第一部第二章
第二章
★恋の解禁日
「もうすぐバレンタインねぇ、マリサちゃん、チョコレート誰かにあげるの?」
「私は別に、パトラちゃんこそどうなの?」
「まぁネ。義理チョコだけど」
フューゲンドリッヒ学園に入学して夢中で毎日を過ごしていると、季節は何度も目まぐるしく変化していき、その年は全国的な大雪で私達も往生させられた。
舗道の根雪をサクサク踏みしめ、もな美と私は来たるべき恋の解禁日を想っていた。
風はまだ冷たくても、ハートの温度は真夏の炎天下。
女の子たちは色めき立ってソワソワし始めるこの季節、私も内心穏やかではいられない。周りには気付かれないようにしながらも、太陽の事をずっと忘れずに、想いをあたため続けてきた。
中学・高校と公立へ進学した彼は、小学校の時と違い身長も高く顔つきが大人びて来ていて、ときめくあまりに声もかけられず遠くで見ているだけの時があったりする。
(太陽クン、前よりステキになったわ。もうガールフレンドできたのかしら?まだだったら私の気持ち伝えたいな。手作りのチョコレートを持って)
溢れてこぼれそうな想いを言葉にすると、また詩が出来た。今度作曲をして歌にしてみようかとも思ってみた。
あなたの瞳の中に 私はいるのでしょうか
私の目に映るのは あなた以外は誰もいないわ
雪が舞い踊っていても 花のつぼみが密かに育つように
想いは膨らんでゆくのよ
そして眩しい陽だまりの中 美しく咲かせられたら
あなたは振り返り 見つめてくれるのでしょうか
手にとって 愛しんでもらえるでしょうか――
(チョコレートを持って、そして勇気を出して言うのよ)
「これ、良かったら受け取って下さい。あなたが好きです!」
「茉莉沙、具合でも悪い?大丈夫?」
「は?!おっお母さん……」
ひとり部屋で妄想に浸る私。
上演されているひとり芝居を見守っている母の目が、蒼ざめながら覗いていて、私もそのままフリーズして蒼くなってしまった。
そして、ドキドキの2月14日。
「チョコレート……よし、忘れてない。あとは太陽クンが来たら勇気を持つのよ」
湯せんで溶かしたチョコをハートの型に入れて、しかも“Ilove Taiyo”なんてトッピングつきで、あとから考えるとそういうベタなシロモノを渡そうだなんて恥ずかし過ぎる。
未熟な恋とは、まったく無敵なものである。
(ぶるるっ、風がつめたい。もう夕方ね、冷えてきたわ)
二月のつむじ風の意地悪を紛らす為、私は歌でも歌ってみた。
「夕暮れは淋しくて まちぶせにはちょっときびしい〜♪それでも笑顔見るまでは 帰れない帰れない〜♪迷い込んだ袋小路から 早く連れ出してね〜♯泣きそうになっているのは 誰のせいかわかっているの〜♪」
そうしているうち枝からもうすぐ木の葉が芽吹きそうなプラタナスの並木道を、段々大きくなってくる影が見えてきた。
紺色の制服の男の子、それは私が待っている人に間違いない。
(あっ、太陽クンだ!来ちゃった、どうしよう。茉莉沙、落ち着くのよ。そうだ、深呼吸、そう深呼吸よ。吐いて、吸って……さぁ落ち着いたかしら。うん、大丈夫ね。緊張したら彼が引いてしまうわ。いつものように自然に、自然にね)
顔が判る程、太陽が近くまで来た。出来る限り普段と変わらない私の顔で声をかけようと努めてみようとした。
「た………」
「太陽クーン!」
(は………?)
言葉にならないで口を開けたまま呆然としてしまった。青天の霹靂とはこの事だろうか?
太陽を呼んだのは、プラタナスから湧いてきたように現れたもな美だったのだ!
「良かったーっ今日会えなかったらどうしようかと思っちゃった。はいコレ、プレゼントよー」
もな美が太陽に渡したのは、私のよりも素敵な包み………
言わなくても分かる。気合が入ってるもの、義理なんかじゃない事ぐらい――
あとが続かなくなった私の声、行き場を失った私のチョコレート、そしてなす術もなく立ち尽くす私。まるで出番を降ろされた役者のよう。
「ありがとう、パトラ」
「どういたしまして。受け取ってもらえて嬉しいワ、ふふ。ねえ、腕組もうか」
「よせよ、ハハハ……」
楽しげに通り過ぎて行く二人に見つからないよう、プラタナスの陰にひそんでただ見送るしかできない………
このまま飛び出して『私もチョコあるのよ。しょうがないからあげるわ』なんて軽く渡してしまえばいいのに。
(意気地なしの茉莉沙、お前はなんでこうどうしようもないの?惨めね、こんな私、大嫌い!!)
樹の幹を叩いて暫く泣いていたと思うけれど、あとの事は記憶に無くてどうやって帰ったかも憶えていない。
気付けば、持っていたチョコレートはもうどこにも無くて、手に血が滲んだ跡がいくつもあり、それが痛くて心が切なくて、また涙が溢れてきた。
泣いても泣いても止まらない頬に流れる河は、体中の水分を出し尽くしてしまうかと思った程だ。この夜、私は小さな決心をした。
(幼い頃からのこの髪がいけないんだわ。こんな短い髪ちっともきれいじゃない。伸ばそう。女らしく優しく見えたら、少しは私を好きになってもらえるかしら……キレイになりたい。パトラちゃんよりもっと……私変わるわ、変身して後悔させてやるんだわ!)
