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第一部第三章

  登場人物

 

  福本茉莉沙  太陽を一途に想い、ピアノに情熱を傾けてゆくが、やがて……

  一ノ原もな美  茉莉沙と同じように太陽とバレエを愛する女性

  フレード・ナツザワ  地球に向かう旅の途中、絶体絶命の窮地に。

  ディム・ナツザワ  フレードとともに死活に直面するが、隠された何かが……

  トピー・ミールズ  フレードとディムの旅を、陰で支えている。

  ローラ・ツヴァイシュタイン  ウイーンでの茉莉沙のよき理解者

  アリーソン  惑星ルミエールの海を航海する船長

  シュドルフ  著名な指揮者。何故か茉莉沙の学園に

  松葉谷翠子  子供の頃の発表会以来、偶然に再会。

  夏沢太陽  茉莉沙ともな美同様、夢を叶えようと……





   

     第三章


  ★異国の迷路


 「あらマリサ、ここにいたの。手紙来てるわよ」

 「ありがとうローラ、今日は暖かくて気持ちいいわね。こんな日をニッポンでは“コハルビヨリ”っていうのよ。意味は“春のような陽気”なの」

 「まぁそうなの。でも“貴婦人の夏”というもっと洒落た表現もあるわ。ね、ところでそれ、ラブレター?」

 「そんなんじゃないわよ」


 ウイーンの学校の寄宿舎の庭は、私のお気に入りの場所だ。

 ここのテラスのテーブルでお茶を飲んだり、考え事をしたりするのは私にとって贅沢なひととき。

 ヨーロッパは木立ひとつや枯葉の一枚をとってみても、絵画的でロマンティックな感じがする。そんな一枚の絵のような風景を眺めてぼんやりしてるのは、私を良家のお嬢様に変えてくれる大切な時間である。

 「ところでね、ちょっと小耳にはさんだ噂があるんだけど」

 級友のローラは、少し声をひそめて言った。

 ちょうど風が私達の内緒話をうまく誤魔化すようにざわめき、気を利かせてくれたように思えた。

 「今度、シュドルフが学校に来るかも知れないのよ」

 「えっ?!あの有名な指揮者のシュドルフ?一体どうして?」

 「次の芸術祭でコンチェルトをやるでしょう?それを見に来るらしいの」

 「それ、本当なの?」

 「たまたま先生達の話を立ち聞きしてしまったの。だから、確かよ」

 ヒュルル……

 少し肌寒い風は、木の葉と一緒に私の胸まで騒がせているよう。

 聞かなかった方が良かったかも知れない。

 私も芸術祭ではピアノ・ソロを弾く事になっている。そんな世界的に有名な人の前で演奏するなんて、考えただけで震えが来てしまう。

 「私、演奏はずしてもらおうかしら?」

 「何を言ってるの!これは滅多にないチャンスなのよ。シュドルフに演奏を聴いてもらえるなんて、とても名誉な事じゃない」


 確かにそうだとは思うけれど、私にはそこまでの自信がない。

 会場にクラシック界の巨匠がいると思うだけできっとミスタッチングの連続で、初心者のピアノ遊びも真っ青のシロモノを披露してしまうだろう。

 そうなったらもう、ウイーンには恥ずかしくて居られない。

 いっその事日本へ帰ってしまおうか?

 逃げ出したと言われても、構わない。自分はそこまでの人間だから―――

 ピアノを愛する反面、そんなネガティブな思いが時々私の中で見え隠れしている。


 (私、本当はピアノ弾きに向いてないのかしら?……)

 悶々としながらも月日は過ぎていき、短い夏が色褪せる頃、私は腹を決めようと思った。

 (逃げててはいけないわ。どうせやるしかないんだし、芸術祭はベストを尽くそう。それで答えが分かる筈。何の手ごたえも感じられなかったら、この道をあきらめるわ)

 そう、誰が見ていてもちゃんと弾けなければ、ピアニストは失格なのだ。

 私は余計な考えを捨て去る為に、ひとり静かに座り眼を閉じて、素晴らしい演奏が出来ることだけを思うように習慣づけた。

 毎日毎日、レッスンと瞑想の繰り返しでだんだん集中力が増してきて、どんな長い曲を弾いても、数秒で終わってしまう感覚が身についていた。

 (これなら大丈夫そうだわ。あとは本番で渾身の力をこめて弾くだけね)


 そして秋、芸術祭は華やかに幕を上げた。

 絵画や彫刻やバレエ、それに音楽。私はなるだけ独りで塞ぎこまないように芸術たちとふれあい、 鑑賞した。

 友達とはしゃぎながら刺激を受けて、心をプラスの方向へ保てるように。

 「美術科の作品、どれも斬新で良かったわね。何かムーブメントを感じて、心を動かさずにはいられないわ」

 「私はバレエが素晴らしいと思った。水準が高くて、学生が表現してるなんてとても思えない」

 ランチで友人達との他愛ないお喋り。

 心和んで、プレッシャーに潰されそうな私に癒しのひとときをくれたのが嬉しい。

 「明日はマリサがピアノ演奏するんでしょう?がんばってね」

 「シュドルフがいても関係ないわ。リラックスして、実力発揮してよね」

 さすがに“シュドルフ”という名前を聞くと緊張するが、私はもう、まな板の上の鯉だ。

 ジタバタしても仕方が無い。もし失敗したらしたで、ピアニストを目指すのをやめて、別の道を見つければいい―――

 以前の私にはできなかった、気持ちを楽に持つ事を、ウイーンに来て覚えたように思う。

 メンタル的に少し成長できただけでも、ここまで来た甲斐があったかも知れない。


 そして芸術祭の演奏の当日の朝、太陽からの手紙をもういちど読み返してみた。


   

   親愛なる茉莉沙へ


   お元気ですか?そちらの暮らしはどんな感じでしょう。

   僕は大学で首席になる事ができました。

   みんなは就職や今後の進路などで忙しそうですが、できれば天文台の研究室に入りたい   と考えています。

   大好きな宇宙に毎日触れて、宇宙をいつも感じていたいのです。

   ニュースで知ってると思いますが、アメリカの宇宙開発センター“WASA”が今度、新し   い宇宙探索クルーザー“レボルバー3号”を造りました。乗組員の試験を今度受けに行く   つもりです。

   夜寝る時間も惜しいほど、やる事が山のようにあるけど、あっという間に過ぎていく充   実した毎日はなかなか気に入っています。

   子供の頃、みんなの前で発表した自分の夢を、いま叶えようと僕は頑張っているので、

   君も是非夢を叶えて欲しい。

   遠く離れてはいるけれど、同じ空で繋がっている。

   今日も星空に尾を引く流れ星を見つけ、君の成功を祈っています。

   また君のピアノが聴けたらと心待ちにいています。

   体調を崩さないよう気をつけて頑張って下さい。

   いつか世界の茉莉沙になれるその日までお元気で。


      夏沢太陽



   

    ★あの緊張をもう一度


 (もうすぐ曲が終わる。次は私の出番だ……)

 こんな気持ち、昔も味わった事がある。

 そう、あれは小学生の頃初めての発表会。

 あの時は緊張のあまり気分が悪くなってしまい、ピアノも弾かずに帰ろうかとさえ思ったものだ。

 そんな私に勇気をくれたのは、客席(ホール)で静かに見守っていた太陽だった。

 彼は声援を投げかけた訳ではないけれど、優しい瞳が『ガンバレ』と温かく背中を押してくれたから、今こうしてウイーンまで来る事ができたと思う。太陽には心から感謝の気持ちを贈りたい。

 でもあの人はこの講堂ではなく、何千里も向こうの遠い国にいて、しかも私の帰りを待っている訳ではない。

 同じ街に暮らしていた時は誰とつきあっていようが気にもならなかったが、ステージの袖で私は果てしなく重い孤独と、いま戦っているのだ。

 (大丈夫、大丈夫。シュドルフがいても誰がいても、絶対立派に演奏できるわ)

 “人”という字を書いて呑みこむ今どきクラシカルなおまじないにすがる程、いまの私には余裕というものが引き潮のように遥か遠くにある。

 パチパチパチパチパチ☆

 (はっ、前の人の曲が終わった!)

 『イザベラ・ムッタリーニさんのフルート演奏で、“はねる子馬”でした。次は日本からの留学生マリサ・フクモトさんのピアノ演奏で、曲は“英雄ポロネーズ”です』

 (私はあのときとは違う。もう大人なんだし、帰るなんて言わない。平常心、平常心。ここは小麦畑の真ん中よ。そう、畑に練習しに来たの。さぁ思いっきり練習しましょう)

 私は深呼吸を繰り返し、余計な邪念を追い払うように努めてみた。

 ふんわりとしたトランス状態が全身を包むのを感じると、握りこぶしに力を込めて引き寄せ、軽く頬を叩いて自分に気合を入れた。

 (よし!行くわよ)

 カーテンをくぐり抜け、観客に深々と一礼すると、拍手の波が私に押し寄せた。

 この波に飲まれてしまわぬよう、気持ちをしっかり維持するように顔を上げると、見覚えのある顔が被りつきの席に座っているのが視界に飛び込んできたではないか。

 (やっぱりシュドルフが!しかもこんなすぐ側に……)

 ドクン、ドクン、ドクン、ドクン………

 せっかく心身ともに平静になれたというのに、血流が高速回転で体を駆け巡り始めた。そして……

 ワーン―――

 何故か耳鳴りがして周りの音が遠くなってゆく。

 代わりに、あの発表会のときみたいに自分の心臓の鼓動がうるさい程聞こえてくる。

 さすがに動揺を抑えきれない。

 世界的なあの指揮者が観ていると思うと―――

 (茉莉沙しっかりしなさい。客席にいるのは人じゃなくて麦の穂よ。さぁ畑に置いてあるピアノで練習するのよ)

 私は気を取り直し、ピアノに向かおうとした。

 (あれっ、ピアノは?)

 そんな馬鹿な。ステージにセッティングしてある筈のグランドピアノが見当たらない。

 (おかしいわ、今しがたまで確かにあったのに……それになぁにこの舞台、照明落としたのかしら?暗くて足もともよく見えないわね)

 ピアノが消えてしまったように見えたのは、ステージがライトダウンしたからだとその時思った。

 (とりあえず手探りでもピアノのところへ行けば何とかなるわ。これでも目をつぶってたって弾けるんだし)

 私はピアノにぶつかってしまわないように気をつけながら、数歩歩いた。

 ガクン!

