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第二部 第一章

第一部あらすじ


宇宙を縦横無尽に駆け巡る鉄道“コスモ・エクスプレス”の創立千周年イベントに出席するため、フレードとディム父子は遥か遠い星“ロワンドテーリャ”から地球へ向けて旅立った。

退屈しのぎにと渡された一冊の本に、ディムはそこに綴られた千年前の祖先たちに想いを馳せる。

主人公である著者の茉莉沙は、同級生の太陽に恋するが、太陽は同じく同級生のもな美と恋人同士になってしまう。

叶わなかった悲恋を胸に秘め、茉莉沙はピアノの道へと進み、思いがけず留学先で認められピアニストとして成功する事に。

そしてもな美もバレリーナに、太陽も宇宙飛行士にと三人はそれぞれ夢を叶えてゆく。

ある日どうしても太陽に逢いたくなって、茉莉沙は太陽に自分の想いを告げた。

すると太陽の唇も、茉莉沙を好きだと呟く。

ずっと抱いていた想いが通じたと喜んだのも束の間、急に外国から帰国したもな美が

偶然太陽から茉莉沙へのプロポーズを目撃してしまい、もな美はショックのあまり湖へと身を投げてしまった。

「夢を失った、私はもう踊れない」 もな美の残した言葉が胸に刺さり、茉莉沙は太陽から離れていってしまう。

しかし、周りや太陽本人の説得に心を改め、二人はついに結婚へと踏み切れた。

アメリカへ移住し、二人の子供も設け満ち足りた暮らしを満悦していたが、ある日太陽から信じられない事実を聞かされる。

「エルディック彗星が、地球に向けて墜落!アメリカを直撃―――」

避難のため茉莉沙は子供を連れて日本へ帰国するが、太陽が宇宙開発局“WASA”に監禁同然に閉じ込められた為に避難できないと聞き、半狂乱で再び単身渡米する。

WASAの敷地に入り込み太陽に再び逢えた茉莉沙は、太陽とともに脱走した。

しかしその時、まだ来ない筈のエルディック彗星が二人のもとへ………

一方、トロピカル・プラネットという惑星に途中下車したフレード父子。

停車駅で待っていたのは、今は亡き妻カメリアに生き写しの女だった―――


        登場人物


    モナミ・グレイス・デ・ヤポナーリア  ヤポーナ公国王子の内親王

    夏沢太陽  妻の茉莉沙とともに、彗星墜落の窮地に

    フレード・ナツザワ  旅の途中、妻に瓜二つの女性に出逢う

    ディム・ナツザワ  父ディムの動揺をよそに、マイペースな自由奔放人

    セバスチャン  ヤポーナの王宮に仕える執事長

    クロディーネ・パデュウ  カメリアにそっくりなトロピカル・プラネットの女性

    夏沢茉莉沙  太陽とふたり、摩訶不思議な体験を……


*この物語はフィクションであり、登場人物や団体・建物・一部の天体などは架空のものであります。また文中に不適切な表現があるかも知れませんが、登場人物の心情やストーリーを盛り上げる為ですのでご了承下さい。

 

        


        

           第二部 第一章

   

          ★小休止

 

 翠子「はぁ〜」

 ジル「どうなさったの?翠子さん、溜息などついて」

 翠子「茉莉沙と太陽、一体どうなってしまう事でしょう?二人はこのまま落下した彗星の犠牲になるのでしょうか?」

 ジル「アラ、主人公が死んでしまえば物語はそれでおしまいですわ。作者がそう簡単に殺してしまうとも思えません事よ。だいいち、これから第二部が始まるというのに主役がいなくなるなんてあり得ませんわ」

 翠子「エッ?!この物語の主人公って、フレードとディムじゃありませんでしたの?」

 ジル「アナタ、事務所から“今回はテキトーでいいから”って言われてるか知りませんけど、台本ぐらいちゃんと目を通さないと。いくら脇役だからって手抜きはいけませんわ!」

 翠子「ごめんなさい。でも私最近とっても忙しくって……」

 ジル「そりゃあなたは次回作の主役が決まってるから宜しいでしょう、でも私はこのあとも脇役なのよ!」

 スタッフ「ジルさーん、もうすぐトリ入ります。スタンバイよろしく」

 ジル「はーい!さ、メイク直ししなければ。ああおいしいお茶だったわ。それでは私失礼致します。ご免あさ〜せ♪」

 翠子「………あーうるさかった。よくお喋りになる方ですこと。それにメイク直しだなんて、あそこまで厚塗りですと簡単には直せませんことよ。あ、コホン……さて、エルディック彗星が堕ちて来て絶体絶命の窮地に立たされた茉莉沙と太陽は、このあと不思議な運命を辿る事になります。そして“トロピカル・プラネット”に降り立ったフレードとディムの前に現れた謎の女性……こちらのお話も目が離せません。第二部は物語が佳境へと入っていき、さらに盛り上がりますが、主人公が……アレ?違う?……という風になるかも知れませんのでそちらも合わせてお楽しみ下さい。では“星の漣のむこうには・第二部”本編の前にまずはこちらからどうぞ」

 監督「カット!良かったよー翠子ちゃん。ありがとう、お疲れ様」

 翠子「ありがとうございました」

 マネージャー「翠子、次の現場急ぐわよ。ケツカッチンだからね」

 翠子「あ、ジャーマネ!コータバある?一本ちょうだい。アタシちょっとプクイチしてくから先に車まわしといて。それから、こないだのコマ撮り最低だったからやってらんないって社長によーく言っとくのよ!」


    

      ★いざなう謎の女


 「どうされました?私の顔に何かついてます?」

 「あ…いえ、何でもありません」

 フレードもディムも、狐につままれたように開いた口が塞がらなかった。

 死んでしまった筈のカメリアが蘇えってそこに立っているのかと思った。

 ひょっとしたら幽霊なのかも知れないとさえ思ったほど、その女性はカメリアに生き写しなのだ。

 これは単なる偶然か、それとも運命の悪戯なのだろうか?

 「ところで、お宿はもうお決まりですの?」

 「あ、いいえ。まだ」

 「それでしたら、私の勤めてるホテルはいかがでしょう?大した所ではありませんが、お部屋はオーシャンビューの眺めが好評ですし、美味しい海鮮料理もご用意できますのよ」

 「そうですか。ではお世話になろうかな」

 「まぁ、ありがとうございます!ではお疲れでしょうから、すぐにお寛ぎ頂けるようご案内致しますわ。ステーション前に送迎バスが停まっておりますのでどうぞお乗り下さい」

 「はい、どうも」

 何だかこの女のペースに乗せられている気もするが、断る事もあるまいと二人は勧められるままバスに乗り込んだ。

 一歩建物の外へ出れば痛いほどの陽射しが照りつけているが、程よい冷房のきいた車内はとても快適で、ホッと一息つきながら風光明媚な景色の中を滑って行くと、リゾート気分は盛り上がり二人の顔にはいつしか笑顔が戻っていた。

 「ああきれいだ。一点の曇りも無い青い空、エメラルドの輝きの珊瑚の海、情熱色に萌える熱帯の花。ここは別世界だな」

 「これより断崖沿いの上り坂に入ります。しばらくカーブが続きますので、ご気分がお悪いようでしたらすぐにお知らせ下さい」

 車窓の景色はさらに見晴らしが良くなり、七色に変化する素晴らしい海を自分達の為に用意されたものの様に二人は楽しんだ。言葉も持たず感嘆していたフレードは、若き日にカメリアと遊んだ海辺を再び想い出していた。



 『フフフフフ、アハハハ……フレード、待ってぇー』

 『はやくおいでよカメリアー。もたもたしてると流されちゃうぞー』

 『もう、意地悪ネ。おぼえてらっしゃーい!』

 『ハハハハハハ……』



 「パパ、パパぁ。ホラ着いたよ」

 「……ハッ!」

バスはいつの間にかホテルの前に来ていた。

 「お疲れ様でございました。どうぞお忘れ物ないようお降り下さい」

フレードは不思議な感覚に捕らわれている。

 目の前の女を見ていると、今しがたまで回想の中にいたカメリアが抜け出してきた気がしてならない。

 それとも自分が想い出に閉じ込められて、出口も無く彷徨い続けているのかと少し混乱に陥っている。

 「さ、どうぞ。こちらでございます……」

 そんなフレードを惑わせるように、女は愛しい妻に瓜二つな微笑みを投げかけている。



 


     ★まるで拉致


 リー……リー……リー……

 (虫の声が聞こえる……私達、助かったのかしら?)

