいるひとに嫉妬した私も悪いのです。愚かな私を許して下さい」
「クロディーネさん……」
二人はもう一度抱き合った。あのビーチでの続きのように……
さっきまでは少しでも早く発車して欲しいと思っていたくせに、今は事故か車両トラブルでも起きて出発できないようにならないかと願ってしまう。
そんな思いも聞き入れられる事なく、無情にも発車メロディーが鳴り出した。
♪♯♪♭♪♪♪――――
「あっ!」
二人を引き裂くドアが閉められてしまった。
「…………………」
クロディーネの唇が動いている。
《フレードさん、あなたを……愛してる》
列車は動き出した。
フレードはなりふり構わずに走り出す。
「クロディーネ……クロディーネ。私も君を……愛してる!」
他の乗客たちの怪訝な視線も気にならない。フレードは車両から車両へと駆けながら、窓越しに何度も叫んだ。
「クロディーネ、愛してる!」
《なあに?分からない》
クロディーネは耳を澄ます仕草で、フレードの言葉が読み取れないと言っている。
伝わらないもどかしさと、加速するスピードがフレードにダメージを与えてゆく。
段々息も切れて体が言う事を聞かなくなるが、どうしても伝えたい。伝えなければ、フレードの体は次の星に運ばれても、心はずっとこの星から旅立てないような気がする。
そうこうしてるうちコンパートメント車両に入ってしまい、窓が見えなくなってしまった。
(クソッ!あとは最後部のデッキからしか見えないか。せめて姿だけ見ておきたい……)
フレードは全速力で列車の一番後ろのデッキへと向かった。
「ハッ、そうだ!声が届かなくても……」
人は、もうあとがない時などに前触れもなく妙案が浮かんでくるものである。それは、今フレードにも電光石火の如く訪れた。
最後部デッキに出ると、ホームの端まで走ってきた黄色いムームーに再び逢えた。
フレードは高く手を挙げると、最初に人差し指を立て、次に親指も立て、最後に小指も立てた。
(I・LOVE・YOU……)
クロディーネには見えただろうか?
アルファベットのI・L・Yを指で示した、地球をはじめあらゆる星で共通の“私はあなたを愛してます”という意味の手話だ。
これがフレードに出来る最後の精一杯の言葉だった。
(やはり通じてないのか?)
もう、プラットホームが遠くなってしまう。
クロディーネも遠くなると思った瞬間、黄色いムームーから伸びた手が高く挙がった。
『I・L・Y……』
確かにその手もそう言っている!
「やった。通じた、通じたぞ!」
フレードも、同じ仕草を何度も何度も繰り返している。クロディーネのドレスが黄色い点になって、やがて見えなくなるまで……
その言葉は亡き妻でもその幻影でもなく、生きた体を持つれっきとした人に贈られたものだった。
(クロディーネ……カメリアじゃない君を、愛しているよ……)
フレードはもう一度トロピカル・プラネットに降り立って、今度は自分の口から彼女に直接言おうと、密かに心に誓うのだった――――
★奈落へのプレリュード
「そして私はオーディションに合格して、ル・グランシエルバレエ団に入団できたの。そのあとはもう、寝てもさめても死に物狂い。ふふふっ、もう夢中だったわね。あまりに夢中で、動画の早送りみたいな毎日だったわ。気がつけばプリマになってたって感じ。そう、貴女とともにヨーロッパで“日出ずる国の二人の美女”なんて言われたわね。少女の頃に描いた夢が現実のものとなり、私も栄華を極めて至福のときに酔いしれていたの……」
もな美は、天才日本人バレリーナとして世界の舞台で活躍をした。
遠いあの日の「将来の夢」の作文の言葉どおり、絶賛の拍手を一身に浴びていたのだ。
しかし残酷にも、幸福の絶頂にいた彼女に魔の影が容赦なく忍び寄って行った……
「私がはじめに違和感を感じたのは、“金色の靴”という創作バレエを演じたときだったの……」
舞台は第三場、ヒロインは奇跡の靴を探し求めてさまようというソロの場面。
もな美はいつものように片足のポワント(爪先立ち)を決めようとした。
《……!?》
観客は何も気づかずに喝采を浴びせかけてきたけれど、どうも自分では納得がいかない。
《何?どうしたというの……?!!!》
重心がずれたというか、バランスを崩したというか、ほんの一瞬だがもな美の足はいうことを聞かずに、すんでのところで踊りが台無しになってしまうところを必死で持ちこたえたのだ。