 「キャアーッ!!」

 すると、突然体に重力がかかった感じがして、何かが私に激しくぶつかってきた。

 「オオーッ!」

 (痛い!やっぱりピアノにぶつかっちゃた。でも何だか変ね。会場がやけに騒がしいわ)

 ピアノに思い切りタックルしたと思った私は、暫く痛みを抱えてうずくまっていた。


 落ち着いたら気を取り直して演奏しようと思っていたら、すぐ側でローラの呼ぶ声が聞こえてきたのだ。

 「ちょっとマリサ、大丈夫なの?!」

 「あらローラ、こんなとこまで来てどうしたの?ちょっとピアノにぶつかっただけ、大した事ないわ」

 「何言ってるの!血が出てるじゃない。病院へいかなきゃ!」

 「大丈夫よ、痛みがひいたら演奏するわ。大ケガしたわけじゃないから、心配しないで」

 「もう!分かってるの?!あなたはステージから落ちたのよ!」

 「……何ですって?!」

 照明が落ちたと思い込んでいたけれど、本当は暗転にならないでライティングは明るいままだったのだ。

 緊張のあまり目の前が真っ暗になり、私は視界を失ってしまった。



 

   ★SOS


 (船が、とまる……もうおしまいだ)

 ディムの目から大粒の涙が止めどなく溢れ出した。

 ヘナヘナと崩れ落ちぺたんと床にアヒル座りすると、ズボンの股のあたりもはばかる事を忘れて水が溢れてしまった。

 「地球に行ってみたかったよ……

 トピーさんとコスモ・エクスプレスの千年祭、いっしょにまわりたかった……

 地球は、キレイな花がきっと咲いてるんだろうな……

 大人になったら、花屋さんになろうと思っていたのに……

 マンダーレ(弦楽器)をもっと上手に弾きたいし……うっく……

 幻の珍味“ラズー”だってまだ食べたことない……ひっく……

 パラダロ(“H”の事)も経験してない……ずずっ……

 ばだばだやでぃだい事たくさんあったどでぃ……ばば(母親)ど所でぃ行っちゃうど?……

 ずるずるっ……そんだどヤダ……ばだ死でぃたくだいよぉ……おおおっ、う、うえ〜ん」

 鼻汁まで止まらなくなり、息が詰まって苦しい。

 普段は美少年でも、ディムは一度泣き出すとつぶれた肉饅頭のようになってしまう。

 いつも朝夕問わず鏡を見ては身なりのチェックは厳しいけれど、天地がひっくり返る非常時はさすがに汚い泣き顔も気にせず嗚咽しまくった。

 (はっ、こんなトコで泣いてる場合じゃない。パパに知らせなきゃ)

 ディムはつぶれた肉饅頭を整えようともせず、お漏らしの事も忘れ、そのままフレードの所へと戻って行った。


 「どうしたディム、また泣いたのか?しかもお前、トイレに間に合わなかったな」

 「パパそれどころじゃないよ!さっき聞いちゃったんだけど……」

 周りを見回すと、みな落胆の溜息をつき、啜り泣いている。

 ディムがいくら頭が足りない子だったとしても、大声で言えばどうなるかぐらいは簡単に想像できるので、今はこっそりと囁くしかない。

 「ちょっと耳かして。あのね……」

 何人かがディムを見ていたが、こんな時人の内緒話などに興味を持つ者などいない。

 「何だって!本当か?!……まずいな。何とかしなければ……」

 フレードは人差し指を嘗め、暫く空を指差す格好をしていた。

 「何してるの?」

 「残念ながら陸風だ。帆を張ったとしても沖へ押し戻されてしまう。仕方ない、船長に掛け合ってみよう。おっとその前に、トレインに連絡をとっておこう」

 フレードはポケットからインカム型携帯電話を取り出し話した。

 「もしもしナツザワです。ああ、君か。いや実は私達は今船に乗っててね……」

 周りを一瞥して、デッキから人のいない室内へ移動すると、フレードは声をひそめた。

 「もう知ってるとは思うが、先程近海の沖合いでマグニチュード6の地震があって、津波の恐れがあるそうだ。

 ところが困った事に、今乗っている船がエンジントラブルを起こして立ち往生しているんだ。

 もし私達が……

 私達が発車時間になって戻らなくても、定刻通り業務は進めて欲しい。他の乗客に迷惑のないようお願いする次第です」

 『何ですって?!会長、落ち着いて下さい。すぐそちらに救助隊をよこします。

 急がせますので決して諦めないで下さい。その船は何人乗りですか?』

 「50人……程かな」

 『では大掛かりにならないので時間はかかりません、ご安心下さい。

 それでは準備にかかりますので失礼致します。大丈夫でございます、お気を確かに。では……』

 「パパ、電話に出たの、トピーさん?」

 「ああ、そうだよ。すぐに救助が来るそうだ」

 「あのひと、頼りになるね。安心しちゃった……」

 ディムはソファーに横たわると、心労がほぐれたのか静かに寝息を立て始めてしまった。

 プラチナの波に揺られ、母に抱かれた子供の頃に帰ったように―――

 「ママ……まだそっちには行けないよ……ムニャムニャ」


 その頃、トピーたちはこの一大事に慌ただしくてんてこ舞いをしていた。

 「もしもし、こちらはコスモ・エクスプレスですが、うちの乗客が船に乗って、その船がトラブル発生したのでレスキューをお願いします……

 えっ?他にも立ち往生した船が沢山あってレスキュー隊が出払ってて間に合わない?!

 そうですか、ではどこかの救助が済み次第大至急頼みます。乗客にはうちの会長もおりますもので」

 「チーフ、こちらも駄目です!陸上でも今ちょっとしたパニックになってて、あちこちで事故が多発しているそうです」

 「あー、何て事だ……あのお二人にもしもの事があれば、どうすれば……」

 こんな時に限って、惑星中が蜂の巣をつついたような大騒ぎになるとは、フレードとディムをはじめ、たまたまこの星に降り立った人々は運命の悪戯を呪うしかないのだろうか。

 こうしている間も、津波は船に向かって刻一刻と近づいてくるのだ。

 プラチナ色にキラキラ輝く美しき悪魔が、ディムたちをもうすぐ呑みこもうとしている。

 「ママ、波がくるよ。おーきな波だよ、ムニャムニャ……」

 そんな事も露知らず、ディムは夢の中で母親のカメリアと戯れているようだ。



   ★心からのポロネーズ


 「ローラお願い、私平気だからピアノのところへ連れて行って」

 「ダメよ!お医者様に診ていただかないと」

 「弾かせて……病院ならその後で行くわ。後生だから、お願い……」

 ステージから転落したのはショックだったが、おかげで恐怖心がいっぺんに吹き飛んでしまった。

 私は迷いをバッサリと斬り捨てると、自分にしかできない演奏を絶対今やるんだという強い意志がモクモクと湧き上がってきたのだ。

 誰が何と言おうが一向に構わない。たとえシュドルフに哂われようと―――

 「分かったわ。歩けそうかしら?」

 「ええ、大丈夫」

 「じゃ、しっかりつかまって」

 幸い足腰だけはしっかりしていたので、ローラに軽くつかまる程度でよかった。

 しかし階段を(のぼ)るときはさすがに怖くて、何度も踏み外しそうになってしまった。

 「あっ!」

 「気をつけて。ゆっくりでいいから落ち着いて。あと一段よ」

 距離感も方向感覚も何もわからないのに歩かなければならないのは、こんなにも不安な事だったとは今まで思いもしなかった。

 白い杖を持ちながら交差点を渡ったり、電車に乗ったりと街を闊歩している人たちに、この時尊敬の念を抱いていた。

 「さ、ピアノの前に来たわ。ゆっくり座って」

 私は手探りで椅子を探し当てて座り、鍵盤に触れると黒鍵を頼りに音階を調べた。

 さっきから私の様子がおかしい事に、ローラはどうやら気付いているらしい。

 「最初のキーは判る?」

 「ええ、はじめの音は全部黒鍵だからすぐ判ったわ。あとは指が憶えてるから最後まで弾けるわよ」

 「そう、じゃあ頑張ってね………あなた、今何も見えてないんでしょ?もしかしたら視神経がやられてるか、脳に異常をきたしたのかも知れないわ。曲を弾いたら、即刻病院へ行くのよ。いいわね」

 「約束するわ……」

 「じゃ私席に戻るから。演奏の成功を祈ってるわね」

 「ありがとう」

 あんなハプニングがあったにも関わらず、私は他人事のように落ち着きはらっていた。

 寧ろ転落の衝撃で眠っていた強い自分が目覚めたのかも知れない。

 今度こそ、今度こそ私のピアノを弾くのだ。

 遥か遠くにいる太陽の耳に届く程、魂の底から響く私のピアノを―――


 ちゃんと弾けたかどうかは全く憶えていない。

 英雄ポロネーズという長い曲を演奏した数分間の間、私は“零”になっていた。

 そしてピアノを弾いていたのではなくピアノとの融合(フュージョン)に成功したような感覚に包まれていたと思う。

 音符のひとつひとつが空気としっとり溶け合い、私の心が音になって人々に叫びを高く上げていた。

 『どんな悲惨な事が起ころうとも私は夢を捨てない、ピアノを弾くのをやめたりはしない』と………

 最後の音を弾き終えたら、私の手元には白い鍵盤があった。

 そして眩しい光――

 (あ、見える……)

 私のスクリーンに、世界が戻ってきたのだ。

 観客の顔もひとりひとりハッキリ判る。

 その顔はどれも立ち上がり、今だかつてない程の嵐の喝采を私に強く浴びせかけてきた。

 「ブラボー!すばらしい!こんな演奏者がひそんでいたなんて、今日はここへ足を運んでよかった」

 スタンディングオベーションの嵐の中、あり得ない事にシュドルフも立ち上がって私に向かい熱い拍手を送っているではないか!