 気がつくと、私は太陽と折り重なって森の中で倒れていたようだ。

 彗星が堕ちてきた割には、何事もなかったように辺りは穏やかに静まり返っている……

 おかしい、不気味なほど静かだ。

 私達だけが助かって他の人々は皆滅んでしまったのだろうか?

 いささかの不安が胸を突いて、私は堪らずに側に倒れている太陽を揺り起こした。

 「あなた、あなた!大丈夫?」

 「ん……茉莉沙……無事なのか?僕達は助かったのか?」

 「ええ、そのようだわ。でも何だか不思議なの。森が破壊された訳でもないし、いつものように穏やかなのよ。とても天変地異が起きたとは思えないわ」

 「そうだな、彗星が陸地に堕ちたら無事に済む筈がない。やはり海にそれたか、ぎりぎりのところで免れて堕ちて来なかったのかのどちらかだろう。取りあえずWASAに戻って確かめてみよう」

 二人ともかすり傷ひとつ負っている訳でもなさそうなので、立ち上がって歩くのは容易だった。

 私達はもと来た方へ戻ろうと思ったが、生きるだの死ぬだのの大騒ぎの後なので方向が分からなくなってしまっていた。

 「ねぇ、どっちだったかしら?」

 「う〜ん、光がうっすら差してるあっちが森の端だな。深い所まで来ていないから出口はすぐそこだよ」

 その光の差してくるほうへ行ってみると、すぐに森から抜け出せた。

 しかし、何かが違うと私達にはすぐに感知できたのだ。

 「……おかしい。WASAがすぐ側にある筈なのに、それらしい建物はどこにもない。違う方向に出たとしてもこの辺りはこんな地形になってない筈なのだが……」

 私達がいた森は何故か高台にあって、ふもとのずっと向こうに街があるのが窺える。

 だがWASAの周りは森を含めて平地になっている。こんな丘はこのあたりには無い筈なのだ。

 「彗星が堕ちた衝撃で、地形が変わったのかも知れない。街は無事なのかどうか調べに行ってみよう」

 私と太陽は丘を下って、街へ続く道沿いに歩いていた。心なしか景色が見慣れないものに見えて仕方がない。

 (知らない場所を歩いているみたい。これも彗星が堕ちたせいなのかしら?)

 草も木もこの世のものではないのが生えているようで、何だか様子が違う野原の道を私達はトボトボと歩いていた。

 

 暫くすると、向こう側より車が数台走って来るのが見えてきた。

 通行の邪魔をしないよう道路の端に寄ると、思いもかけずすれ違いざまに車の群れは停まって、降りてきた人達が話しかけてきたのだ。

 「あの、突然で失礼ですが、あなた方は向こうの山の方から来られたのではありませんか?」

 仮装行列でもしているみたいにマントを羽織り、少々奇妙ないでたちの男達の中の一番年配の男が尋ねた。

 「ええ、そうですが……」

 「左様でございますか。ではそこの男性のほうの貴方、失礼ですがお名前は太陽さんとおっしゃるのでは?」

 「はい、その通りです。でもどうして僕の事を知っているのですか?」

 この見知らぬ男が何故彼の名前を知っているのだろう?ひょっとしてWASAから逃げ出したりしたから追われてるのかと、私は急に不安の影に怯えた。

 太陽も怪訝な顔をして、何かを怪しんでいるようだ。

 「やはりそうでしたか。実は貴方をお迎えに上がりました。皇太子妃殿下が貴方をお待ちでございます。さぁ、車にお乗りになって宮殿までお越し下さい」

 お迎え?妃殿下?お待ち?

 ………頭の中で繰り返して整理しようとしても、何が何やらさっぱり糸が縺れたままで、私も太陽も混乱の迷宮へとはまっていった。

 「ああ、そこの女性も何のことか分からないからいいでしょう。ま、事情を知って頂く為取り敢えず一緒について来て下さい」

 (は?!……ムカッ!何なの)

 何て言い草なんだろう!私はついでのおまけなのか。

 しかしこのままだと訳が分からず気持ちが悪いので、ここは大人しく言うとおりにしたほうが良さそうだ。

 私達を乗せるや否や車はいきなり胃のあたりに重力の負荷がかかる程スピードを上げ始めたので、私は少し心配になってきた。

 「あのー、そんなに急がなくてもいいんじゃありません?この道路、どう見たってハイウェイじゃないでしょう?警察が見てたらスピード違反になりますよ。それにもし事故にでもなったら……」

 「貴女は黙っているように!これだから女は嫌だ。連れて来るんじゃなかったかな」

 (カッチーン!何よ!!)

 この得体の知れない奴らの態度に憤りを覚えつつも、太陽が手荒に扱われないよう出かかった言葉も呑み込んで、喧嘩を売る真似は控える事にした。

 「スピード違反なら心配いりませんよ。この速度ならこの辺りでは制限内だ」

 (いくら街外れの田舎道だからといって、何マイルで走ってんのよ。こんなにスピードを出していい法は無いでしょ!)

 口の中でブツブツ呟いていたら、そのうち段々と市街地へとさしかかってきた。

 流石に街に入ると速度は落ちてきたようで、私は少しホッと胸をなで下ろした。

 街は思いのほか大都会のようで、幾つもの高層ビルと摩天楼の林を縫って走るモノレールが窓の外を流れていった。

 (こんな大きな街が近くにあったかしら?)

 私達が暮らしていたのはアメリカの片田舎の地域なので、車ですぐの所に都会があるのはとても不思議な感じがしてならない。

 

 やがて辺りには庭園が広がり始め、フロントガラスの向こうに白くて巨大な建物が見えてきた。ギリシャ神殿のような大きな柱がエントランスに控えていて、私は一瞬ホワイトハウスまで来たのかと思ってしまった。

 「さぁ着きました、どうぞ」

 車を降りた私達は度胆を抜かれた。

 何段あるか分からない広い大きな階段の上にドーンと聳え立つ迫力満点の巨城―――

 すっかり圧倒されて、とんでもない所へ連れてこられた、出来れば踵を返してこのまま帰りたいと気後れしてしまった。

 「どうぞお入り下さい。これから妃殿下のおわします王座の間へご案内しますが、固くならなくても結構です。お楽になさって下さい」

 私達のような一般市民が王族のお方に謁見するというのに、誰が緊張せずにいられるものか。

 大体さっきから気になっていたが、アメリカは君主国家ではないから何処の国の妃殿下がいるんだという話だ。

 しかも何処ぞのお妃が太陽の知り合いだとは聞いた事などない。

 どうにも腑に落ちなくて早く真相をはっきりさせたいと、迷路のように延々と続く廊下を歩きながら私はあれこれ考えていた。

 「こちらが王座の間でございます。妃殿下にお会いになったら、くれぐれも失礼の無いようお願い致します」

 ギギギイ………

 王座の間の大きく重厚な扉は開かれた。お偉い方に会うこの瞬間、流石に心臓がキュッと縮む思いがしてしまう。

 私は目を閉じ胸を押さえ、ステージに立つ時のように息を整え、頭の中を透明にしようと努めた。

 (………あっ!!)