★ディム失踪事件
「会長、どうかなさいましたか?お顔の色がすぐれないようですね」
「トピー君、悪いが私達は一旦このトレインを降ろさせてもらうよ。時間になったら出発してくれ給え」
「何があったのです?お差支えなければ話して頂けませんか?」
フレードは乾いた手で顔を覆い、深く溜息をついた。
これは只事ではない雰囲気だと直感的に察すると、トピーは業務を他の者に任せてしまい、フレード達のケアを集中的に務めようと決めた。
が、しかしフレードは柔らかくそれを断ろうとしている。
「いや、いい。君は戻りなさい。地球なら後から来る列車でも行けるから、私達の事は構わなくて結構」
「しかし、そういう訳にはまいりません。ディム坊ちゃまの姿が見えないようですが、もしかして何処かではぐれてしまったのですか? もしそうなら惑星中の人員をかき集めてでも捜索をさせましょう」
「ありがとう。実は私がほんの少し目を離した隙に、ディムはタムポムの木の実を食べてしまったのだよ」
「なんて事でしょう!分かりました。お任せ下さい。ここではユビキタス・システムはあまり発達していませんが、総力を挙げてディム様を必ず無事にこの星から出発して頂くように致します」
「そう言ってもらえて心強い、感謝するよ……」
航空捜索艇がいくつも空を切り裂いて、ポリスクラフト(警察組織が使用する水陸両用の乗り物)が野原を、道を、川を、湖を縦横無尽に走って行く。
惑星ミラージュはにわかに物々しくなったが、映画の舞台になったようである意味滅多に無い壮観な風景が見られた。
……いや、今はそんな事を言ってる場合ではない。
「マロンブロンドの髪に、ターコイズブルーのジャケットとハーフパンツを着用した十代後半の少年が精神安定解除植物を服用の為只今行方不明中。もし発見した際危害を加えず穏便に保護するように」
「了解!」
(大そうな騒ぎになってしまったわい。それにしてもディム、お前は無事なのだろうか……有毒蜃気楼にやられてはいないだろうか、苦しくはないか?怪我などないだろうか……)
フレードは惑星観光に降り立った事を後悔した。
いくらディムの頼みとはいえ、美しいこの星を見せたらその美しさの裏に潜む危険な淵へとディムを嵌まらせてしまった……
いや、いくら悔やんでも仕方が無い。ただディムが何事も無く自分の元に帰ってくれればと、フレードは祈るばかりだ。
「ジグサスの森はどうだった?!」
「はい、隊長。虱潰しにしましたが、手がかりありません」
「じゃあアドルナ海岸方面は?!」
「そこも駄目でした」
「ハァ……ったくどうしたものだ。こりゃ捜索が難航するぞ」
捜索隊長は額をかかえて溜息をつく。
それが伝染したようにフレードも頭を押さえ、失望の翳りが差してくるのを必死でこらえていた。
するとその時、
「隊長、どうやら発見した模様です!エストミンスクパーク付近のようです」
「よしわかった!我々もすぐそちらに駆けつける。決して手荒な真似はするんじゃないぞ、いいな?!」
「はいっ!」
「おーい、いたぞーっ!」
公園の草むら辺りに、明るい茶髪と青い服がちらりと見えた。
間違いなくそれはディムのようだ。
捜索隊たちは逃げないように、ゆっくり注意深くディムを囲いこんでゆく。
「よしっ麻酔銃だ。危険だから急所を外して狙え」
ドーン!
ディムはバッタリ倒れるとすぐ何も考えられなくなり、シルクの感触の風になでられながら深く深く意識を沈めていった。
衣擦れのように蜃気楼の音が、遠く優しく響いている――――
(トピーさん、しあわ…せ……)
★それでも私は……
「茉莉沙ちゃん、今日もピアノのレッスン?私もこれからバレエだけど。
今度ねぇ、なんとおデートなのよぉ。服何着て行こうかしら、あー悩んじゃう。やっぱこの前買った“アルファルファーラ”の上下がいいかナ?私自慢じゃないけどピンクって似合うのよね。うん、そうしよっと。
行き先は特に決めてないんだけど、水族館がイイかしらね。キレイな魚がいっぱい泳いでいて、なんかロマンチックじゃなぁい?私いっぺんあのガラスのトンネルをくぐってみたいのよ。海の底にいるみたいでステキー
日が暮れたらタワーに登って、夜景がキラキラしてるのよ。そんな中で『もな美、好きだよ』なーんて言われたらどうしよ。やっぱソレって恋の醍醐味ってヤツじゃなーい?きゃー楽しみ。それまでお肌と髪のお手入れちゃんとやっとこーっと。
ハッ、もしかして……勝負パンツもはいといた方がイイのかしら……ヤダーどうしましょ。そしたら薄くても破れにくくて安心のミチコさん印のコンドーサンがいるわね。備えあれば憂いなしよ。それとも、合わなかったらLサイズかしら。ゴムで出来てる割に伸縮自在なワケじゃないっていうし………
あっゴメンネ、忙しいのに。お喋りばっかりしてたわ。私も行かなきゃ、マリサちゃんも頑張って。じゃあ、明日ネ」
まるで立て板に水。
聞いていようがいまいがお構い無しに機関銃のようにひとり喋くりまくって、もな美は去っていった。
普通なら腸が煮えくりかえる筈なのに、そんな事も通り越して、ただ呆然ととり残され突っ立っているだけの私………
(何てハイテンションなのかしら。恋はナントカっていうけど周りがなんにも見えてないのね。私、あきれて一言もかえせなかったわ)
もな美は、私とは裏腹に毎日生き生きと輝いている。きっと恋が軌道に乗っていて、もともと美人の彼女をより美しく際立たせているのだろう。
私といえば、今は白い溜息の花を咲かせてるばかり。
意気地のなさを悔やんでも仕方が無いのは分かっているけれど、時々自分の中で切なさという獣が暴れだし、その度私の胸は悲鳴を上げている。
諦めて、違う恋をすればいいと人は言うでしょう。
でも私は、他の男の人を好きになりたいという気持ちにはなれない。
傷ついてもいいから太陽を愛したいと、そう思う。だから私は、待つ事にした。
やり切れない時はピアノに慰めてもらいながら―――
ピアノは私の事をわかってくれる。鍵盤を叩いていると苦しみが音に変わって、心に羽が生えた気がしてくる。
(そうだ。私、理想的な女性になろう……)
自分の中で、密かに願望が芽吹き始めた。
夢を叶えて、綺麗になって、誰よりも、夜空のどの星よりも輝く事ができたら、太陽だって私を見てくれるかも知れない!