 (信じられない。あのシュドルフが、私を褒めてるなんて……)

 「君はいいピアニストになるよ。私が保証する。友人の音楽家やプロデューサーを紹介しよう。このまま君を埋もれさせるのはもったいない」

 「……………!!!!」

 彼の口からこんな言葉がでるとは、これは夢を見てるにちがいない。

 沢山の人が見ているのも気にせずに私は頬を軽くつねってみた。

 (痛い!夢じゃないのね)

 私は立ち上がり、ステージに上がってきたシュドルフに求められるまま固い握手をかわしていた。

 気難しそうな見た目とは違って柔らかな手の感触は、まだ半信半疑の私に『これは現実なんだよ』と教えてくれている。

 もう、考える力がなくなってきて、私はそのままシュドルフの腕の中へと倒れこんでしまった。

 「お嬢さん、大丈夫か?!しっかりしなさい。救急車だ、救急車を早く!」



   ★もうすぐ船は……


 「はい、ナツザワです。ああトピー君、どうだった?救助隊は……」

 『あの会長、大変申し上げにくいのですが……実は津波のニュースを聞いてあちこちで騒ぎが起こっておりまして、事故が多発しているものですからレスキュー隊が手のまわらない状態でございまして』

 「何だって?!」

 『それでですね、少し遠くですが救助に来てくれるレスキュー隊が見つかりました。

 一刻を争うのでできうる限り急ぐよう申しましたので、何卒今一度、希望を持ってお待ちになって下さい』

 「そうか、わかっ……」

 ドオン!

 何やら船底より振動が響いて、周りの乗客たちにざわめきの波が起こり、フレードもいささかの不安を打ち消せずにいた。

 『会長、どうかしましたでしょうか?今のは一体……』

 「分からん。船長のところに行ってみるから、このまま切らないでいてくれ」

 『かしこまりました』

 携帯電話は性能が進化して、周りでヒソヒソ話をしていても筒抜けな程、音の拾いがいい。

 フレードたちを乗せた船に何か変化があったのも、トピーは逃さず捉えられた。

 一度電話を切って架けなおすより、船長との会話もリアルタイムでトピーに伝えられるので通話はそのまま保留にさせておいた。


 「船長室は……ここだな。あのー、お忙しいところ恐れ入りますが、この船の船長さんはあなたでいらっしゃいますか?」

 「はい、私が船長のアリーソンですが」

 「あの私、コスモ・エクスプレスの者でナツザワと申しますが……」

 「あー、あなたがあのコスモ・エクスプレスのナツザワ会長ですか。当クルーザーに乗船して頂いて光栄です」

 「まあその事は結構です……失礼ですが、実を言うと私の息子が事情を聞いてしまいまして、それでうちの部下に相談したところ、救助をよこすよう手配してくれたのです」

 「おお、それはありがたい。実は復旧のメドが立たず私共も困り果てていたところです」

 「どういたしまして。でも情報によりますと、陸上でも大変なパニックが起こってまして、あちこちで事故が発生してレスキュー隊が多忙なため、色々あたってやっと救助に来てもらえるのですが、果たして間に合うかどうか……」

 「キャプテン!」

 ものすごい勢いでクルーが飛び込んで来たが、顔色が夜明けの空よりも蒼白で、額に冷や汗を滲ませ只事ではありませんとそこに書いてあるようだ。

 「あ、お客様でしたか。失礼しました」

 「この方なら事情はご存知だよ。何だ?構わんから言ってみなさい」

 「はい、あの……皆が総出でエンジンのメンテナンスに取り掛かっておりましたが、メイン動力クランクがもう少しで動き出すというところまでこぎつけたのですが……

 その、残念なお知らせなのですが、先ほど試運転をこころみた時に爆発が起きまして、その衝撃で船底に穴があいてしまい、水が勢いよく入り込んでおります!」

 「何だって?!」

 「……つまり、津波による転覆をまぬがれたとしても、この船はまもなく沈没してしまいます!」

 「そんな!」

 『!』

 何という事だ。

 折角もうすぐ助かると希望の光が射し込んできたというのに。

 彼らはみな、なす術もなくプラチナの海へと消えて行かねばならないというのか―――

 フレードも、アリーソン船長やクルーも、体中の色を失ってしまった。



   ★うたかたの花嫁


 「夏沢太陽、アナタハ健ヤカナル時モ病メル時モ、コノ者ヲイツクシミ愛スル事ヲ誓イマスカ?」

 「はい、誓います」

 「福本茉莉沙、アナタハ健ヤカナル時モ病メル時モ、コノ者ヲイツクシミ愛スル事ヲ誓イマスカ?」

 「はい……誓います」

 「デハ、指輪ノ交換ヲ」

 ああ、夢のよう。

 私は今、太陽と永遠の愛の誓いを交わしたのだ。

 十字架のイエス様も二人を祝福して後光を放ちながら祝福している。

 ここはもしかして天国だろうか?足がすーっと軽く、地についているような感じがしない。

 (体が羽になったみたい。私、生きてるの?)

 天国にいようが地獄に堕ちてようがそんな事はどうでもいい。今至福のときを迎えて、体中の重みから解放され、心の中は愛と自由と喜びに満たされている。

 (これが、幸せなのね。体の震えが止まらないほど、しあわせ……)

 「ソレデハ、誓イノクチヅケヲ」

 太陽は、私の顔を覆い隠すウエディングヴェールをそっとたくし上げた。

 「……あなた、誰?!」

 霧が晴れていくように視界が開けると、目の前には少し強面の男の顔が現れたのだ。

 「何を言うんだ、僕は太陽だよ」

 「違うわ!太陽はもっと優しい顔をしてるもの。あなたいつの間に入れ替わったのよ。あのひとを一体どこへやったの?!」

 「何を訳のわからない事を言ってるんだ。さぁ、キスをしよう」

 「いや!やめてえー!!」


 「いや、いやよ。いや……はっ!」

 「マリサ、気がついたのね?よかったわ」

 祭壇はいつの間にか白い部屋に変わっている。

 私はベッドに横たわり、側には大きな菫色の瞳が私を見て潤んでいるようだ。

 「ローラ?どうして」

 「あ、腕に気をつけて、今点滴を打っているから。ステージで倒れて意識不明になったものだから、もう大騒ぎだったのよ。でもケガもたいした事ないからじきに退院できるんですって。よかったわね」

 今しがた行われていた結婚式……あれはやはり夢だったのだ。

 以前からよく見た太陽と結ばれる素敵な夢……の筈だったのに、途中で入れ替わったあの男は何だったのだろう?

 私と太陽は、引き裂かれてしまう暗示なのだろうか?

 (あれはただの夢よ。知らない人が出てくるなんてよくある事だわ。忘れましょ)

 つまらない夢だから忘れようと思っても、心のどこかに引っかかってしまう。

 それにしても哀しい夢。

 目の前から太陽が消えて胸がえぐられてしまったよう――

 そんな気持ちを打ち消すように頭を振ってふと窓辺に目をやると、花瓶には夕映えの空色をしたブルー・ムーンが、涼やかに凛として息づいているのが見えた。

 「まぁ、見事な大輪のバラ。きれいね」

 「マリサ?!見えるの?」

 「ええ、紫のバラでしょう?はっきり見えるわ。あ、心配かけてごめんなさい。ピアノを弾く前にシュドルフの顔をみたら途端にまわりが真っ暗になったの。ホント不思議。それで私ステージから落ちちゃったのね。でもあなたに助けられてなんとか演奏できたらパァーッと光がもどってきて、そしたら今度はシュドルフが私をスカウトしてきたから、もう何が何だか……気がつけば病院(ここ)で寝ていたの」

 「そう……失明したかと思った。本当によかったわ。でも、検査はちゃんと受けておかないとね」

 「ハイ、もちろんわかってます。コワイおねえさん」

 「まぁ、言ったわね!……プッ、(^^)アハハッ」

 「あははは」

 「失礼します。あら賑やかだと思ったら、気がつかれたのですね。

検診のお時間ですよ。お熱と血圧計りましょうね」

 「あ、はーい」

 何が夢で何が現実なのか、少々混乱している。

 けれど、鬱蒼とした森から急に広い草原に出たときのように、私に道が開け始めたのだ。

 待った甲斐あって、海路の日和のもと前途は洋々としている。

 しかし私の行く道は必ずしも真っ直ぐとは限らないかも知れず、かといって後戻りもできないので、自分を信じて私は進んで行くしかない。



   ★麗しの夜に乾杯


 パチパチパチパチパチパチパチ☆

 「ブラボー!」

 「アンコール、アンコール!」


 そして、夢は叶えられた。

 どんな高価な宝石を手に入れるよりも誇らしい気持ちが、私の中いっぱいに広がり、今にもはじけてしまいそうだ。

 泣き虫で引っ込み思案だったあの茉莉沙が、奇跡を起こしたのだ!

 ヨーロッパ各地をまわる多忙な日々が訪れ、私は“日出ずる国の魔女”とまで謳われた。


 「マリサ、すばらしかったわ!」

 「ローラ!来てくれたのね、ありがとう。まぁ見事なブーケ」

 コンサートの後の心地良い充実感を噛みしめながら一息ついていると、ローラがホールの楽屋を訪れて来た。

 「学園にいた頃もあなたはどこかちがってたけど、近頃ますます光輝いているようね。私なんかが近寄りがたいみたいだわ」

 「まぁ何を言うの、そんな事ないわよ……お元気だった?あなたこそどうなの?」

 「あのね、今度個展を開く事になったのよ。うふふ」

 「あらそうなの!おめでとう。じゃあお祝いしましょう。今夜時間は大丈夫かしら?」

 「いいのよ、気を使わなくても」

 「あらご馳走させてよ。あなたの晴れの門出じゃない、私の気持ちよ」

 「ありがと、マリサ……」

 「ちょっとお邪魔してよろしいかしら?」

 

 突然黒髪のしなやかな女が、私を訪れて来た。

 暫くぶりに日本語で話しかけられ、今私の周りに日本人の知り合いはいないから、一瞬追っかけの人が来たのだと思った。

 「……あなた、もしかしてパトラちゃん?」

 「そうよ、お久しぶり。あなたの活躍は私のまわりでも噂になってるわよ。おめでとう、茉莉沙ちゃん。はい、どうぞ。あなたの好きなオリエンタル・リリーよ」

 雰囲気が大人びて、ますます美しさに磨きかかっている。

 両手に抱いたカサブランカのブーケにも引けを取らないくらいに。

 「ローラ、紹介するわ。モナミ・イチノハラさんよ。グランブリエ・バレエ団で活躍している日本人プリマで、あなたも聞いた事あるでしょう?