 眼を見開いた私は呼吸が乱れ始め、もう少しではしたなく大声を上げてしまうところだった。

 「ようこそいらっしゃいました。さぁ、もう少しこちらへ……」

 玉座の美しいプリンセスは私達に微笑んで手招きをしているが、その微笑は雪の女王の吐息にも似て私達をツンドラの大地のように凍りつかせ、体の震えが止まらなくなってしまったのだ。




   

     ★浮気な恋の惑星



 「恐れ入りますが、こちらにお名前とご住所を惑星名からお願い致します」

 フロントクロークで宿泊記帳用の小型キーボード端末を差し出され、フレードは美しい音楽でも奏でるような鮮やかな手さばきで入力した。

 

    フレード・ナツザワ Age48

    Planet ロワンドテーリャ 

    Addles エダンブル国 ヤポーナシティ リブラリ区3番アヴェニュー5−486 

    ディム・ナツザワ Age18

    同上


 「まぁ!貴方はあのコスモ・エクスプレスの会長さんですのね。存じ上げないとはいえ失礼を致しました。こんなむさ苦しい所までようこそお越し下さいましたわ」

 「いえいえ、なかなか雰囲気のあるホテルですね。私は好きですよ」

 吹き抜けの天窓には雲がゆっくりと流れていて、各フロアにある木のフェンスは優美な模様を織りなしている。

 ゴムの木・アイビー・ドラセナ・フェニックス椰子・極楽鳥花などが茂り、ヴィヴィッドカラーの鳥たち歌う熱帯コロニアルの時間がゆっくりそこに流れているようだ。

 「大変申し遅れましたが、私はクロディーネ・パデュウと申します。父は当ホテルの社長をしておりますが、私は勉強のためあらゆるサービスの仕事を任されておりますの。これもご縁ですから、宜しければご滞在のあいだ私がお世話をさせて頂きますわ」

 カメリアによく似た謎の美女の正体がようやく分かった。

 クロディーネというこの女性が自分達のサービス係を買って出るなんて、天界へ旅立った妻が本当に還ってきたようで、フレードは何か因縁めいたものを感じていた。

 「ところでお部屋でございますが、勿論最上階のインペリアルスイートを用意して存じます。幾つかムードの違うものがございますがどちらがお好みでしょう?」

 クロディーネがカウンターに触れると、部屋の様子が分かる画像がそこに映し出された。

 オーソドックスな雰囲気、大人が一杯飲むような雰囲気、このロビーと同じく熱帯的な雰囲気、華やかな白の洋館風、お伽話の世界の家みたいな部屋、宇宙空間にいるような不思議なムード……あらゆるコンセプトの部屋があって、ワクワクする迷いへと陥ってしまう。

 「あ、これがいいかも」

 ディムがふと選んだのは畳の敷かれたジャパネスクモダンの部屋で、遠い祖先の遺伝子が呼んでいるかの如く直感に響いたようだ。

 「うん、落ち着けそうでいいな。じゃあこの部屋をお願いします」

 「ハイ、かしこまりました。ではご案内致します」

 クロディーネはベルボーイを連れて荷物を持ち、フレード達を先導した。

 ベルボーイはトピーほど端正な顔立ちではないが南国の魅惑を秘めていて、ディムの浮気なハートがまた躍り出していた。

 「この“特製シースルーエレベーター”で参りましょう。ではどうぞ」

 乗り込んだエレベーターは枠組みまですべてクリスタルでできていそうな程透明感が抜群で、動き出せば体がフワリと宙に浮いていると錯覚してしまうものだった。

 「ウワ〜すごい!スリル満点。ちょっとコワイけどイイかも」

 小さな密林に似た植え込みがどんどん下へさがって、自分達が飛行人間になった感じがする。

 「いかがですか?いい眺めでしょう。高所恐怖症の方には評判よろしくございませんけど」

 人なつこく笑うベルボーイの浅黒い肌に白い歯がきらめいて、ディムはトピーをすっかり忘れてしまい、心拍数は鰻上りでこのまま眩暈で倒れるかと思ってしまった。

 チン♪

 ドアが開いて束の間の飛行は幕を閉じた。

 木製フェンスの廊下から吹き抜けのロビーが望めて、仰いでみると一面の天窓には青い空―――

 開放感溢れるこのホテルをフレードとディムはすっかり気に入ってしまった。

 しかしその中で、何やら恋の花らしきものがひっそりと咲き始めているようだ。

 前を行くフレードとクロディーネ、後を歩くディムとベルボーイはいつの間にか並んで、お互い何となくシンパシーを感じていたのだ。

 「まぁそうですの、今年はコスモエクスプレスの千年記念ですのね。地球ってどんな星なんでしょう、私も一度行ってみたいものですわ」

 「美しい星ですよ。自然が豊かで、ここにも引けを取らない位にね。瓦礫だらけの廃墟と化した星も多い中で、貴重な存在です。貴女が忙しくなければ是非ご一緒して頂きたいところだ」

 「ほんと、私もそうしたいと思いますわ……」

 知らない人が見れば、この二人はきっと同じ釜の飯を食う程親密な仲に見えるかも知れない。

 「お兄さん、この辺でおもしろいトコロってドコですか?」

 「そうですね……泳ぐならマデラスビーチ、このホテルからすぐです。女神の水浴び場とも言われていて、遠浅の海は透明度が素晴らしく、金色珊瑚の生息海域なので天気がいいと海が光って見えるんですよ。あとポストラフビーチは砂を踏みしめると竪琴を弾いたような音がして、時々ハート型の砂があるので新婚カップルには人気のビーチです」

 「へぇ〜ステキだなぁ」

 「もちろん夜遊びたいなら、ちょっと足を伸ばせばマイワウの街ですと何でもあります。この星ではお客様の年齢なら大抵のお店は入れますからご安心を」

 「でもよくわからないからお兄さんがもしおヒマなら案内してもらえたらウレシイな」

 出た!ディムのお願い光線が。この男もトピーのように哀れ餌食とされてしまうのか。

 「はははっ、僕のようなむさ苦しい奴よりきれいな人がいいでしょう?」

 「いいえ、どこに行っても楽しそうだからお兄さんがいいんです!」

 「そうですか、じゃあ弟ができたつもりで羽目を外すのも悪くないですね。結構です、体が空いているときご一緒しましょう」

 恐るべしディムの技!