あの夜空のさざ波の向こうの星を目指すよりも、もっと簡単なこと―――
それは信じる事。
信じれば私は必ず変わる。人生だって変える事ができる。
あの人だって、そんな私を見る目が変わってくる筈。
未来は、自分の筆で描いていくものだから―――
諦めという足枷を捨ててしまい、私は自分の足で、今日もピアノの前まで歩いてゆく。
★さよならミラージュ
『皆様お待たせ致しました。急行地球行きは間もなく発車致します』
「全くお前は人騒がせな奴だ。今度トピー君が来たらよく陳謝しなさい」
「ごめんなさい……」
ディムは無事に保護され、ホスピタルで治療を受けたあと、トレインの出発には何とか間に合った。
理性を失っている間、ディムは頭の中いっぱいに靄がかかって何も分からなかったと言っている。やはり蜃気楼のまやかしは、見えない魔物のようなものなのだろうか?
美しいものに惹かれるのはごく自然な事だけれど、その陰には落とし穴があるのを、二人は改めて思い知らされたようだ。
「会長、宜しいですか?失礼致します」
「ああ、トピー君すまなかったねぇ。この度は大変お世話になりました。こらディム!お前も何とか言いなさい」
ディムはスクっと立ち上がり、深々と頭を下げた。
「トピーさん、ご迷惑をおかけしました。申し訳ございませんでしたっ!お許し下さい、お願いしますっ!!」
雲のように飄々とした普段のディムとはガラリと変わって、潔い態度にトピーの唇は思わず緩んだ。
「いえ、どう致しまして。お怪我もなく無事でなによりでした。一時はどうなる事かと思いましたが、宜しゅうございました。まぁこれからは、お父様のおっしゃる事をよくお聞きになった方が宜しいと存じますよ」
「はい、反省してます」
「ふふっ(^^)」
今度は“青菜に塩”になったディムが何とも可愛くて、トピーはクスクスっと笑ってしまった。
「……あ、失礼しました。色々とありましたが、先はまだこれからです。道中お気をつけてひき続きよい旅をお楽しみ下さい。では離星となりますので私はこれで。お邪魔を致しました、失礼致します」
煌めく星、輝く星、瞬く星………宇宙に星は数々あれど、この惑星ミラージュほど美しく、そして空虚な星は他に見あたらないだろう。
波が来ればたちまち崩れてしまう砂金でできた城……儚い美しさを湛えたこの星が鮮やかに色を変え、フラッシュしながらどんどん、どんどん遠くなって行く。
「パパ、僕達がこの星で見たものって何だろうね」
「それはきっと、後になってわかるさ」
美しさには限りがある。肉眼で見える美しさよりも、目には映らないものを大切にしろ―――
この惑星は身を持って語りかけていると、ディムは言葉にはできないが、そんな気がした。
『皆様、只今惑星ミラージュを離星し、安全圏内に入りました。引き続き快適な宇宙の旅をお楽しみ下さいませ。次の停車ステーションは惑星ルミエール、惑星ルミエールでございます』
★思いがけないターニング・ポイント
「先生、お話って何ですか?」
私は大学部の音楽科、もな美は舞踊科へ進んでいた。
彼女は相変らず太陽と宜しくやっているらしいが、そんな事はもうどうでもいい。ピアノという夢が私を変えつつあるから。
女性たちの胸を震わせる、あの恋の祭典の日に悔しい思いをしたのは、男の子みたいな髪のせいだと思い、鋏を入れるのをやめてしまったが、今は下ろすと背中まで届いている。
顔つきだって、少女の頃と違うようだ。
「アラ、キレイになったんじゃない?」と、この頃よく言われるが、子供の私を知ってる人は、『福本さんって、整形ったんじゃない?』等と陰口をたたいてるらしい。
しかし私は何と言われても平気だ。
顔なんて直さなくても綺麗になれる。
“きれい”とは内側から照らされる光のようなもの。
その事に、とっくに気がついてるのだ。
及ばぬ鯉の滝昇りと知りながら、髪を毎日梳かし、お化粧だって覚えた。
泣いてばかりの女も、憎しみで般若の形相をした女も少しも美しくなどない。
それが分かるから、私は太陽のために変身すると誓ったのだ。
でもそんな私を一番変えたピアノの夢。
以前は知らなかった自分に邂逅えた。
雨の日の私、憂鬱に沈む私、ジェットコースターに乗りたい私、歌が大好きな私、そして、愛に生きたい私、愛の悦びを感じていたい私がいる。
ピアノは鏡のように教えてくれた。自分というものを、私に見せてくれた。
「今度ウイーンの姉妹校で、留学生を数名募集する事になりました。そこで私は、感性豊かな福本さんに是非行って頂きたいのですが、しかしその前にテストを受けなければなりません。あなたなら、必ずパス出来る筈。いかが?やってみる気はない?」
願ってもないような話!
子供の頃からの夢に近づくチャンスだ。
しかし、是が非でも行きたい私と喜んで二つ返事出来かねる私がいた。
「少し、考えさせて下さい。いいお話ですが、突然だったもので」
「そうね、急な話ですもの。心づもり宜しくお願いします。でも、レッスンは怠らないように」
「はい」
ギギィーと音をたて、運命の歯車が急速回転を始めた。
余程の事情がない限り、その回転を止める人など、まずいないだろう。でも私は、できるなら歯車を逆に回せたらと心のどこかで思っていた。
八重歯がこぼれる、屈託のない笑顔。見ているだけで幸せな気持ちになれたのに、それも叶わなくなるかも知れない。誰のものでもいいから、あなたには近くにいて欲しい……
(これが迷いなの?)
太陽の顔を見られなくなるのは辛い。失恋よりも苦しい。お願い私を助けて。
『行くな』とひとこと言ってくれれば、喜んであきらめるわ――
「エエーッホント?!すごいじゃなぁい。さすがは茉莉沙ちゃんね。でも、実を言うと私もなの。テストに合格したら、フランスに留学よ!」
「そう、おめでとう……」
「アラ、何だか元気ないわね。自信ないの?」
「違うの、うれしいんだけど日本を離れるのが、ちょっと……」
「何言ってんの。外国なんてすぐ慣れるわよ。そりゃ、ホームシックになるかも知れないけど」
「そうじゃないのよ」
「じゃあナニ?あっわかった!誰か好きな人いるんでしょ」
(ドキッ!)