 私達のフューゲンドリッヒの同級生で、パリ校に留学したあと、そのまま現地で実力を認められたのよ!」

 「ええ、存じているわ。初めまして、私はローラ・ツヴァイシュタインです。

 フューゲンドリッヒでは彫刻を専攻しておりました。お噂はかねがね伺っておりますわ。マリサ共々、“ヨーロッパに彗星の如く現れた東洋の二人の美女”なんですってね」

 「まぁ、いやですわ。恥ずかしい……」

 もな美も憧れのプリマ・ドンナになったと聞いていたので、一度逢いに行きたいと思っていた。

 しかしなかなか暇を見つけられないでいた矢先、彼女の方からひょっこり来てくれたのだ。

 「マァこんな所でお話も何なので、場所を変えましょう。演奏が終わったらなんだかお腹が空いてきたから、ゆっくりお食事でも頂きたいわ」

 「あ、それなら任せて、おいしいお店を知ってるのよ。せっかくパリに来たんだからフランス料理をとくとご堪能あれ!」

 相変らずもな美は音頭を執るのが上手い。

 そして私は、昔からそれについて行くだけ。

 人を引っ張っていくのは、私の永遠の憧れなのかも知れない。


 時々、船の灯りがセーヌの水面を滑って行く。

 ポン・ヌフの橋が見える窓辺に座り、私達はお喋りの花を楽しげに咲かせ、レースのように繊細で 人形(プーペ)のように可愛い料理たちに舌鼓を打っていた。

 「どうぉ?サッパリとした中にもマッタリとしていて、後をひく感じがいいでしょ?」

 「ほんと、とっても美味しい」

 「この夜景も、ご馳走のうちなのね」

 ここは新婚旅行のディナーには、正にうってつけのシチュエーションだ。

 まぁ、そうでなくても好きな人と一緒に来てみたい。或いは、道ならぬ恋の切ないランデヴーも雰囲気が盛り上がるかも……

 想像を巡らせ、マスカットワインのまろやかさを楽しんでいると、普段は大人しいと言われる私も少しばかりテンションが上がってきている気がする。

 「ところで茉莉沙ちゃん。太陽君が今度WASAのレボルバー3号に乗るんだって」

 「エエッ!!」

 自分の声が思いがけず店内に響いてしまい、周りの視線が痛いやら顔から火が出そうやらで私は熱い両頬を包み込んで俯いた。

 「もう、声が大きいわよ。レディーにあるまじき振る舞いね。……

 それで、TVの会見を世界中のニュースで放送するそうよ。それにレボルバー3号が飛び立ったら、宇宙の模様や地球なんかが、全世界に放映されるんだって。すごいわねぇ太陽君。今から楽しみだわ」

 ついに太陽が宇宙探索機に………!

 私は自分が宇宙に出かけるかのように胸が躍りだし、『彼の夢が叶うのがこの世で最大の喜びだ』と心がそう呟いている。

 (太陽君、ついにやったのね、おめでとう。私もうれしいわ。今すぐとんで行きたいけれど、そっと遠くからお祝いさせてね)

 「じゃあ私達みんな自分の夢を叶えるのに成功したのね!ローラは彫刻家、パトラちゃんはプリマバレリーナ、太陽君は宇宙飛行士、そして私はピアニスト……みんな素晴らしいわ。それじゃ、私達の偉大なる実績をたたえて、もう一度乾杯しましょう!!」

 「あらあらマリサったら、酔ってるのかしら」

 「フフフ……そうね。じゃ、私を含めローラさんと茉莉沙ちゃんそして太陽君、私達の成功と輝かしい未来のために」

 「カンパーイ!!」

 

花の都は眩しい不夜城。

 シャンソンを聴きながら、私達は甘く香り立つ勝利の美酒に酔いしれていた。

 この幸せなときが、いつまでも永遠に向かって繋がっているものだと信じながら―――

 「あ、この曲知ってる。♪monamour monamour c’est ma coulur……」

 「ヤダ、歌わないでよー」

 「アハハハハ……」



   ★夢は宇宙を駈けて


 『それではここで、宇宙探索機“レボルバー3号”からの映像をお送り致します』

 私は朝から何度もテレビ番組を入念にチェックし、絶対見逃したくないプログラムの時間を確認しなおした。

 今日はどこへも外出せず、食事もあり合わせのものを適当に頬張りながらこの時間を心待ちにしていたのだ。

 そして目当ての番組がスタートすると、私はアニメ番組を愉しむ子供のようにテレビに釘付けになってしまった。

 『全世界の皆様こんにちは。私は日本から来ました、この“レボルバー3号”のクルーであります夏沢太陽です』

 (あっ!太陽君だ。本当に乗っているのね)

 暫く顔を見ていなかった太陽は、またさらに精悍な男に成長している。

 実際この眼で見て、彼は子供の頃からの夢をついに叶えたという実感が私の中で沸々と沸きあがるのを止める事はできない。 

 史上最年少と言われた若くて美男子の宇宙飛行士に、私は誇らしげな気持ちが膨らんではちきれそうになった。

 『今この窓から見えていますのはしし座第三星雲のあたりでしょうか。

一面、星の海で実際に見てみると想像を絶するほどの美しさです。

この探索機は今ゆっくり旋回中で、このテレビ中継に合わせて皆様にご覧いただけるよう地球に向けて接近しています……

あっ、今地球のはじが見えてきました。青い水平線が見えます。皆さんわかりますか?その向こうには月がぼんやり浮かんでいます。

私達が夜になると眺めては様々な想いを膨らませ、本当の自分を探す事ができるので、ある国では“夜の女神”と謳われています。

今は少し欠けているでしょうか。

地球上では恐らく下弦の月として映ってると思われます。

さぁ、機体は今地球に沿って飛行しています。

見えますでしょうか?雲がかかって分かりにくいのですが、あれはニュージーランドの形をしています。只今オーストラリア上空付近を飛行中です。

南半球は今は夏頃で、ところどころ低気圧に霞んでいるのが分かります。

あ、あれは台風ですね。雲が規則的な渦を巻いて、真ん中がポッカリ空いています。

とてもキレイな形をしていて、ケーキのようにも見えます。

地上では雨風が悪魔のように暴れていても、上から見るとこんなに美しいのです。

私達が突風や大雨、猛暑や干ばつなど気候の変動に一喜一憂していても、宇宙から見ればほんのささいな事だと感じさせられてしまいます。

今、赤道付近を通過した模様です。

インドネシアの島々、マレー半島が見えます。

そろそろアジア大陸にさしかかります。

あの筋はメコン河ですね。溢れるほどの水を湛えた大きな河も、一本の線にしか見えません。

このあたりは緑色をしていて、密林が多いのが分かります。

夕方になると激しく降り出すスコールが、緑を豊かに育てているのですね。

対照的に向こう側は茶色くよどんだ感じがします。所々に砂漠がある模様です。同じ地球上でこんなにも違うとは、なんとも不思議な感じです。

その砂漠に何か見えませんでしょうか?

かすかに引かれたような線、そう、万里の長城です。これは月からも見える唯一の建造物で、どんな立派なビルでも宇宙から見えないというのに対し、人類の創り出した壮大な歴史とロマンを感じずにはいられません』

 「へぇーそうなんだ。知らなかった」

 宇宙船の窓に繰り広げられる万華鏡のような光景を饒舌に案内する画面の中の太陽は、はにかみ屋で飄々としていた少年とは違う私の知らない太陽だ。

 さっきからテレビに齧りついているとその未知なる彼に逢いたくなってきてしまった。

 私の中で再び、少女の頃の熱い想いがおさえ切れずに溢れ出し、巻き起こるノアの洪水の中で再び恋に溺れそうな予感がしていた。

 (そうだ、彼が宇宙から戻ったら日本へ帰ろう。次の公演が終わったら暫く暇になる。

私だって好きな人を目の前にお話くらいしていい筈。そうよ行きましょう、太陽君に逢いに……)


 『さぁ窓の景色は一面蒼白くなってきました。このあたりは北極です……』

 私の気持はもう、坂を下りてゆくブレーキの壊れた自転車。

 太陽(あなた)に向かって恐ろしい程加速して、もう止めるなんてできない。


   ★プラチナの魔物


 (津波が来る前に、この船は沈むかも知れない。どっちにせよ救助が間に合うのか?もし間に合わなければどうすればいいんだ、どうすれば!)

フレードとディムを乗せた船は、今まさに終焉の渦へと呑み込まれようとしている。

もう、望みは海の底へと沈んで行ってしまうのだろうか―――

「乗客全員に救命胴衣を着けさせろ。大至急だ!」

「はいっ!」

「あなたも早く着けて下さい。さっきよりも船が傾いてきています」

「分かりました」

フレードは救命胴衣を着用して膨らませ、もう一着借りてディムが寝そべっているソファーへと急いだ。

「ディム、起きろ!早くこれを着るんだ。大変な事になったぞ!!」

「ん……ママどこ?お洋服屋さん……?」

「寝ボケてる場合か!この船はもうすぐ沈むんだ。船底に穴があいて、津波より先に沈没するかも知れないぞ!」

「……へ?!」

「何だって?!」

「アンタ今何て言ったんだ!」

「沈没……!助からないの?!」

「イヤだようー死にたくない!」

「ああ神様†助けて、助けてくれえ!!」

(ハッ、しまった!)