 どうすればナンパが成功するのか学びたいくらいだ。やはり美少年は何かにつけて得をするのか。

 「さぁ、こちらでございます。このお部屋は入ってすぐにお履物を脱いでリラックスして頂くようになっております。地球のニッポンという国にある“リョカン”というホテル形式を真似たものですのよ。どうぞ、お入りください」

 「おお……」

 フレードとディムは今迄体験した事のない異空間に驚いたが、初めてだけれどどこかノスタルジーを感じていた。

 ドアの中は灯篭の暖かい光が照る小さな庭があり、敷き詰めた玉砂利の中の飛び石を渡って、格子戸を開けたら玄関になっている。

 靴を脱いで上がると馨しい畳の香りが胸を洗ってくれるようだ。大振りの飾り扇に床の間の豪奢な生け花、簾をめくってテラスに出てみると風鈴が潮風に歌い、露天風呂まであるではないか。一面の大海原を眺めて湯に浸れるとは、想像以上に贅沢な空間にフレードもディムも大名気分だ。

 「さぁ、お茶が入りましたわ。どうぞお寛ぎになって……」

 「ねぇパパ、なんかこのお茶緑色だよ」

 「ん、少し苦味があるが香りがいい。さすがディムだ、ご先祖の文化に無意識に惹かれたんだな」

 「お気に召して頂いたようで恭悦至極に存じます。改めまして、当ホテルへようこそおいでくださいました。私クロディーネはじめ従業員一同心尽くしのおもてなしを致しますので宜しくお願い申し上げます。何かご用の際はお気軽にお申しつけ下さいませ。あとお夕食でございますが、夕刻の6時はいかがでしょう?」

 「ああ、それでお願いします」

 「かしこまりました。では6時にこちらのお部屋にご用意致します。それまではお部屋でお寛ぎになるのもよし、ビーチに出たり市内観光もよし、ですわ。では私共はお食事の時にまた参ります。どうぞごゆっくり、失礼致します……」

 「どうもお世話様」

 「お兄さん、またネ」

 クロディーネとベルボーイが下がって、二人はハァーっと溜息をついた。

 たまたま降り立った惑星でこんな気持ちになるとは夢にも思わなかったからである。

 しかしこのトロピカル・プラネット、実は“恋のアイランド”と呼ばれる程、恋愛発生率が宇宙でNo,1の惑星なのだ。行きずりの恋に、今も惑星の至る所で泣き笑いが繰りかえされている事だろう。

 ここにも恋の予感に内心打ち震える二人がいた。

 「何だ、さっきから笑ってるけど変だぞ。何かおもしろい事でもあったか?」

 「パパだってニタニタしてるヨ。思い出し笑い?キモチ悪―い」

 お互い緩みっぱなしの口許を哂うとは目糞鼻糞で、なんて滑稽なのだろう。



  

      ★よみがえるあの日々


 「パ、パトラちゃん?!」

 にっこり微笑むお妃様、そう、彼女はやはり死んでなどいなかったのだ!

 私の胸には今迄の出来事が走馬灯のように回り始めた。


 『科学の本で見たケド、将来宇宙ステーションなんか出来て、宇宙旅行も気軽に行けるようになるんだってね』

 『ソウソウ、他の星に植民地つくって地球から人が移住する事もできるんダッテ』

 『じゃあ、そうなったら3人でちがう星へ行こうよ』

 『そうだね、行こう!この3人で』

 幼い太陽と私ともな美。満天の星空の下で他愛も無い約束をしたものだ。


 『さぁ、貴女の番よ。緊張するのは始めだけ、弾いていると楽しくなるわ。行ってらっしゃい』

 そのあとのピアノ発表会で、具合が悪い程緊張した私に勇気を与えたのは太陽だった。

 《茉莉沙がんばれ、ここで見てるからな》

 《ウン、ありがとう太陽クン。私精一杯やるわ》

 お互い頷きあいステージと客席で言葉の無い会話を交わして、それまで淡雪みたいな想いをそのときはっきりと自覚した。

 “太陽が好き”だと―――


 『た…………』

 『太陽クーン!良かったーっ今日会えなかったらどうしようかと思っちゃった。はいコレ、プレゼントよー』

 プラタナスの木の陰で震えながら見ていたヴァレンタイン・ディ。

 太陽に渡されたのはよりによってもな美のチョコレートなのがショックで、日の目を見る事がなかった私のチョコレート。


 『今度ねぇ、なんとおデートなのぉ。“もな美、好きだよ”なーんて言われたらどうしよ』

 耳を塞ぎたいお惚気に嫉妬を通り越して呆れながら、私はその後もピアノに打ち込み続けた。その甲斐あって、ヨーロッパ留学も決まったのだ。


 『二人とも元気でね。また逢いましょう三人で』

 『ええ、きっと』

 寄り添って見送る太陽ともな美に胸を痛め、振り切るように私は飛行機に乗り込んだ。

 留学先で認められて一躍ピアニストとなったが、太陽も夢叶い宇宙へ飛び出したのを知ると、無性に逢いたくて再び日本へ舞い戻ったのだ。


 『お久しぶり、元気そうね。すっかり見違えたわ』

 『君こそずいぶん立派になって』

 再会を祝うお店でワインを沢山飲まなければ、私の運命は違っていたかも知れない。

 『星の話をするタイヨークンってス・テ・キ。ワラシホントのコト言うとムカシからアナタのコトダーーーーイスキなの。ずっとずっとずーっと片想いなのヨ』

 『そう、僕も宇宙に行って気がついた……僕が本当に好きなのは、茉莉沙……君だったんだよ』

 思いがけない言葉に、そのときもな美は大変な事になっているのも知らず舞い上がっていた。誘 われるままに出かけた北の湖で、私はまたも驚いたのだ。

 『茉莉沙、結婚しよう』

 『…………!』

 驚いたのは、私だけではなかった。

 『もな美!』

 『パトラちゃん待ってえー!お願い話を聞いて』

 『来ないで!……私の足はもう踊りには堪えられないのよ……骨肉腫と診断されたの。このままだと足を切断よ………アハハハハ!………ねぇ、さっき言った言葉、あれ嘘でしょう?冗談よね?ねぇ、そう言ってよ……』

 『さっき言ったのは本当だ。僕は茉莉沙にプロポーズしたんだ』


 そしてもな美は湖へ向かって跳んでしまったが、その後どんなに捜索しても彼女は見つからず、その行方は長い間霧の中へ姿を眩ましたままでいた。

 しかし今こうして元気そうに生きているの見て私は嬉しくなってきた。

 万一もな美が死んでいたら私のせいだと自責していたが、胸の奥に食い込んだ重い十字架が、いま取り外される思いがする。

 「お久しぶりですわね。昔あなた方の前で随分醜態を晒してしまいましたけど、私はこうして元気に、そして立派に立ち直っています。さぁ、そんな所に立っていないでもう少しこちらへいらしたら?」

 もともとお嬢様のもな美はどことなく気品というものが漂っていたが、更に気高く凛としていて、私などとは月と鼈で、何だか近づくのも憚られる気がする。

 私達はためらいがちに、ドレスの小さな飾り模様まで分かる距離まで行くと、彼女は更に磨きがかけられていて、白い大輪の花が強い芳香を放っているかのようだ。

 「ところで、あなた方は恐らくまだ訳が分からない事でしょう。私は全てを知っています。お話しようとは思いますが、長くなってしまいそうなのでご一緒に午餐などいかが?ここに来てからまだ何も召し上がっていないでしょうから……これ、セバスチャン、セバスチャン!」

 「失礼致します。モナミ様、お呼びでございましょうか?」

 現れたのは先程私達をこの城まで半強制的に連れて来た、悪い言葉で言うと腸の煮えくり返るような糞爺いだ。

 この手のタイプは上の者に対してコメツキバッタになる癖に、私達をゴミのように思っている。

 そのたるんだ皮の下で何を考えてるか分からない面は見てるだけで虫唾が走るので、思わずソッポを向いてしまった。

 「私は今からこの方たちと食事を摂ります。ブランカの間にすぐ用意をさせるように。ではあなた達、参りましょう」

 玉座から立ち歩くもな美を見て、私は不思議に思った。

 確か足が良くない筈なのに、びっこも引かず優雅に歩を運んでいる。

 そんな疑問を察したのか、もな美は振り返り笑った。

 「もう踊れないとあれだけ大騒ぎだったのに、普通に歩いてるなんておかしいと思うでしょう?それもゆっくりお話しますわ」

 ゾクッ。

 一瞬肌に戦慄が駆けぬけてゆく。

 顔は満面の笑みを湛えているのに、この人は笑っていない……

 いいえ、楽しいとか面白いとかの感情とは全く別のものを仮面の裏に隠しているという方が正解かも知れない。

 私はやがて知る正体不明の魔物の存在を感じて、真昼なのに肌寒さに身を縮ませていた。


      ★信じられない話



 「さ、とりあえず乾杯でもしましょう………そうね、私達がまた三人揃って再会できた事に乾杯」

 「乾杯」

 私達はバルコニーのある白い部屋に通され、アペリティフを口にしてみた。

 「………美味しい」

 芳醇な美酒は私が今迄飲んだ事の無い円やかさと薫り高さで、混乱と緊張と疲れをいっぺんに吹き飛ばして私を和やかな気持ちにさせてくれた。

 「オードブルはルヴァンのサラトバマリーノでございます。どうぞ」

 「これはルヴァンという植物の実をサラトバという調味料に漬け込んだものよ。ルヴァンは高山の荒涼とした岩場に生えていて、採れる量はとても少ない貴重なものなの。味わってお召し上がり遊ばせ」