『モナミ、あれは何です!』
『申し訳ありません……』
バレエ団支配人のアデルにはやはり気づかれて、叱咤を受けてしまった。
『あなた最近レッスンに身が入ってないとの噂だけど、ウチのバレエ団始まって以来の東洋人プリマだと騒がれて、少しばかりいい気になってない?このまま天狗になって踊りに精進できないようなら、いつでもバックダンサーに戻しますよ!』
アデルの厳しい言葉に打ちひしがれながら、もな美はもう一度基本から強化すべく自分を鞭撻し続けた。
《このままプリマを降りるなんてイヤ!私は踊れる限り舞台で大輪の花を咲かせるのよ!!》
奮起の甲斐あってその次の舞台では堂々と大胆に、苦しいほどの麗しさで観覧席のオーディエンス達を魅了した。
『モナミ、ブラボオ!』
『Une belle femme De l'est!(東洋の美しいひとよ)』
しかし……
『あっ……!』
緞帳が下りてふっと息を抜いた途端、左足に激痛が走り、もな美は冷たい板の上へと崩れ落ちてしまったのだ。
★愛はシューティングスター
「そのときの舞台の床のなんと冷たかったことか。その後運ばれた病院で、私は死の砂漠に放り出されたような宣告を受けてしまったのよ。できる事なら聞きたくはなかった……」
ティーカップが僅かに震えている。
伏せた長い睫毛が濡れているのが、私にはわかる。
私もできればその先を聞きたくないけれど、「やめて」とも言えなくて、キリキリと疼く胸を押さえながら黙って俯くより他はなかった。
「担当医のシャンティエ先生は、いいお医者様だったわ。私を気遣って下さって、いつも微笑みかけ、“痛いのは今だけで、苦しみなどきっとすぐに消えてしまいますよ”と私を励ましたの」
目を閉じたまま上を向いたもな美の頬に、薔薇色の光明が差した。それを見つけた私の胸の痛疼がいくらかおさまってゆく。
残酷な不幸せばかりではないのだと安堵の念に押さえられ、私はお茶の湯気に睫毛を潤わせて、また目を閉じた。
『主は汝を狩人の罠と、恐ろしい疫病から助け出されるからである。主はその羽をもって汝を覆われる。汝はその翼の下に避け所を得るであろう。その誠は大盾、また小盾である。
汝は夜の恐ろしいものをも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。また暗闇に歩き回る疫病をも真昼に荒らす滅びをも恐れることはない。たとえ千人が汝の傍らに倒れ、万人が汝の右に倒れても、その災いは汝に近づくことはない……わかりますか?マドモワゼル・モナミ』
『いえ、どういった意味ですか?シャンティエ先生』
『信じよ、さすれば汝に奇跡が起きよう―――いいですか、検査の結果がどうであれ回復を信じるのです。もう一度舞台に立って踊るという希望を持ち続ける限り、あなたの足は完全を取り戻すでしょう』
シャンティエの言葉は、独りで横たわるもな美のベッドの寒さを暖めていた。もうバレエをやめなければいけないかも知れない―――そんな失望感と戦っている時に、彼はもな美に勇気を薬のように与えつづけていった。
もっと早くシャンティエに邂逅っていたなら、もな美の人生は別の方向に向かったかも知れない。彼女は恐らく、シャンティエに何か慕情めいた想いを抱いていて、それが育つと多分恋へと発展していたのだろう。私だって手に何らかの怪我を負って、シャンティエ医師に逢ったとしたら、間違いなく敬愛していたと思う。
しかし、もな美の左足は想像以上に気の毒な状態へと進行していたのだ。
『マドモワゼル・モナミ。検査の結果が出ましたが、これから私の言う事に対して恐れたり、取り乱したり、絶望したりなどの感情を捨てられると誓えますか?』
『はい。私は先生を信じているので大丈夫です。何を聞いても動揺はしません』
『そうですか、安心しました。では隠さずにお話致します。バレリーナのあなたにこんな残酷な事を言うのは非常に心が痛みます。しかし、悪魔だと罵られても告知しなければなりません。実は、あなたの足はOsteosarkom……つまり、骨肉腫にかかっています。病状はかなり進行していて、このまま放っておくと左足切断という事態が避けられなくなってしまいます。しかし……』
バン!