フレードはつい興奮して叫んでしまい、デッキまで筒抜けの声は乗客たちを一気に煽る事になってしまった。

「アンタは私より若いんだから、年上が助かるよう犠牲になりなさい!」

「アンタこそ棺桶に足突っ込んでるから、今死んでも同じなんだよ!」

「オイ、オマエ。どうせ死ぬんなら一発ヤらせろよ」

「このクソ外道アマ!自分一人助かろうと思ってんじゃねーよ!!」

「アタシ、アンタの事心底キライだったのよ。どうせ助からないなら今ここで殺してやるわ。覚悟しろ、死ねえー!!」

「何すんのよーーー鬼畜!!」

「皆さん落ち着いて!私達係員の指示に従って下さい!!」

 …………最悪だ。

 後悔しても、もうあとの祭り。

 船上は無法地帯と化し、この地獄絵図の光景は、もはや誰が咎めても収拾がつかなくなっている。

 本当に怖いのは災害ではなく、生きてる人間の強欲とエゴイズムであざなわれた縄がグイグイ締め付ける苦しみかもしれないと、フレードは貧血に気が遠のきながらそう思っていた。

 ギギギギ………

 「キャアアー沈む、沈むわァ!」

 「助けてぇぇぇ」

 「いやあああああ!!」

 泣いても喚いても哀願しても、船体はお構いなしでさらに傾きを増していく。

 「パパ、怖いよ……」

 「ディム、しっかりしなさい。まだ死ぬと決まってはいないんだ。さぁ、早くこの救命胴衣を着なさい」

 「ウン……」

 「いいか、最後まであきらめるな。希望を捨てるのは、死んでからでも遅くはないんだぞ!」

 フレードの清い眼差しが、こんなにも真っ直ぐに自分を見据えた事はかつて無かったとディムは思った。

 これまでお互い気恥ずかしくて眼を見つめるなんてした事がなかったが、息子への真剣な愛情を痛いほど突きつけられ、今やっと目が覚めたようにようやく本当の親孝行を知った気がする。

 「わかった……」

 例え大波に消息を絶たれたとしても、船が海の藻屑となっても、自分は生きて生きのびて親の切ない想いを叶えるのだとディムは心に決めた。

 もし、フレードの命がここで燃え尽きてしまったとしても―――


 「おい!あれを見ろ!!」

 「うわあああっ、何だあれは!!」

 誰かが叫び、二人はデッキを振り返ってみた。

 柵の向こうに、美しいけれど途轍もなくおぞましい魔物を目撃してしまい、現実を信じる気持ちを捨てたくなってしまった。

 光を浴びてキラキラ輝くプラチナ色の壁が、水平線を覆い隠しながら少しずつ、少しずつ育っていっている。

 絶望という名の魔物がフレードたちを骨ごと喰い尽くそうと、虎視眈々と近づいて来ているのだ。

 「つ、津波だああ!もう駄目だ、う〜ん……」

 「津波が来た、津波が来た。アハ、アハハハハハ」

 「まぁキレイ☆冥途の土産にはぴったり〜」

 「津波つなみツナミーラララララララ〜♪」

 乗客は皆、プッツリ音をたてて壊れてしまった。

 船はもうすでに片方の舳先が水に浸り始めている。

 救命隊はまだくる気配を見せない。

 

 フレードは、自分の体が盾になるように、苦しい程ディムを両腕に包み込んでいた。

 (自分はどうなってもいい。せめてこの子だけは、ディムだけは……!)


 絶体絶命のこの窮地、フレードの祈りは果たして天に通じるのだろうか――――



    ★現れたファム・ファタル


 『マーキュリー航空・ロンドン発378便は、只今到着いたしました……』

 「お久しぶり、元気そうね。すっかり見違えたわ」

 「君こそずいぶん立派になって。ほら、あそこの女の人たちが君を見てるよ」


 あれから何年経ったのだろう。

 この空港で太陽と別れてからというもの、私はピアノだけを支えにして生きて、何千キロも離れた国から気流に乗せて愛を届けるように精魂こめて奏でてきた。

 『頑張れよ。夢をきっと叶えるんだ。辛くても負けるな』

 『ありがとう、自分を信じて精一杯やってみるわ』

 あの日の言葉通り夢は叶い、私の足は、再び日本の土を踏みしめている。

 ずっと逢いたいと想いこがれた最愛のひと―――

 紛れもなく確かに、いま目の前にいるのだ。

 「今夜、空いてるかしら?もしよかったらお食事でもしましょう」

 「いいよ、積もる話もある事だし。待ち合わせは……そうだな、品川ヒルサイドタワーの前がいいかな?」

 「ええ、任せるわ」

 思えばこれが、彼との初めてのデートなのだ。

 昔、バレンタインのチョコレートを渡し損ねて、太陽との恋は儚いうたかたとなって消えてしまったが、やっと今になってデートができるなんて天に昇るような気持ちだ。


 夕陽が傾くころ、自分に一番似合うドレスを選んで鏡に向かい、私は何度も呪文を呟いた。

 (茉莉沙、今夜だけは今までにないくらい綺麗になるのよ……)

 自分の魅力を最大限に引き出す一生に一度の魔法を、今自分にかけるのだ。

 ファンデーションは厚くなり過ぎず、ムラのないように。

 化粧筆のひと刷けにも気を抜いてはいけない。

 睫毛は固まらないよう丁寧に。

 ルージュは落ち着いて輪郭をとりましょう。

 「ん……ぱっ」

 (今宵の私は美しい。世界で一番、あのひとの心をときめかせるの……)

 私はさらに呪文を繰り返す。

 ヨーロッパで買ったコスメと香水、そして淑女の嗜みの悩ましげなランジェリー……

 仕上げに髪を結いに行くと、鏡の中には見た事のない女性が現れた。

 「さぁ、いかがですか?福本様、とてもお美しいですよ」

 「ハァ………これが私?」

 いちどでいい、一度でいいから太陽の心を惑わせてみたい。悪女だと言われても構わないから。

 世界中が見とれるようないい女に身を窶した私は、もな美の存在を鍵つきの箱の中へ閉じ込め、太陽の待つ摩天楼へと急いだ。

 (パトラちゃん、ごめんなさい。今夜だけは許してね……)

 混んだ道から裏通りを回るタクシーの中で、茜に色づく空の下にいるもな美に何度も何度も心の中で詫びた。

 彼女には悪いが、もうすぐ待ち合わせの場所だと思うと、心臓がはじけてしまいそうだ。

 十五年もの間あたためてきた気持ちが、今宵爆発してしまうかも知れない。

 ブレーキが利かなくなったらどうしようと恐れながらも、パンプスのヒールはお構いなしに私を太陽のもとへと運んで行ってしまう。

 「お待たせ、遅くなってごめんなさい」

 「……茉莉沙?ハァ……別人かと思った。きれいだ」

 思惑どおりに太陽の目は、ファム・ファタルに変身した私に釘付けになっている。

 (一夜だけでいい、私を見て。あなたの視線の温度で溶けそうなほど、もっと見つめて………)

 身も心もロゼのシャンパーニュに染められて、私は時々大胆な目つきをしてみせた。

 宇宙の果ての星の人のようだった太陽との距離を、今夜銀河列車の特急で一足飛びに縮めてしまいたい。


 「……そう、みんな元気にしてるのね。ああ、会いたいわ」

 「そうそう、憶えてるかい?クラスで一番地味〜だったヨネヤマ。あいつ相変らずブスだったけど、この間ついに男前のダンナのところへ嫁に行ったんだってサ。同窓会でみんなに写真見せて自慢しまくってたよ」

 「え?!ジュンちゃん結婚したの?へぇー、でも実は女子のあいだでも彼女はお嫁さんになるの一番あとだって言われていたのよ」

 「エーひでえなぁ。ハハハハハ……」

 「あのう、失礼ですがちょっと宜しいですか?」

 「は、はい」

 見知らぬ婦人が突然私達のテーブルにやってきて、こちらの顔を窺いにっこり笑みを浮かべている。

 「福本茉莉沙さん……ですね」

 「はい、そうですが」

 「ああやっぱり。あたくし貴女のファンですの。お会いできて感激ですわ。あの、握手して頂いてよろしいですか?」

 「ええ、結構です」

 握りしめた婦人の手は思いのほかしっとりとしていて、きちんと手入れが施されているのが窺える。この人はそんじょそこらのオバサンとは違う事が、私には直感で判った。

 「あのう、厚かましいとは存じますが、もし宜しかったらあそこにあるピアノで何か一曲弾いて下さいますか?勿論お礼は致しますので」

 「あ……私は構いませんけど、お店の方は何て言うでしょう」

 金持ちという生物はなんて我侭だ、自分の言う事は何でも通ると思っているのか――

 私の心の片隅で、ほんのちょっぴりそんな声が響いた気がした。

 婦人は手を挙げ、少し混んでて忙しそうなギャルソンを構わず呼び止めた。

 「ちょっとあなた、あそこに置いてあるピアノ、少しばかり使わせて頂いても宜しいかしら?」

 「あ……少々お待ち下さいませ」

 ギャルソンは“この忙しい時に”と眉毛で言いながらも、オーナーか誰かのもとへと下がっていった。

 「あたくし、このお店は夜景も綺麗ですのでよく伺うのですが、今日はちょっと特別な日ですの。実は、主人との30回目の結婚記念日ですのよ」

 「まぁ、それはおめでとうございます」

 「こんな日に貴女にお目にかかれるなんて本当に光栄ですわ。ヨーロッパでのコンサート、拝見しました。とても素晴らしくて、同じ日本人として誇りに思いましたのよ」


 「お待たせ致しました。松葉谷様、本日はおめでとうございます。あちらのピアノはどうぞお好きにお使い下さいませ。のち程当店からのお祝いで、ワインをテーブルにお届け致します」

 「まぁ、ありがとう」

 松葉谷……どっかで聞いたこと事のある名前だが、よく思い出せない。

 確か太陽が一緒にいた時に聞いたような気がするが……

 「あたくしにも娘がおりまして、同じようにピアノをさせていたのですが、あの子は全然ダメで。貴女の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいですわ」

 「お母様、いい加減にしないとご迷惑でしょう……ごめんなさい、母がお邪魔ばかりしまして」

 その噂の娘も目の前にやって来た。

 が、やはり初めて会う気がまったくしない。

 思い出せそうで思い出せないのは気持ちが悪くて、どうしても確かめずにはいられなかった。

 「あの、失礼ですがどこかでお会いした事ありませんか?」

 その娘は暫く私の顔をながめていて、それから突然電流が走ったように何かが彼女の中で繋がったようだ。

 「あ、思い出したわ!あなた子供の頃にピアノの発表会でご気分がお悪くなったんじゃありません?」

 「ええ」

 「やっぱりそうだわ。あの時の少女がこんなにご立派に……コンサート、私も拝見しました。ご成功おめでとうございます」

 (そうだ!あの時の優しいお姉さんなのね。あー思い出せてスッキリした。でもまた会えるなんてなんという偶然かしら)

 そう、あれは初めての発表会。

 私は緊張し過ぎて具合が悪くなり、そんな私をいち早くいたわり励ましてくれた年上の少女・翠子……

 あの時のお礼もずっと今日まで言えないままだった。

 「あの、その節はお世話になりましてありがとうございました。私本当は、あの日帰ろうかと思った位で、もしあのまま発表会で弾かないで帰ってたら、あの時のことがトラウマになってそのままピアノをやめていたかも知れませんでした。不安だった私に手をさしのべて頂いて本当になんてお礼を言っていいか分かりません。今日は、あの時の感謝の意味を含めて、一曲弾かせていただきます」

 今の私があるのは、翠子と太陽のお陰だと思う。

 私はこの二人に、ありがとうの言葉の代わりに恩返しの曲を贈るため、席を立った。

 「何か、リクエストはありますか?」

 「そうですね……あの発表会、昨日の事のように鮮明に憶えています。あなたは確かグラナドスの曲を弾いてましたわね?出来ればもう一度、グラナドスを弾いてくださいません?」