 何だかよく分からないが、私達は今とんでもない贅沢をしているようだ。そのルヴァンとかいう黄色い物体を一口舌に転がせてみると……

 「………ん!」

 見た目によらずとても柔らかい。口の中でシュワ〜ッと溶けて気持ちまで蕩けそうだ。このようなものをいつも食べられるなんて、もな美が少し羨ましく思えた。

 「いかが?この星の食べ物はお気に召して?あ、そうだったわ。あなた達はまだ知らないのね。では申し上げますけど、落ち着いて聞いてね」

 さっきからもな美は変な事を言っているが、一体どういう意味なのだろう?

 その口ぶりからは普通の事ではないと窺えるが何があるのか?私は何を聞いても驚かないように覚悟を決め、グラスのお酒をグッと飲み干した。

 「実は、幸か不幸か分からないけどあなた方は、もう地球にはいないのよ」

 「え?!」

 危うくもう少しでテーブルのナイフフォークを派手にガシャン!とぶちまけてしまうところだった。もな美の言っている意味が、まだ私にはよく理解できない。

 「ここは、ロワンドテーリャという地球からそれはそれは遠いところにある星です。まぁ俄かには信じられないでしょうね。私もそうだったもの」

 「そんな遠くの星に一瞬でテレポテーションしたのか?!馬鹿な、あり得ない!」

 「それが起きてしまったのよ。この星の科学者から聞いたけど、時空にはたまに歪みというのが発生するんですって。で、それだけなら何事も無いけれど、そこに何かの弾みで強い力が加わると、歪みがはじけて人が亜空間というところへ巻き込まれてしまうんだそうよ」

 「そんな、オカルト映画じゃあるまいし。じゃあナニか?異次元の亜空間を通って普通では行けないような宇宙の彼方の星へ来てしまったというのか?」

 「難しい事はよく解らないけど、科学者の人は理論上起こり得ない奇跡を、人は時々起こす事があるって言っていたわ。亜空間に入った人はごく限られた人たちで選ばれた人と言えるそうよ。昔から行方知れずになってしまった人を“神隠しに遭った” というでしょう?この星はその、地球で“神隠しに遭った”と言われる“選ばれた人たち”が暮らしているの。だからここロワンドテーリャは…あ、因みにロワンドテーリャの言葉の意味は“遠く離れた地球”というのよ。ロワンドテーリャでは、科学も医学も地球より数段すぐれたものとなっているわ。私が湖で消えてしまう前にあなた達に言ったでしょう?」


 『私の足は、もう踊りには堪えられないのよ……骨肉腫と診断されたの。このままでは足を切断よ!』


 「もう先程ご覧になったわね。今はこの通り自由に歩けるし、踊りだってできるわ」

 もな美は席を立つとクルリと回って足を上げたり、腰を落としてのけぞったりして昔と変わらない優美なパ・デュンヌを演じてみせた。

 湖で見た、もう踊れないバレリーナの悲愴さはどこにも漂ってはいない。

 「ふう、流石にこの服と靴じゃ踊りづらいわね。あ、グリサンドルをもう一杯頂戴、この方たちにもね……でもこれでよく分かったでしょう?もう絶望的だったこの足がすっかり良くなったのよ!地球上では不治の病といわれる病気だってここでは回復が可能になっているわ。素晴らしいでしょう?」

 踊ったあとシタリ顔でグリサンドルという酒で喉を潤しているもな美と、白鳥に変えられたオデット姫より悲惨だった湖畔のバレリーナはまるで別人だ。

 お酒が効いてきているのかも知れない。もな美の話も踊りも、白日夢(デイ・ドリーム)の中のクルクル変化を魅せる万華鏡の世界にしか思えない私なのだ。

 「ところで貴女、私の事こんな高尚な身分になれて随分幸せなオンナだとお思いでしょう」

 その瞳の奥深く、水面下に氷の海を隠している視線をまた私に向けてきた。突然矛先を振られて、ビクッと怯えた私はさっきのようにまたフォークを落としかけてしまった。

 「今日までたどり着くのに、血の滲む思いをしてきたわ。人は誰も私の栄光を羨むでしょうけど、私の人生、決して甘くはなかったわ」

 彼女の瞳には、ふたつの違うものが宿っているのが私には見えた。ひとつは荒れ狂う吹雪の冷たさ、もうひとつは燻ぶる炎。それらがやがて巨大なものとなって私を襲うのではないかと、穏やかではない予感に胸の中には戦慄が走っているのだった。


     ★ちいさな胸の痛み



 「私、小さい頃イギリスにいたのは知ってるでしょう?実はそのときイジメられたりしていたわ」

 「え、そうだったの?!」

 そんな事いま初めて耳にした。

 てっきりもな美はどこでも人気者だったと思い込んでいたからいささか心外である。

 「あの頃、本当に早く日本に帰りたかった。父が海外で仕事をしていたのを恨めしく思ったりしたものだったわ……」

 白いカーテンを揺らす風を見つめる眼が、遠い日々を追いかけ空の青さに染まっている。私にはきれいに映ったが、その奥に秘められているものを今ヴェールを解き放ち露わになろうとしているのが少し恐い気がする。

 そんな私をよそに、もな美は遠い記憶を辿り始めてゆく。


 『やーい、サルだー。サルが来たぞー、逃げろー』

 『わたしサルじゃないもん!ヒドイわ、エーン……』

 『モウ、男の子たちってしょうがないわネ。モナミちゃんだいじょうぶ?ホラ元気だして、さぁ帰りましょう』

 『ありがとう、わたしもうへいきよ……アッ!痛っ☆』


 「……なぐさめてくれた女の子は靴を履き替えるときなんとなく笑ってたのを今でも憶えているわ。下履きの靴にいつの間にか画鋲が仕込まれていたのよ。それだけじゃないわ。体操の授業のあと、私のノートに落書きがしてあったり破られていたり、鉛筆もよくなくなっていたの。或る時上履きの靴がいくら捜しても見つからなくて、あったのはゴミ箱の中だったわ。

ひどかったのは、鞄の中がランチの残飯でいっぱいになってたの!ショックだった……けど一番信じられなかった事件はね、『遠足のお金がなくなった!』って大騒ぎした子がいて、結局その子のカン違いだったけど私が盗んだ犯人に仕立て上げられたの。