一瞬もな美に心の中を見透かされたようで、冷や汗もすぅーっと逆戻りしていく気がした。
「う、うん。実は、あの……そうなの」
「あーっわかるわかる。恋する乙女は、愛しい人と引き裂かれるのってとってもツライものなのよ。アタシもそう!あぁ〜太陽クン、離れても私の事忘れないでぇ〜」
切ない気持ちを誰かに話せば、少しは気が紛れるかといわれているけれど、楽になるどころか何だか馬鹿馬鹿しくなってしまった。
「あ、ところで茉莉沙ちゃん、ジル・アンドローザって知ってる?」
「聞いた事あるわ。驚異の的中率で有名な占い師でしょう?」
「今度、みてもらいに行かない?私達のこれからと、恋について」
「ハァ?」
昔からそうだが、もな美はいきなり突拍子もない言動をとる癖がある。
私はガクッと力が抜けてしまい、カフェテリアのテーブルに突っ伏して頭を上げる気力も失った。
「きゃー大丈夫?!茉莉沙ちゃんしっかり!」
★神秘へのいざない
「どうぞおかけになって下さい。こちらのシートにお名前と生年月日を西暦で、あと星座と血液型をご記入下さい。お客様方は375番でございますので、呼ばれるまでこの番号札をお持ちになってお待ち下さい」
「なんだか銀行の順番待ちみたいね」
「ウン……」
ついにジル・アンドローザの館まで、私達は来てしまった。
占いをみてもらうなんて初めてで、さっきから胸がうわずった拍子を刻みっ放しだ。
ここには日常とは違う時空が流れているよう。
不思議の国のアリスにでもなった気分がして辺りを見回してばかりいると、もな美はすでに記入を始めていて、私も慌ててペンを執った。
「えっと、一ノ原もな美……1987年4月16日‥‥牡羊座O型っと、これでいいのかしら」
彼女は大人みたいに流れるような美しい字を綴っているのに、私ときたらイマドキの女の子がよく書いてる読みにくい字……何だか恥ずかしくなってしまう。
「あの、すみません」
「はい、書けましたでしょうか?」
「これ読めますか?」
自分の字がお粗末で情けなく、占い師の助手の人にまで、恐縮してしまった。
「福本茉莉沙さん、1988年3月5日魚座B型。大丈夫、読めますよ。はい、ありがとうございます。もう少々お待ち下さいませ」
流石この人、ギャル文字・マンガ文字・ヘタウマ文字などの様々な女文字を見慣れているようで、少し安心した。
「あ〜でもなんか異次元の世界みたいな不思議な空間ね。BGMが眠気を誘うわ。壁のキラキラはオーストラリアの土ボタルみたい。あの池みたいなのはイタリアの青の洞窟のイメージかしら?でもワタシ、なかなか好きだわ」
「そう?私ドキドキして落ち着かない」
落ち着かないのは占いの館の不思議なムードのせいだろうか?これから出る占いの結果が吉と出るか凶と出るか、今からおののいているのではないか……
「375番の方、どうぞお入り下さい」
「ハッ、きたわ。行くわよ」
「ウン」
いよいよ私の緊張は更に高まってきた。予防注射の順番が回ってきた子供みたいだ。
同時に好奇心もドライアイスのスモークのように湧いてきている。
さあ、このむこうに何が待っているのか……
「ジルの館へようこそ、私はジル・アンドローザです。さぁ、どうぞリラックスなさって。あなた方の悩みや問題を、ポジティブな方向へとお導き致しますわ……」
ここは本当に日本?
黒レースのカーテンの中は蝋燭の灯かりだけで、水晶玉が妖しい輝きを浮かべている。初めて間近で見る占い師のコスチュームと化粧に圧倒され、タイムスリップして中世の魔女に逢っている気がしてきた。
「ふふふっ……あ、コホンコホン。ごめんなさい、ちょっとノドが……(^^)」
(パトラちゃんったら、こんな時に。もう……)
私だってこんなケバい厚化粧を目の当たりにして、いい加減腹筋が苦しいのだ。
二の腕の内側をつねって、爆発しそうな可笑しさはなんとか消沈させる事はできた。
「それでは伺いますが、あなた方が思い悩む事とは何ですか?」
「あの、私バレリーナを目指していて、彼女もピアニストを志望しています。それで二人とも今度ヨーロッパに留学のチャンスが巡ってきて……それぞれの道での成功はあるのでしょうか?いえ、それだけではありません。私達好きな人がいます。恋の行方はどうなるでしょう……」
「ほほほ……分かりました。あなた方の夢と愛、このジルが灯かりをともしてしんぜましょう。では、占星術からみて参りたいと存じます。一ノ原もな美さんはどちら?」
「はい、私です」
「バレリーナの方ね。あなたの性格は……勝気で活発な所がありますわね。でも内面はガラス細工のよう。何かのショックで傷ついて壊れやすいので注意が必要です」
「あ、当たってるかも。ワタシ意外と繊細だしぃ」
「でも波に乗ると向かうところ敵なし!意思をしっかりと持てば、どこまでも昇って行く事ができます。でも恋は押してばっかりは駄目なのですよ。猪突猛進になりがちなので時には引いて、駆け引きを楽しむ位の余裕を持ちたいところです」
「ああーそうなのネー」
「運勢ですが、上向きになる傾向にあります。ですから、あなたの夢はきっと叶うでしょう」
「ヤッター(^^)」
「ただし、20代半ば頃に急転直下の暗示があります。でも何が起ころうとも乗り切って行く勇気とパワーに溢れているので、心配はいりません。その後はますます勢いを増して行くでしょう」
「はぁーそうですか。ありがとうございます」
「それでは、福本茉莉沙さん」