 「ええ、結構です。お店の雰囲気もありますので“オリエンタル”なんていかがです?」

 「お願い致しますわ」

 「じゃあ翠子さん、お席に戻って拝聴致しましょう」

 「はいお母様……福本さん、ぶしつけにお邪魔して申し訳ございませんでした、では……」

 私も店の片隅のグランドピアノの前に座り、太陽と翠子にもう一度聴いてもらうべく指を滑らせ始めた

 思えば、太陽の前で初めて弾いたのもグラナドスの曲。

 今弾いているのは東洋の神秘を表現した曲だが、私の気持ちを乗せるには正にうってつけだと思う。

 もしも私が魔女ならば、彼の耳から入り込み、心の中に一生消えない絵の具で私の姿を描けるのにと―――

 (太陽に魔法をかけたい。今それができればいいのに……)


 周りから溜息が聞こえる。

 私もシャンパーニュが効いてきたようだ。

 甘口のお酒よりもっと悩ましく太陽を酔わせたい。まったりとじらすような指づかいで、彼の心をかき回し続けた。

 (私を見て、もっと見つめて……今夜だけは、あなたの運命(ファム)の(・)魔女(ファタル)よ)



    ★アヴェ・マリア


 「もう駄目だ、破滅だぁーっ!!」

 「ああ、神よ†……」

 プラチナの波が、化け物の大波がもうすぐそこに来ている。

 船には穴が開いてすでに半分沈みかけ、月のように光り輝く惑星ルミエールの、このプラチナ色をした海で、フレードたちは間もなく生涯の幕切れを迎えてしまうのか。


 「ディム、津波が来たら口と鼻を押さえなさい。水を沢山飲んでしまわない為だ。あんな波をかぶったらひとたまりもなく船は一気に沈むだろう。

でも絶対あきらめるな!お父さんにもしもの事があってもお前は生き残れ。いいな、必ずだ!!」

 「ウン……」

 もう一刻の猶予もない。

 フレードとディムを哀れな船ごと呑み込まんばかりに、悪魔が大口を開けて今襲いかかろうとしている。

 「大きく息を吸って、浮きやすくなるよう体に空気を貯めるんだ。さぁ!!」

 ギギギギギイ……

 船は、波の盛り上がりで更に傾ぐ。

 人々はもはや言葉も意識も失い、絶叫する者さえもういない。

 あんなに鏡の表みたいだった海には、地響きに似たうねりの音だけが響き渡っている。

 「絶対に死ぬな!ディム、愛してる!!」

 「スハーッ!」

 息を吸ったディムの脳裏に、幼い頃からの想い出が鮮やかに駆け巡り始めた。

 優しかった母、兄弟や父との喧嘩、皆で笑った楽しいひととき、そしてこれから向かう筈の地球で、となりには温かなトピーの微笑………

 すべてが今ここで、ゼロに還ってしまうというのだろうか。

 (せっかく生まれてきたのに、何もできずにここで終わるの?ローソクを吹き消すみたいに、人生ってカンタンに終わっちゃうの?)

 「そんなのイヤだ。嫌だああああっ!」

 ザバーアアアン!!!


 ――――波の音はもう聞こえない。

 再び訪れた静寂。

 誰もがもう天国に到着したと、そう思った。

 (あっけないもんだったな。これがあの船に乗った人たちの運命なのかぁ。でも仕方ないからいいや、これでママに逢えるんだし。さぁママを探しに行こうっと)

 「ママーどこにいるの?ママ……あっ!」

 ディムが伏せていた顔を上げてみると、そこには口で説明できないような不可思議な光景が見えた。

 あの津波が凍てついたかのように動かないでいる。

 金色の光を浴びた氷の巨像が煌めきながら船を飾っていて、どこかのアーティストが手がけた大掛かりな作品(オブジェ)を鑑賞しているみたいな気持ちだ。

 「おお、これは何だ?まるで時が止まってしまったような……」

 「天国って面白いところねぇ。雲の上に花園があって、天使達が舞い踊ってるのかと思っていたわ」

 人々は人生の煩わしさから解放された気分を満喫しながら、プラチナの波のオブジェを眺めていた。

 観れば観るほどどんな貴重な宝石にもない輝きを放っていて、お金では買えない美しさとはこういったものだと思い知らされてしまう。

 誰もが、人生最期の風景を現実から降り立ったところから客観的に眺めているのだと、そう思っていた。

 「パパ、静かだね。あの地獄の騒ぎがウソみたい」

 「そうだな、私達は今何処にいるのだろう?」

 この世に別れを告げたと思うと、人の魂には穏やかさが戻ってくる。

 生きてる時のあの醜い憎悪や嫉妬や争いなどは煙となって消えて行き、(けが)れを脱いだスピリットとなって然るべき世界へと還元されるのだろう。

 腐敗した魂は恨みを忘れる事無く、救われないまま延々とさまよい続けるのかも知れないが、同じ船で運命を共にした人たちは皆、微笑みを浮かべて安楽そうにしている。

 フレードとディムも苦しみをすべて捨てて、魂の家へ向かおうと心を鎮めはじめていた。

 「パパ、ママに逢いたいよ。どこにいるのかなぁ?」

 「う〜ん、探しに行けば逢えるかも知れないな……ん?何だろう、ディム何か聞こえないか?」

 「え?ナニ?」

 ディムは耳をすませてみると、飛行機に似た音が近づいているような気がする。

 ゴゴゴゴゴゴ………

 「あ、パパあれを見て!」

 飛行機のような音は段々騒がしくなり、空には黒い塊がどんどん大きく育っていった。



  ★ついに………


 パチパチパチパチ☆……

 スカイレストランの客達から“オリエンタル”を弾き終えた私に拍手が贈られた。

 最上階の窓はラウンド状の通しガラス。

 港の灯かりや遊覧船、遠くの摩天楼、タワーも観覧車も瞬いている。

 この指が奏でた切なくスウィートなメロディーとともに翠子には満足してもらえただろうか?

 私はピアノの前から翠子たちに向かって一礼をして席に戻ると、すぐにギャルソンがテーブルにやって来た。

 「失礼致します。こちらシャトー・ブリュイエンヌ1982年、あちらにいらっしゃいます松葉谷様よりでございます」

 「まぁ……」

 ピアノのお礼に、私達のもとへボルドー・ワインが届けられたのだ。

 コルクを開けた途端、香りが踊り出すほど芳醇で、ちょっと手を出しかねるような高級なものだとすぐに判ってしまう。

 このようなものを頂けるのは恐縮なので、今度は私が翠子のテーブルを訪れた。


 「あの…ピアノを弾いたとはいえ、あんないいワインを頂いても宜しいのですか?」

 「いいんですよお嬢さん。今日は私達にとって特別な日だから、花を添えて頂いたあなたに私達からのほんの気持ちです」

 「ありがとうございます。お気に召して頂いて、私も光栄です」

 ご主人は人のよさそうな紳士で、家族全体が幸せだというのはテーブルを取り巻く空気で私でも一目瞭然だ。

 翠子がほんのちょっぴり羨ましく思えた。


 その赤葡萄酒(ヴァン・ルージュ)の香りに魅せられ、私はついついグラスを傾けると小さな黒薔薇の海がどんどん引き潮になっていく。

 黒薔薇の魔法は徐々に効力をあらわし、喉の奥を焼き焦がしながら、引っかかっていた言葉の通り道の詰まりをきれいさっぱりと掃除してしまった。

 「おい茉莉沙、そんなに飲んで大丈夫なのか?」

 「大丈夫ですよぉ、アタシはこんなのヨーロッパで水がわりに飲んでたからぁ。

 あー太陽クン、宇宙の旅はどーでしたかぁ?」

 「うん、とても素晴らしかったよ。あの無重力はどうにも変な感じだったけど……

 星が海のように果てしなく、波のようにキラキラしていて、それが無数にワーッと広がってた。上も下も、右も左もなく、(おお)きな星の海に包まれて……

 ああ、君にも見せたかった。宇宙から見た地球はやっぱり青かったよ。ああいうのを瑠璃色っていうんだな」

 深く静かに語る太陽の瞳に、私は宇宙が見えていたと思う。

 星の(さざなみ)が私を(さら)って、あなたの海で溺れてしまいそう―――

 「星の話をする太陽クンってス・テ・キ♡

 ワラシ本当のコト言うと、ムカシからアナタのコトダーーーーイスキなの♡

 ずっとずっとずーっと片想いなのヨ」

 ………お酒って本当に恐い。

 理性のあるうちは死んでも言えない科白を、薄めたスープのようにサラリと淡白にのたまらせてしまう。

 太陽は一瞬フリーズしていたようだが、すぐにいつもの優しい眼が私を見つめた。

 「そう、僕も宇宙に行って気がついた…っていうか宇宙から教えられたのかな。自分の心の深い底に潜んでいた気持ちが。

 レボルバー3号に乗っていた時、誰よりも君に逢いたくなった。星の見える窓には君が笑って僕を見ていたんだ。僕が本当に好きなのは、茉莉沙……君だったんだよ」

 「!」

 私は相当酔っているのだろうか?

 何だか現実なのか妄想なのかよく分からなくなってきた。

 ただの儚い夢物語だとしても、太陽のこの言葉は一生忘れられない宝となって、心の小箱の中で褪せない耀きを放ち続けるだろう。

 しかし、黒薔薇の意地悪はこのあたりで私の記憶を封印してしまったのだ。


 (光が、眩しい……夢をみているのかしら?)

 「はっ……」

 私を包む白いシーツ、カーテンを開ける逆光の影。

 見慣れない部屋、ここはどこなの?

 「やあ、ゴメン。起こしちゃったね。おはよ、茉莉沙……」

 振り向いたのは太陽の笑顔だ。

 ベッドに近づくと太陽は私の唇を貪り始めた。

 いつの間に覚えたのだろう?このツボを押さえた密着感……

 昨夜のお酒が軽く匂って、気が遠くなりそうな悩ましい感覚に身を任せ、自分の舌を太陽に吸わせながらも心では少しばかり混乱していた。

 (やっぱりあれは酔って見た幻じゃなかったのね。でも本当はリアルな夢なのかも。それでもいい、もっと愛して……だけどこれが現実なら、ほんとうにこれでいいのかしら……私達、もう友達とは言えないのかも。パトラちゃんは、一体どうするの?)