一体私が何をしたっていうのかしら?今と違って当時は大人しかったから、ついイジメたくなったんでしょうね」

 私だって幼い頃は大人しい子だったけれど、そんな虐めには遭ってはいなかった。

 やはり整った顔立ちに艶やかな美しい髪、それに開花しはじめたバレエの才能が周りを羨望と嫉妬の渦に巻き込んだのだろうか。

 私は平気だったけれど、彼女を取り巻く飛び抜けて輝いた非凡なオーラが子供の心のマグマを刺激したのだと思う。

 「このままではいけないって事で、私は母と一緒に日本に帰ったの。肩の荷がスーッと下りたようで嬉しかったわ。そしてあなた達と邂逅(であ)ったの。運命の出逢いってやつかしら?ほんと、昨日の事のように鮮やかに思い出すわ………」

 私も瞼の裏にシネマを見るように甦ってくる。

 思えばあれは、私達三人の人生の千里の道の第一歩だったかも知れない。

 そう、もな美との邂逅(であい)が私達の数奇な紆余曲折の道を決定づけてしまったのだ。

 運命というものの性格がもう少し素直だったら、きっと私達三人は今頃ここにはいない筈だったのに―――




      ★夢と苦悩



 『今日は皆さんに転校生を紹介します。一ノ原もな美さんです、皆さん仲良くして下さい』

 『一ノ原もな美です。ワタシ外国にずっといたから早く日本に慣れて、クラスの人達とお友達になりたいです。よろしくお願いします』

 『わー、お人形さんみたい』

 『カワイイー。タイプだなぁ」

 『はい、静かに。一ノ原さん、席は福本さんの隣に座ってね』

 『福本サン、よろしくネ。いろいろ教えてちょうだい』

 『あ、こ、こちらこそ……』


 「………あの時のあなた、男の子みたいに髪が短くて、確かデニムのオーバーオールか何か着てて、気取りの無い素直な人だって直感ですぐに分かったわ。

“あ、この人なら絶対私の味方になってくれる――”ってね。案の定、あなた達は私と仲良くしてくれた。……いつだったか三人で、星を観た事があったじゃない?冬だから寒かったけど、東京の空とは思えないほどスッキリ晴れわたって、ほんと奇跡みたいだった。あんなに星が沢山夜空に輝いてるなんて、それまで考えた事なかったの。うつむいてばかりだったから……あの星空、今でも忘れない。じぃーっと見てると、深い深い夜の海が空全体に広がっているみたいに見えてきて、漣がキラキラ光っているようだったわ」

 もな美の細めた遠い眼は、あの夜の星空を眺めているのだろう。

 私だって忘れられない。恐らく太陽も同じだと思う。


 『いつか、三人で遠い星へ行きたいね』

 『うん、ゼッタイ行こう!あの星へこの三人で』


 子供同士の天真爛漫な約束……それがまさか、現実のものになってしまうなんて―――

 私は実感の持てないままにこのとんでもない奇跡に感謝しつつグリサンドルを揺らしながら、もな美の眼が急に蒼く翳り始めたのを見逃しはしなかった。

 「日本に帰って、やっと安楽の日々が迎えられると思ったのも束の間だったわ。或る放課後、忘れ物に気づいて教室に引き返したときだったの」


 『ねぇねぇ、パトラってどう思う?』

 『アタシあんまし好きじゃないなァ。だってお高く留まってそうジャン』

 『でしょー!なんかムカつくのよねーアイツ。この間だってさァ、家庭科の時間にエプロン持ってくるのうっかり忘れちゃったのよ。んで、同じ班のパトラが“アラ、エプロンなくてお困り?ワタシ汚れてもいいように余分に持ってきたから貸してあげるわ。ホラ、こっちのカワイイほうがいいでしょ?アナタに似合うわよ”だって。

アッツいフライパン顔に押しつけてやろうかと思ったわよ。あんな趣味の悪いエプロン誰が着けるかっつーの。ムカついたからわざとシミつけといてやったわ』

 『ワカル〜、ウザいよね。ほんとにあの顔ジューッとやってやればよかったのよ!あんなカワイイ顔しててもきっと腹ン中ドドメ色よ。ついでにアレもドドメ色だったりして。今度プールの着替えのとき見てやろうかしら。ホントにドドメ色なら笑っちゃう〜(^^)』

 『やだ〜キャハハハハ(^^)』

 教室に残っていた女子の会話を偶然立ち聞きしてしまい、もな美は忘れ物どころかその日のバレエのレッスンも休んで、次の日も学校では席がひとつポツンと寂しそうに空いていた。

 『パトラ今日はどうしたんだろうね?』

 『さーあ?コドモでも堕ろしに行ったんじゃないのォ?』

 質の悪い冗談を言う奴がいるものだとその時はあまり気にも留めなかったが、言われてみればクラスの女子の数人は確かもな美と口を利く事が少なかったように思う。

私が人間関係に無頓着な方だったから、裏でそんな事になっていたとはずっと後になった今初めて知らされたのだ。

 私と太陽はそうとも知らず体調が優れないと信じて彼女を見舞ったが、私達に向けられた微笑は弱々しく蒼ざめ、元気と自信が泉のように溢れていたもな美が別の少女に見えたのには驚いてしまった。

 暫くしてまた薔薇色の頬をして学校にやって来たいつもと変わらないもな美を見て、私は元気になったとひと安心だったが、そのすぐ後にもな美は私に打ち明けた事があった。

 『茉莉沙ちゃん、ワタシ中学は私立を受ける事にしたの。志望校はフューゲンドリッヒよ。ちょっと難しいといわれてるけど、ガンバレば入れるかも知れないと思うの。ううん、ゼッタイ入りたい!』


 芸術全般の登竜門といわれるフューゲンドリッヒ学園は私も憧れていた。

けれど限りなく普通の私が通える学校ではないと半ば諦めかけていたが、もな美の天まで焦がしてしまいそうな熱情に背中を押されて私も一念発起を決めた。

 一流の舞踏家を目指して、彼女はやがてウィニングロードへのパスポートを手にするが、進学の理由は夢への真っ直ぐな気持ちだけではない事を今はっきりと知らされたのだ。

 「そうよ。フューゲンドリッヒに入学したかったのは本格的なバレエを学んで世界へと羽ばたきたいのもあったけど、もう絶対公立の学校には通わないと決心したからよ。下賤で野蛮で厭らしい人達と同じ教室に詰め込まれるなんて、虫唾が走るわ!」

 私はもな美を羨ましいとよく思ったものだった。

 一等地のお屋敷の娘で、美人で、優雅で華があり、私にないものを全て持っていたのに、心にはいつも真冬の嵐が吹き荒れていたとは、私は陽射しの降り注ぐひまわり畑にいたので想像もつかない事だったのだ。


     

       ★お今晩は



 「失礼致します。お夕食をお持ち致しました」

 クロディーネを見たフレードは口を閉じるのをすっかり忘れてしまい、読書していたディムもモバイルコンピューターを落として危うくフリーズさせてしまうところだった。

 「只今お運び致しますので、どうぞそのままでお待ち下さいませ」

 正座で三つ指。

 先程とはガラリと雰囲気の違うクロディーネは、項のあたりで髪をキリリと結い、淡い藍色の着物に着替えていた。

 「ディム、今の見たか?」

 「ウン、すっごいキレイだった」

 楚々とした風情が薫りたつのに魅せられて、二人は料理が運ばれる間もずっと眼を泳がせ骨の無いクラゲのような顔をしていた。男とはほんに仕様の無い生物である。

 そうこうしているうちお膳の上には贅を尽くした料理で犇めきあっている。

 珍しい海草の酢の物やさっくりした衣の天麩羅、船盛りの活造りに五徳で焼く大きな貝……

 新鮮な海産物を存分に味わえるとは、惑星ルミエールでは色々あったが生きていてよかったと二人は実感していた。

 「さ、おひとつどうぞ。この“ワショク”というお料理にはビールが意外と合いますのよ。“ニホンシュ”というお酒も美味しゅうございますが、いかがかしら?」

 「あ、ああそれもお願いしマス」

 「パパ、すっごくオイシイよ!ムシャムシャ……あ〜ヒアワヘ」

 「こ、こらもうちょっと行儀良くしなさい!本当にどうしようもない息子で困っていますよ」

 「ほほほ、可愛らしいお坊ちゃまですわね……あ、おサケお願いね。さ、どうぞお飲みになって。旅の疲れを癒してくださいませね」

 「は、はぁどうも……」

 ご馳走と美酒にはすっかりご満悦のフレードだが、美女を前にして少々緊張気味のようだ。後から抱きしめて色っぽい項に頬を寄せたい衝動とたたかいながら、別の部分も固くなり始めごまかすのにひと苦労だ。