「は、はい……」
「あなたは優しくて穏やかな人ですわね。争いを好まず、花や鳥や、四季の移ろいなど自然界の美しさに惹かれる傾向にあります。正に音楽を愛するに打ってつけの感受性を生まれながらに備えています。ですから、あなたの天性の才能を十分に生かすように心がければ、道は必ず開けます。ただあなたは大人しい方のようですので、もう少し積極的に物事を推し進めれば、あなたを支持する人は引く手あまたになります。ここぞという時は思い切ってみましょう」
「はい……」
「沢山の異性との交流をさほど好まないあなたは、一人の人を大事に想うタイプです。ですから、思いやりを忘れずに愛情を大切に温め、そして決して諦めないこと。そうすれば、必ず愛は相手の方に届く筈です」
(そうか……)
想いが激しくなれば、燃え尽きてしまう。
そして嫉妬の炎に身を焦がすと滅びてしまう。
初恋のあの淡い気持ちのままでいれば、私の恋も花を咲かすことができる。ジル・アンドローザはそう教えてくれた気がした。
(太陽君。私何年かかってもいい、待っているわ)
彼が振り向かなくても、友達のままでも、あなたが好きだからそれで幸せ――私はやっと自分にそう言えるように思えてきた。
「しかし普段はおしとやかなあなた。その分何かの拍子に、大雨のあとのダムのように歯止めがきかなくなるかも知れません。時にはハッキリとした自己主張や、許される範囲のわがままもご自分を保つ為には必要ですわ」
「はい、ありがとうございます」
「では、このクリスタルの中に、これからのあなた方を見い出したいと存じます。大変恐れ入りますがしばしの間、お静かに。エコエコ・アザラク、エコエコ・ザメラク………」
ジルは妙な呪文を呟きながら、瞑想へと入ってしまった。
焚き染めた紫壇の薫りと揺らめく炎が、沈黙の中を僅かに蠢いている。
私達は、黙祷を捧げる時のごとく、神妙に口を閉ざし、さっきはジルの厚化粧に『クスッ』と笑ったもな美でさえ唇をかみしめて俯いている。
5分もあるかないかの僅かな時間も、永遠のように思えてきてしまう。
「ハッ、これは――」
突然、ジルは息を呑んだ。
その顔色からして恐らく、私達には計り知れないとんでもない事が、水晶玉の中で繰り広げられているのだろう。
「ジル先生、どうしたんですか?」
「い、いえあの、何でも……あ、あなた方はこれから、とても、す、素晴らしい人生を送る事が、出来ます、ね、ハイ……」
明らかにあやしい。
ジルの眼にはきっと、何か不吉なものが映った筈。
嘘がバレそうなイカサマ師みたいに急に挙動不審になって、ますますあやしい。
「先生!!」
「ハイ………」
先程までの凛とした“気”はどこへやら。
脂汗でファンデーションの壁も溶けて流れてしまいそうだ。
★衝撃の予言
「ちょっとジル先生、いい加減な事言わないで!ワタシ達だって分かるわよ。インチキだったら鑑定料返してもらいますからね」
「ま、まぁ、お怒りはごもっともですわ。……分かりました、真実を申しましょう。どうぞお静まりあそばせ」
ジルは深呼吸と咳払いをし、私達にというより自分に言いきかせるように口火を切り出した。
「未来のあなた方は、他の誰よりも数奇な道を行くのが私には見えます。或る時は花園で戯れ、また或る時は茨の棘に傷ついたりする……これは何かの因縁のよう。“葛藤”という言葉の如く葛と藤の蔓がもつれ合い、絡みあい、望むと望まざるとに関わらず、愛憎劇の舞台へ立たされる事になるのです」
ゾクッ。
首筋に氷をあてがわれたように、私達は震えた。
ジルの目が妖しく見えたのは、どぎついアイラインのメイクでも蒼いカラーコンタクトが光ってるせいでもない。
「おや、怖くなってきましたか?私もあまり言いたくないので、もうおしまいに致しましょうか?」
「いいえ、続けて下さい」
「左様でございますか。ではアドバイスを致しましょう。あなた方は現実を超えた謎のベールに包まれた事件に巻き込まれてしまいます。それはあまりに神秘的で、あまりに抽象的な為、私の理解が及ばないので説明は出来かねますが、“運命の竜巻”と呼ばせて頂きましょう。その運命の竜巻は否応なしにあなた方を襲い、その身を翻弄しますが、決してそこで絶望してはなりません」
ジルは私達を見つめて、子供を諭す母親のように穏やかに、そして力強く語っている。
「嫉妬と憎悪を捨て、お互いを愛するのです。さもないとそれぞれ相手の刃に倒れる事になってしまいます……あなた方は二人とも、やがて選ばれた人となるでしょう。それはこのクリスタルがはっきりと語りかけています。ですから、何が起きても自暴自棄にならずにご自分を信じて下さい。希望の光とは必ず、何よりの味方になってくれるものですわ」
「はい……」
もな美は抜け殻になったように虚ろな返事をしていたが、私はいつしか涙を止める術を失ってしまい、もう何も言えなくなっていた。
(私達に過酷な未来が控えている……?どうすればいいの、私には分からない、何をどうすれば、幸せになれるの?………)
占いの部屋は淀んだ空気が渦巻いて、私達は気分がすぐれずに溜息を洩らすしかできなかった。
★想い出はまぶしくて
『間もなく、惑星ルミエール、惑星ルミエールでございます。停車時間は16時間を予定しております』
「おいディム、もうすぐステーションに着くぞ。支度しなさい」
「は?はい」
「何だ、さっきからそれを読んで溜息ばっかりついてるじゃないか。そんなに面白いか?」