 私が迂闊にもお酒に任せて言ったひとことがタロット・カードの“運命の輪”をひいてしまったように、私達三人の未来(これから)が大きく激しく変わっていくのを、まだ誰も分からないでいたのだ。


 「あ、太陽くん……あ、ああ……」



   ★サバイバル


 「え、何だ?」

 フレードはディムが指している食指の方向を仰いでみると、空にはいくつかの物体が段々はっきりと形を露わにしていくのが見える。

 天国にもあんな物が飛んでいるのかと二人は思ったが、そのうちに地上の世界にあるのと何ら変わりない飛行艇が、明らかにこちらに向かっていると確信できた。

 

 『皆さんご無事ですか?我々はワンダルキア救助隊の第17部隊です。遅くなりまして申し訳ありませんでした。只今より皆様の安全を確保致します。どうか落ち着いて、指示に従い順序よく行動して下さい』

 「パパ、ここって天国じゃないの?僕たちまだ生きてるの?!」

 「何だかよく分からないが、どうやらそのようだな」

 津波がチューブとなって船に被さろうとした瞬間、凍りついたようになったのは何とも不可解だが、取り敢えず九死に一生を得てフレードたちに希望の光が射し込んできたのだ。


 『お年寄りの方、女性、お子様は先に飛行艇にお乗り下さい』

 上空から自動梯子が降ろされると女・子供は野生のハイエナの如く集まったが、その弾みで傾きかけた船がさらに傾きを増して、危うく転んでしまうところだった。

 ギギギギ………

 「キャアアアア!」

 『慌てずに落ち着いて!思わぬ事故を起こさないよう隊員の言う事をよく聞いて下さい』

 大して大きな船でもなく、しかも半分浸水しているので、精々二機同時に救助するのが限界だ。

 しかも先程よりもデッキの高さが水面に近づいている。

 あまりのんびりしていると、目的地は海底になりかねない。

 順番がなかなか回ってこない人達は、少しずつ苛立ちを覚えていく。

 「もっとさっさと行けねぇのか、サカナのエサになっちまうだろ!」

 「こっちだって順番待ちしてるんだから煽るような事言わないでよね!」

 「ケンカはやめてください!気持ちは分かりますが、こんな時に騒ぐともっと悲惨な事にもなりうるのですよ!」

 やはり人間生きてるとわかった途端、“自分が良ければそれでいい”的なエゴイスト根性に支配されてしまう。

 生きるというのは、いと哀れなのかも知れない。


 『さぁ男性の方、順番に梯子に摑まって下さい』

 「ディム、お前は先に乗りなさい。私はあとから行く。心配しなくても大丈夫だ」

 しかしもうデッキは半分くらい水に浸ってしまい、救助はさらに難しくなっている。

 もしもフレードが救出される前に船がもたなかったら―――

 ディムにふと、一抹の不安の翳りが射し込んだ。

 「でも、パパ……」

 「早くしないとお前もお陀仏だ。さぁ、行きなさい!」

 「……わかった」

 ディムは決心して、隊員と共に救助梯子に摑まると、そのままスーッと体がエレベーターのように上がって行った。

 命綱を着けているのは分かっていても、体の周りに何もない。

 下から見上げていた時には分からない恐怖が全身を包み込み、血流が止まってしまうのではと思われた。

 「下を見てはいけない。目をつぶるか、上だけ見るように」

 「ハイ」

 ディムは“恐いから下ろして”と言いたくなったが、やはり命ある限り帰らぬ人になりたくないので隊員の励ましを受けながら何とか自分と闘ってみた。

 「ハイ、つきましたよ」

 「ふうーっ」

 ほんの数十秒がとても長く思えた。

 飛行艇に乗り込んだディムは、ぐったり力が抜けて、生きた心地がしなかった体の隅々にようやく安心が巡り始めていた。


 「船長さん、せっかくのクルージングがこんな事になってしまって、あなたはさぞお心苦しい事でしょう」

 「いやいや、そんなことより乗客の皆様の無事を確保するのが我々の務め、全員が元気に帰還できれば。それ以上の事はないのですよ。それよりもナツザワさん、あなたもそろそろ乗り込まれた方がいいのでは……」

 「私は後でもいいのです。息子が救助されましたので、今この瞬間に沈没しても心残りはありません」

 フレードの一言が、本当にそうなるとは誰に予想できたであろう。

 乗客はあと数人。

 もう少しで全員無事救出される筈だったのだが、上の飛行艇のディムは、そんな事を思いもしないでどっと疲れが来てしまい、ウトウトと瞼の重さに身を任せていた。

 「ママ,助けてくれてありがと。う〜ん……」


 浅い夢の中で、花園にいるカメリアが振り向いて笑っている。

 『ディム、パパなら大丈夫よ。必ず助かるわ。安心してお休みなさい』

 夢の中のカメリアはそれだけ言うと、そのまま踵を返して花に埋もれていくように見えなくなっていってしまった。

 「ママ……どこ行くの?待って……」


 「キャア!何てことなの!」

 「どうしてなんだ!」

 「一体何が何だか分からんよ。信じられん!」

 周りがにわかにざわめいて、ディムの重い瞼が再び開いた。

 誰もが窓の外を見て口々に騒いでいる。

 ディムも気になって目をこすり見てみると、何がどうなってるやらさっぱり分からなくなってしまった。

 さっきまでオブジェになっていた波が活動を再開しているではないか!

 船は哀れなことに、ブクブクと泡を生み出して、今海底への旅立ちを始めたところなのだ。

 「パパは?パパはどうしたの?まだ飛行艇に乗ってないの?!」


 奇跡はもう、タイムリミットを迎えてしまったのか?

 フレードはどこにいるのか確かめられないままディムはただ、訳も分からずにウィンドウにはりついていた。



   ★澄みわたる風の中で


 「今度、どこかへ行かないか?」

 「えっ?」

 髪を梳かす私の背中を抱いて、太陽が鏡ごしに問いかけてくる。

 「もう夏だよ。コテージを借りて、二人きりで。青い海の近くがいいかな?それとも高原の避暑地?お姫様、どちらがよろしいですか……」

 太陽と二人のヴァカンスなんて夢のよう。

 いま私の心には羽が生えて、都会の空の小部屋からリゾートへと飛んでいってしまった。

 緑薫るログハウスは風と鳥が歌っているだけで、誰も邪魔をしに来ない。

 彼の広い胸にもたれて甘えたい!

 もな美のことなどすっかり忘れて妄想の甘い世界へと私はどっぷりと浸っていた。

 「うふふ……」

 「?……何が可笑しいの?」

 「あ、ううん何でも。私ってしばらくヨーロッパで過ごしたでしょう?だから日本の夏ってすっかり苦手になってしまったわ。海もいいけど、涼しい山に行ってみたいわね。きれいな湖と白樺林があるような……」

 「よし、決まりだ。じゃあ場所はどの辺がいい?」

 「そうね……あ、そうだわ。昔友達が北海道旅行に行って、その写真を見た事があるの。まるで空が落ちてきたような美しい湖………私も行ってみたい」

 「北海道だね、じゃあ決定。すぐにでも行きたいな。来週なんてどう?」

 「いいわ」

 「あー嬉しいな。茉莉沙と二人で旅行、楽しみだね」

 何度も思う事だが、これは本当に現実なのだろうか?

 私はこの恐い程の幸せを身体全体で満喫してもいいものなのか?

 人は幸せな時ほど不幸せの事を忘れ、悲劇はあとから追いかけて来るとは考えもしないのだとこのあと私は痛感したのである。


 そして出発の日、私達は共に羽田を飛び立った。

 思えば数年前、私と太陽を引き裂いた飛行機の翼を憎らしく思ったが、やっと今同じ翼で空を飛ぶ事ができた。

 真っ直ぐでしなやかな黒髪が高い塀のように囲み、遠くから見ていただけの彼が、息が触れ合うほど近くにいる。

 もしも永遠に時を止められる時計(ストップウォッチ)があったなら、私は何を身代わりにしもいいとそう思うのだった。


 「摩周湖は神秘の湖で、湖畔に下りる道も無ければ水源がどこにあるのか明らかにもなっていない。しかも時々霧のヴェールで身を覆い隠してしまう。まるで人を拒んでいるようだね」

 「もし霧が晴れていて、湖が見えたら婚期が遅れてしまうと言うわ。湖は見たいけど、お嫁に行けなかったらショックかも」

 「そんなの都市伝説だよ。ま、めでたく拝めても噂だから気にしない、気にしない」

 その神秘の湖の前までやってきたはいいが、もっと神聖な雰囲気のところかと思ったらバスはいっぱい停まってるし、観光客だらけでちょっとがっかり。

 (あーあ、ムードないなぁ)

 それでもいよいよフェンス際に立つときは少しドキドキしてしまった。

 (お願い、見えて……)

 「わあ………」


 眼下には鏡があって空を映しているのかと、そう思ってしまった。

 なんて素晴らしい!