 「あらどうかなさいまして?お料理お口に合いませんでしたかしら」

 「い、いえとても美味しいです、はい」

 (俺もまだまだ現役なんだな。ハハ……)

 楽しく美味しく、そしてムラムラと夕餉の時はゆったりと流れていった。


 「すっかりお召し上がりになって、とても嬉しゅうございますわ。あちらのお部屋にお布団をご用意致しましたので、いつでもどうぞお休み下さいませ。では私どもはこれにて……お邪魔を致しました」

 「どうもご馳走様でした」

 「おねえさーん、おいしかったよー」

 「まぁ(^^)どうもお粗末様でした。うふふ……失礼致します」

 「さて……」

 腹も満たされ、気持ちが和やかになったところでフレードは星降る浜辺を歩いてみたくなった。

 「ディム、ちょっと散歩に出てみないか?」

 「え、今日はちょっと……」

 「なんだ、何かあるのか?」

 「ここのホテルのお兄さんが遊びに連れて行ってくれるんだよ」

 「何?そんな約束いつの間に……まぁせいぜい迷惑のないようにな、私はちょっとその辺を歩いてくるから。お前もあんまり遅くならないようにな」

 フレードは部屋を出るとディムは待ってましたとばかりに電話を架けはじめた。

 「もしもし、あ、お兄さん?お仕事終わったの?ウンもうちょっとしたら行くから。はーい、あとでネ……さあ、急いでシャワー浴びよっと♪」


 窓の下にはホテルの前から階段を下って海岸へ向かう白い影がひとつあった。

 薄暮の闇は淡く、月のような衛星の光がほんのり照っているので足元はランプを燈したほど明るい。

 ザザザ……ザザザ……

 砂浜に砕ける波頭が薄闇に浮かび、水平線の上には流れ星がひとつ弧を描いていった。

 夜の海は昼と違った趣があるとは聞くが、旅の途中の星の知らない海でさえ懐かしい感じがして、遠い昔子守唄を聴いたときのように癒されてゆく気がする。

 フレードは(ゆる)やかな潮風に撫でられ砂の上で空を仰いだ。

 星空のスクリーンに映る亡き妻カメリアの姿、そして妻に生き写しの女クロディーネ―――

 二つの顔が重なって夜空にグルグル回っている。フレードは頭を振って悪戯な幻を追い払おうとした。

 (いかんな、さっきの酒でまだ酔っているのか?)

 アルコールを醒ます為に風に吹かれ少し歩いてみる。

 眼が夜に慣れてくると浜辺のあちこちにふたつの人影がセットになって座っているのが確認できた。

 「お待たせーっ!ねえドコにいくの?まぁおまかせだけどいいトコに案内してね。アハハハハ……」

 (あれはディムの声だな。あんなに楽しそうに、よっぽどあのベルボーイが気に入ったようだ。ま、せいぜい羽目を外し過ぎんよう気をつけろよ……)

 「それにしても、ここは本当に“恋のアイランド”だな。どこに行っても誰かと誰かがくっついて、これがこの星の成せる技なのだな」

 寄り添うカップルたちを横目に微笑み、向こうの岬の灯台に向かってさらに歩いていくと段々心に重い荷物がぶら下がっているのを感じていた。

 (クロディーネの事を自分は本当はどう想っているのだろう、ただ単に妻に瓜二つな彼女が気になっているだけにすぎないのでは?これが恋だとしたら、少し遅いこの恋をどう受け止めればいいのだろう?)

 若き日と違って恋に億劫になっている自分に戸惑いながら、それでもクロディーネを想うと若いハートに戻ってしまう心をかかえて、夜のビーチを彷徨うフレードがいた。




      ★可憐な花の裏側



 「まぁそんな恨み事はもうどうでもいいわ。そういえばあなた達、いつか私が出た発表会に来てくれた事があったわね。あの時は嬉しかった。客席であなた達を見かけたら急に心強くなって何にも恐くなくなったのよ。それまでは注射を打たれる前の子供みたいだったのに、おかしいでしょう?」

 私のピアノ発表会のあと位に、もな美のバレエの発表会を観覧したのはよく憶えている。

 舞台では咲き誇る白百合のように堂々と華麗に舞っていたもな美は他の子よりも際立っていて、誰かが天才少女だと囁いていた。

 そんなもな美が私と同じように緊張していたとは信じ難い。

 「ステージの上できちんと踊れるか心配だったのよ。レッスンの時の私って、叱られてばかりだったから……」


 『アン、ドゥ、トワ、キャトル。もな美ちゃん、そこ違う。パッセのあとはアティチュードでしょ!はい、続けて。サンク、シス、セット。はいルルベ、ピルエットでアラベスク。遅い!はいそのまま、ウィット、ヌフそこでソテ。はい、やめ!……もな美ちゃん、いつも言ってるけど、あなた流れが悪すぎるのよ。バレエはとってつけたようにぎこちなく踊っては駄目!優雅な動きができるまであなただけ違うレッスンをします。さぁこっちへ来なさい!』


 「厳しい先生だったのよ。跳んだりはねたり同じ動きの繰り返しを何百回もさせられたの、それも毎日。この人Sかしらと子供ながらに思ったわ。おかげでなんとか人並みにできるようになって、そろそろ発表会に出てみましょうという運びになったけど、やっぱり不安は拭いきれなかったわ」

 私にも分かる。

 十分に練習はした筈なのに本番では間違えはしまいかと始まるまでその恐怖は続くのだ。

 しかもやり直しがきかないので失敗したら大勢の前で恥をかくというプレッシャーが鉛の塊を背負わされたようにずっしりのしかかって来るので、その苦しみは並大抵のものではない。

 「当日、楽屋でメイクをしてもらってる間も、ずーっと膝が笑いっぱなしだったわ」

 もな美はまた空を眩しげに見つめ、かつて震えていた少女を見て微笑んだ。


 『もな美ちゃん、ちょっとだけじっとしてて。アイラインが失敗するから』

 『はい、ごめんなさい』

 鏡越しに目が合った女の子達が口を押さえているのが見えた。

 周りの子達は声を殺してるつもりだが、クスクスと息が洩れているのが聞こえてきたのでもな美の目が潤み始め、とうとう堪らずせっかくの化粧を崩してしまった。

 『どうしたの?痛かった?』

 『ウウン、大丈夫』

 出来の悪い自分を見る仲間達の冷たい視線を前から感じていたが、今はただ情けなくてもう家に帰りたいと思っていた。

 しかし今更出場を棄権するのは勇気もいるしプライドも許さないので、彼女は気丈に辛抱する事にした。

 『すぐ直さないとね、さ、このハンカチで涙拭いて。あなたの出番、あともう少しよ』

 そんなもな美の気持ちも露知らず、私と太陽は会場で可愛らしい踊り子たちの演技に拍手を贈っていた。

 『相田瑠璃子さんのソロ演技で、“海賊”より“メドゥーラ”でした。続きましてプログラムナンバー9番、志賀光博さんと山口さやかさんのデュエットで、“眠りの森の美女”より“オーロラ姫とフローリムント王子のグラン・パ・ド・ドゥ” です』