持っていた聖書が手から滑り落ちて、診察室に派手な音が響きわたってしまった。
流石にもな美も動揺の色は隠せなかったようだ。
シャンティエはもな美をフォローして宥めるように続けた。
『しかし、ここでひとつ約束して下さい。治るかどうかはあなたの意志ただひとつにかかっています。バレリーナとして復活する希望があるなら、舞台に立ったときの足の感触や踊りの振り付け、そしてオーディエンスの絶賛の嵐を思い浮かべ、そのヴィジョンを失わないで下さい。病気はあなたの強い意志に勝る事はできません。私と一緒に戦って頂けますね?』
『はい……私、決して負けたりしません。必ず克服してみせます!』
もな美は驚くほど素直に宣告を聞き、シャンティエの言う通りに病室でいつも心でバレエを踊っていた。目を閉じれば何千もの観客がいて、その拍手を感じながら諦めずに治療を続けた。
するとどうだろう、段々と痛みがひいてきて、車椅子を降りて少しばかり歩けるようになってきたのだ!
もな美は喜び、とても感謝した。
そして彼女に奇跡が起きて足がすっかり自由になったら、彼女を救ったシャンティエ医師に一生を捧げてもいいと思い始めていた。
太陽とつき合っていたのは自分勝手な嫉妬からくるものだと気づきだしたもな美は、その不遇な恋に終わりを告げよう、そして新しい幸せに生きようと考えた。
けれど愛の女神は意地悪で、フランスで見つけた愛を結ぼうとしても、せっかく鎮まったもな美の心を弄んでしまうのだ。
『先生、足の具合がだいぶ良くなってきているようなので、少しばかり外出許可をいただけますか?日本へ帰ってする事がありますので』
『そうですね、長期間でなければいいでしょう。但し、無理はしないように』
『はい、せいぜい生きて戻れるようにしますわ』
『困った人だ、ははは……』
『うふふふ……』
入院先のサン・ピエール病院を後にする日、シャンティエはわざわざ休みをとってもな美を空港まで送ってくれた。もな美を気遣って優しくエスコートするシャンティエ。パッと見、誰の目にもこの二人はいい夫婦に見える事だろう。
『先生、本日はどうもありがとうございました。パリにはすぐ戻ってきますね。……あの、先生。もし私の足が元通りにすっかりよくなったら、その時は……その、ときは……』
『その時は……何ですか?』
『ゲールフランス航空537便・東京行きは、間もなく出発致します。ご利用のお客様はお急ぎ下さいませ……』
『いいえ、何でもありません。もう飛行機が出てしまうので行きますね。私きっと元気に踊れるようになって見せますので、それまで見守っていて下さいね。では、行って参ります』
ゲートの中からもな美は手を挙げ、千切れそうな程振っていた。シャンティエもそれに応えている。
暫くの間、二人は温かい感情をもって短い別れを惜しんでいた、
筈だった。
新しい愛を育てる為に太陽に“さよなら”と告げる旅だったのに、これが短い恋の終わりであると同時に、運命が掌を返そうとしているのを、もな美はまだ気づかずにいた―――――
『先生、行ってきまーす。先生――――!!』
〜第三章へつづく〜
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