 ラピスラズリを湖底に敷き詰めているのかと錯覚してしまうような色―――

 白雪の峰を映し出す富士五湖だってここまで美しくはない。

 見られない人は何度見ても霧を纏っているらしいので、私はひょっとして運がいいのかも知れない。

 「ああ綺麗……溜息がとまらないわ」

 「普段の行いがいいからだね。でも婚期が遅れたらお気の毒」

 「もう、意地悪いわないで!」

 「はは……だけど湖は気まぐれだよ。霧の足は速いってさ」

 もう一度空を映す鏡の方を見てみたら、お喋りしてる間に湖は信じられないスピードで白い衣に着替えていたのだ。

 「あっ本当。もう見えない」

 束の間だけれど美しい湖が見られたけれど、この湖はもしかして私の幸せの象徴なのかも知れない。

 あっという間に霧が行く手を阻んで先が見えなくなってしまう―――

 私は心のどこかでそう思っていたかも知れない。


 「さぁ、着いたよ」

 「素敵………」

 コテージは想像以上にセンスが良くて、いっぺんに気に入ってしまった。

 周りに取り巻く白樺の木々、窓から覗けば湖は底知れない青さ―――

 私は天の上の別世界にやってきたようで、足はフワフワと地についていない感じがしていた。

 しかしその頃私を脅かす運命が近づこうとしているのに、太陽も私も気付かずに浮かれていたのだ。


 「おばさん、お久しぶりです。これ、つまらないものですけどお土産です」

 「まぁ、もな美ちゃん!どうもありがとう、悪いわねぇ。あら、どうしたの?怪我でもしたのかしら?杖ついて……」

 「あ、ちょっと転んで。大した事ないんです」

 「あらそう?バレエやってるから大事にしないとね」

 「ありがとうございます。あの、太陽君は、いらっしゃいますか?」

 「あら困ったわ、ご免なさい。あのね、太陽は今ちょうど旅行に出てるのよ」

 「旅行……ですか。どちらへお出かけに?」

 「北海道って言ってたわね。今日出発したからすぐ戻って来ないと思うけどいいかしら?」

 「あ、いいんです私待ってますから。ところで北海道のどのあたりまで行かれたんでしょうね?向こうは涼しいから羨ましいわ」

 僅かに生まれた疑惑をうまく隠しながら、真っ直ぐでしなやかな黒髪が揺れていた。

 もな美はこのとき恐らく、何やら悪い予感が胸の中でふつふつと湧き上がっていたに違いない。

 そんな事も露知らず、北国の儚い夏の中で、私達は淡い光浴びて戯れていたのだった。

 「太陽クーン待ってよぉ、そんなに走らないでー」

 「もたもたしてないで早くおいでー、アハハハハ………」



   ★湖に消えたオデット


 「綺麗……不思議な色。ずうっと観てたら吸い込まれてしまいそう。もし身を投げるならこんな湖がいいわ」

 淡水魚が水面を跳ねると、透けて見えてた湖底の石も漣に崩れて幾つもの輪が広がって行く。

 アクアマリンでできているような湖はきっと魔力を秘めているのだ。

 目の眩む崖の上から躊躇(ためら)いもなく人を水鳥にさせてしまう気がする。

 「冗談言うなよ。あんまり乗り出すと本当に落ちてしまうぞ」

 「ふふ、ごめんなさい。幸せすぎて私どうかしちゃったのかしら」

 夢にまで見た太陽の腕の中、私は何度もよじれて魚になった。この何年もの空白を埋めて行くように繰り返し繰り返し、彼は私を抱いたのだ。

 本当に叶えたかった願いがようやく実を結んだから、たとえ今、湖のアクアマリンの一部に変わったとしても後悔はないだろうとほんの少し思ってみただけだ。

 「ねぇ、お茶でも飲まない?この自然の中でアフタヌーンティーなんて格別よ」

 「うん、じゃコテージに戻ろう」


 テラスのテーブルに座り、温かな紅い飲み物で私達の気持ちもほんのり色づいていくようだった。

 流れる雲にはモクモクとした暑苦しいものは無く、薄い絹が碧い空に滑ってゆく。

 流れる絹が映る鏡の湖。

 雪のような白樺の枝から伸びるビリジアンの木の葉が風に身をまかせている。

 私がもしピアノを弾かずに画家を目指したなら、きっと今ここでキャンヴァスに向かっている事だろう。

 「実を言うと、宇宙に出てみて気付いた事があるんだ」

 「なぁに?」

 「あんな巨きな無限の空間に教えられたのかな、ずっとずっと何年も気付かなかった自分の本当の気持ちを……茉莉沙、君の事が好きだった。やっと自分に正直になれたよ。ホテルのレストランで告白されたとき、嬉しかった。あの時君は酔っ払っていたから憶えてないだろうけど」

 記憶の片隅にしかないけれど太陽が言っていた言葉、あれはやはり酔狂などではなかったのだ。

 それが証拠に、今しっかりした意識でもう一度同じ言葉をこの耳が捉えたから。

 風は涼しいし肩にとまった小鳥の感触も確かに現実のものだが、私達がいる北の湖畔は実は夢の中の世界で、目覚めると独りベッドで泣いているのではと思わせるような言葉を、太陽の唇が続けて放った。

 「茉莉沙、結婚しよう」

 「………!」


 ドスン!

 何かが地面に落ちたような鈍い音が響いた。

 振り返るとそこには日本人形のような黒髪が涼風にそよいでいて、そしてその髪が冷たく凍ってしまったかに見えた。

 「もな美!」

 旅行鞄を拾おうともせず黒髪は踵を返してしまい、逆立つように乱れながら白樺林へと紛れこんでいった。

 「おい、待ってくれ!」

 「パトラちゃん、待ってえー!」

 時々よろめいて転びそうになりながらも、黒髪は私達をすり抜けて白樺の間をどんどん逃げて行く。その行く先は、さっきいた湖のほとりだから間もなく追いつくだろう。

 私が太陽と結ばれたとき、いつかこうなるのは分かっていたけれど、まさかそれが今だとは……

 どうしようもない間の悪さに、運命の皮肉を恨めしく思ってしまった。

 「パトラちゃんお願い、話を聞いて」

 「来ないで!」

 崖の縁まで追い詰められて、乱れた黒髪はようやくしなやかに肩に納まった。

 「もな美、君が悪いんじゃない。悪者はこの僕だ。口惜しいなら気の済むまでぶてばいい」

 「何を言ってるの!私があなたをぶてる訳ないじゃない。優しくして欲しいのに、そんな人をぶちのめすなんてできないわ!」

 濡れた頬に髪がはりついている。それを見た私の胸は千枚通しで穴を開けられたようで、もう身じろぎさえ出来なくなり、この頬もいつしか濡れていた。

 「私はプリンシパルを目指していたけど、それはおろかプリマ・ドンナも出来なくなってしまったの……ううん、バレエ自体夢と消えてしまったわ」

 「何ですって……」

 この時私には、もな美の痛みがはっきりと見えた。

 夢という名の翼をもぎ取られ、胸を掻き毟りのた打ち回る苦しみが私の胸の小さな穴をグイグイ乱暴に広げていく。

 「黙って見ててちょうだい」

 もな美は爪先を立てて両腕を広げ、羽ばたく仕草を始めた。

 (“白鳥の湖”だわ。悪魔の呪いで姿を変えられたオデット姫の哀しみ――)

 本物の湖を舞台に、足許の危うい崖の縁も気にせずに踊り出すもな美。

 オデットにも劣らない程の切ない気持ちが私の心をメッタ刺しにして、やっとの事で白樺の幹に支えられながら膝が崩れていき、私は許しを乞うた。

 「やめて…ご免なさい。悪いのは私よ。だからもうやめてぇ……」

 「あっ!」

 バタン!

 突然もな美が倒れてしまった。

 パラパラと小石が湖へと滑っていき、倒れ方を間違えたらと思うと、私達は冷や汗が逆戻りしていく心地がした。

 「ほらね、最後まで踊れないでしょう?私の足はもう踊りには堪えられないのよ……骨肉腫と診断されたの。このままだと足を切断よ……アハハハハ!!」

 「!」

 何て事!

 あんなにバレエを愛したもな美に、天は最悪の仕打ちをし給うのか。

 この世に神はいなくとも、悪魔は存在するのかと思わされてしまう。

 これがもし私なら、やはり耐えられない。

 手が使えなくなったらもう生きていけないだろう。

 私は全身の血の気が引いていくのを感じ、口のあたりが痙攣してカタカタ鳴っているのを止める術をも考えられないでいた。

 「ねぇ、さっき言った“結婚しよう”って言葉、あれ嘘でしょう?冗談よね?ねぇ、そう言ってよ……」

 「…………」

 太陽は言葉をさがしている。

 辛くて残酷な一言をどうやって吐き出そうかと喉を詰まらせ苦しんでるのが私にも痛いほど分かる。

 出来るなら馬鹿な事だと笑いとばして欲しい。

 私を気にせずもな美にひとこと嘘だと言って楽にしてあげた方がいいと願った。

 太陽のプロポーズは無しになってもいいからこれが悪い夢で、目覚めるといつもの平和な朝になってとこの時本当にそう思った。

 しかし私のささやかな想いは太陽の重い口火によって破られてしまうのだ。

 「さっき言ったのは本当だ、君の聞き違いじゃない。僕は茉莉沙にプロポーズしたんだ」

 「………!」


 風が止まった。世界の流れも時間もそのとき止まってしまった。

 「…………」

 「…………」

 「…………」

 弱々しく立ち上がったもな美に生気の影はなく、吹けば消えそうな儚さをはらんでいて見てはいられなかった。

 哀れな白鳥のようなかなしみ色の瞳で、誰もが見つけられず困っていた言葉をやっとの事で彼女は切り出した。

 「さよなら………」

 もな美はそう言ったきり背中を向けると、崖の縁を踏みしめ、渾身の力を込めてそのままグラン・ジュテ(大跳躍)をしてしまったのだ!!

 「もな美!」

 「パトラちゃん!」


 ゴオオオオオオ!

 突然、彼女を包むように激しいつむじ風が巻き起こって、私達は飛ばされてしまいそうなところを白樺の樹になんとか摑まって持ちこたえた。

 「わああっ!」

 「キャアー何この風?!」

 (……ハッ!)

 いきなり脳裏に浮かんだ、いつかもな美と一緒に行った占いの館―――

 ジル・アンドローザが告げた運命の竜巻……

 それはきっとこの事だったのだ!

 竜巻の威力は強大で、摑まっている白樺ごと吸い込まれてどこかへ投げ出されるのではと生きた心地がしなかった。

 「ウワッ何だ!」

 「眩しい!」

 物凄い光がもな美から発せられているようだった。

 直視すると眼がつぶれてしまいそうだ。

 あり得ない程の突風と閃光に頭は混乱して、このまま手を放してしまえばいっその事楽になれるのかもと思ったり、早くこの悪夢から醒めたいから舌を噛んでしまおうと、私は狂気と正気の狭間でようやく自分を維持している状態でいた。

 (これは天罰だわ。人の気持ちも考えずに誘惑なんかしたから……)


 ―――そのうち、風も止み光も消えていった。湖は波もなく穏やかに凪いで、あんなにしなっていた白樺も元のまま。

 今のは一体何だったのかと放心状態で座り込んだが、湖に向かって跳んだもな美が気になって崖の下を二人で覗き込んでみた。

 「パトラちゃん、どこにもいない……」

 「湖に落ちたら波紋が広がる筈なのに……」

 私達はそろって同じ幻を見たのだろうか?

 幻でなかったらもな美は今頃湖の底で溺れている。

 私達は近くにいる人を呼んでに助けを求めなければと思いつつ、体が凍結したように身じろぎもできないでいた。


午後の優しい光は何事もなかったかのように、鏡の湖面をキラキラと輝かせている。

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