「ウン、今ねとっても盛り上がってるトコ。茉莉沙ともな美っていう女の人たちが占い師のオバサンに自分達の未来を予言されてマッツァオになってるんだヨ」
「何だ、まだそんな所を読んでるのか。半分もいってないじゃないか」
「ボクは読むのが遅いってみんなから言われるんだヨ」
「まぁいい、旅はまだまだ長いからじっくり読みなさい。地球に着くころには多分読破できるだろう。 ほら、見てごらん。次の星だ」
レモンイエロー、アイボリー。
そのどちらでもない淡く優しい光が輝いている。
地球に暮らす人々なら、そのきれいな光にノスタルジィを感じる事だろう。
「惑星ミラージュもよかったケド、この星もなかなかキレイだネ」
「そうだろう。地球の近くには月という星があって、それに似てるから“ワンダルキア”という呼び名もある。意味はルミエール語で“もうひとつの月”というんだそうだ」
「へえー」
ワンダルキアこと惑星ルミエールがどんどん膨らんでいき、列車が光に包まれてゆく。
あたたかな色はやはり地球人でなくとも安らぎという心地よさを感じさせてくれるものだ。ディムは、昔からこれとよく似た光を浴びていたかのように想いを馳せていた。
(茉莉沙という人も、もな美という人も月の光を見て何を考えていたんだろう。こんなきれいな星なら、きっと楽しい話をしながら笑っていたんだろうな……)
列車はゆるやかにスピードを落としていると、やがてステーションが近づいて来た。
「あ、すごい――」
銀色に輝くステーション。
この星の白い土の反射を浴びて、自らが発光しているみたいだ。
このステーションのビルの曇りのない冴えた輝きは旅行者に人気が高く、“コスモエクスプレス百景”の中にも選ばれている。
「この鉄道の数ある路線の中でも、ロワンドテーリャ⇔地球間はとりわけ美しい星やステーションビルが多くあるんだ。“ゴールデン・スプラッシュ・レールウェイ”といわれるこの路線は、それこそ金がはじけて飛び散るみたいに、この先も次から次へと驚かされるぞ」
列車は鏡でできたようなステーションに滑り込んでいき、フレードとディムは光の乱反射に包まれ、まばゆい世界へと迷い込んだ。
「おお、そうだ。さっき借りたこれをつけないと」
光から眼を守る特製ゴーグルを二人は装着した。
「パパ、カッコイイよ」
「こら、からかうのはよしなさい!」
フレードは照れ笑いをして、むかし妻とハネムーンでリゾートプラネットに行った時、同じような科白を言われたのを思い出した。
七色の珊瑚礁の海にラピスラズリの青い空。
鮮やかな花咲き乱れる常夏の星で、痛いほど強い陽射しの中若いふたりは笑いあっている。
『アハハハ…カメリア、早くおいでよ』
『待ってよーっもう。あ、フレード見て。パール貝がいるわ!なんてきれいなの……』
パール貝は真珠をたくさん抱いているが、貝殻までが真珠色をした不思議な貝だ。
『海でこの貝を見つけると幸せになれるって聞いたわ。私達、きっと幸せになるわね。フレード、愛しているわ……』
二人にはやがて玉のような三人の天使が授けられ、妻のカメリアは一番あとの天使をディムと名づけた。
悪戯好きなディムにはよく困らせられたが、それでもカメリアは満足だった。
『私は、どこの星のどの女性よりも幸せよ』
口癖のように言っていたこの言葉も、或る時を境に聞く事ができなくなってしまった。
『もうすぐあなたの誕生日ね。私プレゼントを買ってきます』
フレードの為に、デパートへ買い物に行く事にしたカメリアは、いつものように家族に微笑みを投げかけていた。
『では行ってまいります。遅くならないうちに帰るわね』
この言葉が、彼女の最後の言葉になるとは、フレードもディムも露ほども知らないでいた。
『ママおそいね』
『うん、何をしているんだろうな』
フレードと三人の息子たちは、ナツザワ家の紅一点の花がなかなか戻らないので退屈になり、気をもみ始めた。
すると、テレビが気になる事を話はじめたのだ。
『番組の途中ですが、ここでニュースをお伝えします。先程、ヤポーナ・グランドデパートにて火災が発生し、買い物客が逃げようとして数百名もの人々が将棋倒しになる等の大惨事が起きました』
『パパ、ここママが行ったデパートだよ!』
『カメリア…カメリア!』
矢も盾もたまらず、家族たちは急いでゆく。
『お気の毒ですが、煙をたくさん吸っていたうえに将棋倒しに巻き込まれて、ホスピタルに搬送されるころにはもう……ご愁傷様です』
誕生日のプレゼントなんてどうでもよかった。
ただ妻が元気でいてくれればそれだけでいいのに。
フレードは自分のせいなんだと、今でも時々胸を痛める事がある。
「?……どしたのパパ、さっきからボーっとして。おーい聞こえるかー!着いたよー」
「……はっ!あ、ああすまんな、ちょっと考え事をしていた。さあ行こう、この星もいい星だぞ!」
トレインのドアが開くと、まばゆい光が溢れて、そこには光の海が広がる世界があった。
★運命の鐘がなる
『パキン!』
空気がそんな音を立てそうな程張りつめている講堂。
私はまた不安の淵へと沈んでいこうとしている。
幼い頃、初めての発表会で緊張のあまり倒れそうになったあの感覚が甦ってくるようだ。でも私は自分の為にやらなければならない。
そんな思いに支えられてるので、今は逃げ出したいと思わない。
私は自分を鍵盤の上で表現したい、その為に生きてると思うから―――