 『パトラちゃん、この次の次ね。なんか私までドキドキしてきちゃった』

 『パトラが出てきたら、手を振って応援しようよ』

 『エーッ、やだぁ恥ずかしい』

 その頃もな美は、もう涙は止まったものの、気持ちはまだ晴れてはいなかった。

 『さ、出来たわ。ほらキレイでしょう?もな美ちゃんはとってもカワイイから、きっとみんな見とれるわよ』

 化粧をしてくれたバレエスクールの手伝いのお姉さんの言葉も虚ろに聞こえ、溜息をひとつ洩らした。

 『一ノ原さん、間もなくです。舞台のほうまで来て下さい』

 『さ、もな美ちゃんしっかりね。私も応援してるから、行ってらっしゃい』

 『はい………』

 引きずるような、バレリーナらしくない足取りでもな美は舞台の袖へと向かっていった。あの時私が思ったように出来る事ならこのまま踵を返して、このホールを後にしたいとそう思いながら………

 パチパチパチパチパチ☆

 『杉岡卓也さんと伊藤玲香さんのデュエットの演技で“コッペリア”より“スワニルダ”でした。続きましてプログラムナンバー11番、一ノ原もな美さんのソロ演技で、“くるみ割り人形”より“金平糖の踊り”です―――』

 《うっ!気持ち悪る―――》

 クラスの女生徒やバレエ仲間の眼はつららのよう。

 もな美の胸は無数の穴と凍傷だらけでズキズキ疼いている。

 沢山並ぶ冷たい眼、会場から浴びせかけられる凍てつく雪嵐。

 もう踊れずに行き場の無い自分を想像して胃の中のものが逆流しそうな感覚に襲われてしまい、やはり出場を辞退しようと思っていた。

 そのとき、“ポン”と肩に置かれた手の温かな感触が彼女を急速に解凍してゆくようだった。

 『もな美ちゃん、どうしたの?緊張してるの?大丈夫よ、バレエあんなに上手になったじゃない。時々レッスン見てたけど、あなたの踊りを見てハッとする事があるのよ』


 「……その手はメイクをしてもらった手だったわ。その女の人もバレエをやっていたから、踊りの事は知っているの。彼女は私にほんの気休めを言っただけかも知れないけど、そのときその優しい手が私の中に火を灯してくれたのだわ」

 遠く旅していたもな美の目は、私達のもとへ一旦帰ってきて、またすぐに旅立っていった。

 私はその目を追いかけながら、ステージであんなに光を放っていたもな美が、裏では私と同じように発表会など放り出してしまいかけたのが不思議に思えていた。


 『お姉さん、ほんと?』

 『ええ、草花を育ててると暖かい季節には成長するのが早くて驚く時があるでしょう?ああいう感じなのよ。誰でもはじめは芽が出たばかりの双葉だわ。双葉のまま枯れちゃう人もいるけど、あなたはもう双葉じゃない、成長してるの。あとは花を咲かせるだけよ。さぁ観客の人達も待っているわ、大きな花を咲かせていらっしゃい!』

 『ハイ』

 渡る世間に鬼はなしという。

 陰険で性悪な人間もいるが、心の清いひとだって確かに存在しているのを実感しながら、もな美は背筋をピンと伸ばしエールを贈ってくれた女性に感謝の微笑みを投げかけて、舞台へと躍り出た。

 パチパチパチパチパチ☆

 迎える拍手に少々物怖じしながらも客席を見返してみると、彼女は最前列から5〜6番目ほどの席にいる私達にすぐ気づいて笑いかけてくれた。

 『パトラちゃ〜ん、ガンバッテ〜!!あ……』

 私は思わず大声援を贈ってしまって急に顔から火が出そうになったが、もな美は嫌がる素振りも無く手を振って応えてくれた。

 自分ひとり浮いてなくてよかったとホッとしたが、問題はそのあと。

 もな美の視線が微妙に隣あたりに移って、何か感慨深げな空気を纏っていた気がしていた。

 そのときは彼女の踊りに釘付けになってすっかり気にもとめなかったが……


 「そう、実はあなたが発表会でピアノを弾く前、私も“アレッ?”って思ったの。でも演奏が始まると思ったより上手でビックリ!感動しちゃったからもうそんな事どうでもよくなってたわ……アラ、少し冷えるかしら?窓を閉めましょうか?」

 「いいえ、大丈夫」

 もな美と私の体験がこんなに酷似しているとは………

 何か不思議な因縁めいたものを感じて、デコルテラインを晒しても過ごせる季節に、私はうすら寒さを覚えているのであった。


 

      ★薫り高く



 『もな美―っ、しっかりやれよー』

 《太陽クン……ありがとう。さっきまでダメだと思ったけど、私きっとできる。見てて、ちゃんと踊ってみせるわ!》

 《そうだよ、君は最高のバレリーナだ。さぁ、すばらしい踊りを見せておくれよ》

 《ええ、今までで一番の踊り、見せてあげる》

  ♪♭♪#♪♪――――

 『おお、このコなかなかいいじゃないか』

 『ええ、素晴らしいわね。何かこう、バレエを味方につけて楽しんでる感じがするわ』

 『まだちょっと幼さはあるけど、ステキー』

 『大人顔負けの存在感ね。このままいくとひょっとして、とんでもない踊り手になるかも』

 皆がもな美を観てヒソヒソ噂をしている。

 私みたいな子供の視点からでも一味違うように見えるのに、周りの大人にはどんなにかショックでエキセントリックに映った事だろう。

 私ももう一度、現在の眼で、当時の天才少女の踊りを生で観てみたいものだ。

 《すごい、すごいわ!レッスンの時とは全然違う。手足が鳥の羽根になったみたい。あんなに痛かったポワントだって、ほらっ、この通り。ジュテの足もこんなに上がるワ。私の体から、体重がなくなっちゃったようだわ!》

 もな美は夢中になってバレエの世界を浮遊していた。

 観客の眼を恐れて舞台に立つのも躊躇っていたもな美とは別の少女が、この板の上で蕾から大輪の花へと変身して見せたのだ。

 その一番美しい瞬間に誰もが驚き、感嘆し、深い吐息を洩らした。

 ワアアアアーーーーッ!!

 何と、スタンディングオベーションが湧き起こった!

 私達も立ち上がり彼女のエモーション豊かなダンスに高揚して敬意の熱い拍手を贈った。

 『パトラちゃん、すばらしかったわ!感動よ。ステキ!』

 『あ、ありがと……ありがとう』

 私と太陽から花束を渡され、メイクと衣装もそのままで彼女はボロボロと号泣していた。

 こんなに反響がすごいとは予想もつかずに、今迄の苦労が全て報われた想いで胸が一杯になって、言葉も途切れがちだった。


 「……あのときの感激がなかったら、私はバレエをやめていたかも知れないわ。壊れそうだった私を支えてくれたバレエスクールのお姉さんと、あなた達には今でも感謝しているわ。でもね……」

 もな美は急に私を見つめて言った。

 「私本当は、あなたの事をずっと羨ましく思っていたの」

 「え……?!」

 羨ましかったのは私の方だと思っていたのに、彼女の意外な心情を聞かされて私はスープの行き場を一瞬失い、ソーサーの上にひと雫の花びらを散らしてしまった。




     〜第二部 第二章へつづく〜


    ☆ご覧いただきありがとうございます。この小説は私のブログ「宝のかんづめ」

     http://blog.so-net.ne.jp/kohakunotoki/archive/c5374599

     でも掲載しております


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