「26番、福本茉莉沙さん」
「はい」
私はステージ上のピアノの前に座り、深呼吸をして一瞬、すべての考えを冥じてみた。するとパァーッと心の中に宇宙が広がって、星が笑いかけながら味方になってくれる気がした。
(きらめく星たちは皆、それぞれ意味があるのね。私がこの世に生まれてここにいて、今こうしているのもやっぱり意味がある事なんだわ)
あの発表会で太陽に見守られていたのと同じく、緊張も不安も恐怖も、煙のように消えて行き、嘘のように心が晴れて行く。
霧に包まれた神秘の湖が、その姿を露わにしていく如く、私は何かが見えてきた気がした。そしてテストの課題曲“ラ・カンパネッラ”のイントロダクションを弾き始めた。
最初この曲を弾いた時は手が筋肉痛になりそうで、作曲家リストの嫌がらせかと思った。
でも今では魔法使いになったよう。
誰も触れなければもの言わぬピアノを、笑ったり泣いたり怒りを覚えたりと、キチンとした感情のある生き物に変えられる。
私はこの曲のモチーフとなっている鐘の音をよく聴いていた。
チャペルに立ち寄っては祈りを繰り返す毎日。
《私は渾身の想いをこめピアノを弾く事で、沢山の人々が心を動かし、私のピアノを求めてやまなくなります事をいつも望んでいます……》
“ラ・カンパネッラ”を奏でると甦ってくる。
時を告げる鐘、祭壇の十字架、薔薇窓の複雑な光の彩り、チャペルの椅子の座り心地、心の中で湧き起こるアンコールの喝采、そして愛する人への秘められた変わらぬ想い―――
今はヨーロッパの事よりも、自分をピアノに投影する事が出来たら私のピアノは成功すると、それだけを考えていた。
ただ無心に、ただひたすらに………
コーダを終えて我に返ってみると、爽やかな気持ちに満たされている自分がいた。
例えお固い先生方に理解されなくても構わない。
私は自分の想いを詰め込んだ私にしか弾けないピアノを演奏出来れば、それでいいと涼やかな顔で立ち上がった。
テストの前はあんなに強張っていた空気が、私のまわりでフンワリとゆるく、心地のよいものに変わっている。
「ありがとうございました!」
ステージを去る自分の足は軽くなり、ツーステップを踏みたいと言っている。
あとは野となれ山となれ。結果はどうなろうともう後悔はない。
★クロスロード
『皆様にお知らせ致します。館内で不審な荷物などを見かけましたら、お手を触れずにお近くの係員までお知らせ下さい』
「パトラ遅いわね、何やってるのかしら?」
「さっきケータイ架かってきたけど、道路大渋滞なんだって」
「マァお車?さすがお嬢様は違うわネ」
成田国際空港のロビーでは様々な人が行きかっていて、時間を持て余していたらマンウォッチングをするにはいいかも知れない。
業務に入るキャビンアテンダント達のいくつものグループが通って行ったり、グランドスタッフが忙しそうに駆け抜けて行ったり、ブロンド美人が長い髪をかき上げ、ダンサーみたいな男の腕を取って甘えていたり、新婚カップルらしき人々も沢山いて、中には季節外れのリゾートウエアが到着を待ちきれないようで可愛かったりする。ダラダラしていて先生に叱られる修学旅行生も、遠くで見てると微笑ましい。
それらの渦の中私達もいる。
これから慣れない国でしばらく暮らすのは不安な事だけれど、留学生たちはみんな眩しく光を放っている。
そして、一層輝く顔が急いで私達のもとへとやって来た。
「ごめーん!!遅くなっちゃったぁ。みんなもう手続き済ませた?」
「そんなのとっくの唐変木よ」
「キャー大変!アタシちょっと行ってくる」
疾風のように現れ、疾風のようにまた行ってしまった。
昔から人気者のもな美は、何をしてもやはり憎めない。たとえ彼氏が誰であっても……
(あ―――)
向こうから手を振ってやってくるのは、太陽だった。
私はウイーンへ行く事を彼に知らせていなかったから、きっともな美を見送りに来たのだろう。何だかばつが悪くて同級生たちの後ろに隠れようかと思ってしまった。
「茉莉沙、君も行くんだ。どうして言ってくれなかったんだよ、ひどいなぁ」
「だって私べつに……」
「べつに?」
「あなたの彼女じゃないし」
「そんなの、一言知らせてくれたらよかったのに、幼なじみなんだから」
(幼なじみか――なんてフクザツな言葉なのかしら)
太陽の言葉に少し引っかかったけれど、本当の事だから仕方がない。
「ええ、ごめんなさい。忙しくてなかなか会う事もなかったけど、電話でもすればよかったわ」
「そういえば最近、君の夢をよく見るんだよ。君が世界の大舞台でピアノを弾いて、拍手喝采を浴びている。そして白いウエディングドレスを着ているんだ。きれいだったなぁ。そんな君が僕の隣にいるんだよ。妙な夢だなあ」
太陽が私の夢を見てくれている。
私だって負けない位何度も見た。
ウエディングドレスを纏っている夢。隣にいるのはいつも太陽……あなただった。
(こんな偶然、あるのかしら。うれしい……正夢であってほしい。ハッ、もしかして今この場面も夢の中の出来事?)
太陽の恋人はもな美。
でもその太陽が意識の下で自分と繋がっているなんて、それこそ夢のよう。
頬をつねってみるのは恥ずかしいから、そっとお尻をつねってみた。
「痛っ!」
(やはり現実なのね。太陽君、ありがとう……)
私の心は喜びのあまり、フッと張りがなくなって体の力が抜けてしまった。
「あっ、大丈夫?!」
(ハッ!)
倒れかけた私を、太陽の腕がしっかりと抱きとめている。
こんな近くに彼の顔が……
至近距離で視線が合った時の恥ずかしさったらない。私を見つめる澄んだ瞳が狂おしく潤んで、心の中をかき乱している。
この力ない体を平気で支える力強さ、そしてかすかに漂う男の人のにおい……
太陽に“オス”を感じ、胸はギュッと締めつけられ、鼓動が自分の耳に響く程、速い。
(心臓の音、聞かれてるかしら。ああ恥ずかしい!顔から火が出そうだわ)
「大丈夫。ホントご免なさい」
このまま腕の中で身を任せていたいとも思ったけれど、人の視線を感じながら私は太陽から離れた。
「頑張れよ。夢をきっと叶えるんだ。辛くても負けるな」
「ありがとう、自分を信じて精一杯やってみるわ」
太陽の大きな手が、私の白く細い手と握手をしてくれた。次にこの手を握りしめられるのはいつの日の事かと思いながら。
「太陽クーン!」
手続きを済ませたもな美の声が聞こえてくる。これ以上太陽と一緒にいてはいけない気がして、私は少し早めに搭乗準備をしようと決めた。
『全日本航空591便・東京成田発ウィーン行きにご搭乗のお客様は、18番ゲートよりお入り下さいませ……』
「じゃ、私行くわね」
「体に気をつけて、元気でな」
「あら茉莉沙ちゃん、もう時間なの?」
私は、少し息の上がったもな美にも手を差し出し、固く握手した。
「必ず手紙書くわ。時々あなたの近況を教えて。パリは日本より寒いから風邪ひかないようにね」
「ありがと茉莉沙ちゃん。あなたも元気でガンバッテ」
「パトラ……」
「茉莉沙……」
私ともな美は抱き合うと、お互い銀の糸を睫毛から頬へと伝わらせている。
幼い頃から仲が良かった私たち三人。今、交差点に立って、それぞれ別の方向へと歩み出さなくてはならない時が来た。
「二人とも、元気でね。また逢いましょう、三人で」
「ええ、きっと」
「茉莉沙、しっかりやって来いよ」
「ありがとう……ありがとう、行ってきます!」
私はありったけの想いを込めて、大きく大きく手を振った。
さよなら、青春の光に彩られた思い出たち。あなた達と過ごしたすばらしき日々―――
ゲートへ向かうエスカレーターでもう一度振り返ると、ふたりは寄り添って私を見送り続けていた。
(これでいい、これで……)
『皆様、間もなく離陸致します。お座席のベルトを今一度お確かめ下さいませ』
翼は私を連れて、北を目指しながら旋回していく。
けれど、心だけ置いてきぼりにしてきたような、そんな気がする。
それでも否応なしに、身体はどんどん太陽から遠ざかってしまう。私が生まれて育った国が、小さく小さくなって雲の下へと消えて行く。
(私きっと戻ってくるわ。今よりもっと輝いて……)
「茉莉沙ちゃん、行っちゃったわねぇ」
「うん」
「さぁ、私もそろそろ行かないとね」
展望デッキの風は秋の薫り。
私達をほどけたネックレスにした午後、淡い陽だまりの中で薄の穂も遠くから手を振っている。
私を乗せた翼はもう音も聞こえず、あのひとの瞳から消えてしまった。
★白金色の海で
「パパ、この星の海って、まるで魚のウロコみたいだね」
「そうだな。ロワンドテーリャも地球も海は青いものなのに、ここの海はプラチナ色をしている。グルセチウムという金属の成分が溶け出してこんな色になってるのだが、実に不思議だ」
フレードとディムは遊覧船の甲板に出てみると、潮風が心地よく、白金細工の波の煌めきに目を奪われていた。
ディムは、泳ぐ魚もプラチナ色なのかと思い眼を凝らして見ていたら、突然キラキラと飛沫をあげて、若草色をしたイルカが跳ね上がった。
「わぁ!」
『ご案内致します。只今グリーンドルフィンが当クルーザー付近まで来ております。5回に一度逢えるか逢えないかのチャンスですので、展望ウインドウかまたはデッキよりご覧下さい』
「ここに来てこんなキレイなイルカさんにあえるなんて、スゴイなぁ。何かいい事あるかも(^^)」
「グリーンドルフィンは恥ずかしがりだから、普通人間の前にはあまり出てこないものだが、これは沢山いるぞ。珍しいな」
おびただしい数のグリーンドルフィンが、プラチナの波間から何度も弧を描いている。圧巻の水上ショウに、乗客たちは歓声をあげ、デジタルムービー撮影をする者も沢山いた。
「カワイイ」
「ブラボー!」
「すごい、すてきー。パチパチパチ」
フレードもドルフィンの姿をカメラに収めていたが、そのうち何か不審に思うところがあるのに気付き始めた。
「ギャー!ギャー!ギャー!」
「…………」
「パパ、どうかしたの?」
「しっ!よく聞いてみなさい。ドルフィンの鳴き声がおかしくないか?」
ディムは耳をすませてみた。
言われてみればドルフィンたちは、興奮しているようにも聞こえる。
気のせいかも知れないが、自分達に向かって何か言いたい事があるようにも見えてしまう。
群れの中の一頭が鳴きながら近づいてきて、勢い余り船体にゴン!とぶつかってしまった。
「おおー」
「ヤダーかわいそう」
「パパぁどうしたんだろうね。イルカさんたちやっぱり変だよ」
ディムも何だか不安にかられてきた。
しかしもっと不安をかきたてられる、この耳を疑いたいような話を、船内のスピーカーたちが喋りはじめたのだ。
『乗客の皆様、お楽しみのところ大変恐れ入ります。緊急事態が発生しました為、当クルーザーは急遽港へと引き返させていただきます。
只今入りました情報によりますと、先ほどマグニチュード6程度の地震が発生し、震源地はこの付近の沖合という事で、津波のおそれがあります。
皆様落ち着いて下さい。津波到達まで1時間以上かかります。只今全速力にて港へ向かっておりますので30分程で帰港致します。港に着きましたら係員の指示に従い、速やかに避難していただきますようお願い申し上げます。
皆様大丈夫です。時間はありますのでくれぐれもパニックをおこさないよう落ち着いて行動して下さい』
「キャアー!」
「うっそー!」
「ヤダーこわいよー」
「助けてくれー!」
「もうおしまいだ、ああ神様†」
「皆さん落ち着いて!我々クルーを信じて下さい」
誰もが悲鳴を上げ、泣き叫び、中には海に飛び込もうとする者もいて、船上は大騒ぎになって収拾のつかない地獄へと化してしまった。
「パパァ、僕たちも死んじゃうの?いやだよう、ウワーン!」
「しっかりしなさい!男の子だろう?係の人が言った通り港にはすぐ戻れるからお前も落ち着くんだ」
「ワーン、×♪♯♂◯★◎!」
「あっ、こらディム!」
ディムは泣きじゃくり過ぎて何を言ってるか訳がわからず、そのまま甲板から船内へ走り出して行った。
あちこち走り回っていると、いつの間にかコックピットへとたどり着いてしまった。
船長らしき人が険しく海を睨みつけ、ディムが迷い込んだ事にも気づいていない。
そこへ、やはりディムを気にも留めずにクルーがひとり、血相を変えて飛び込んできた。
「キャプテン大変です!原因は今解明中ですが、エンジンにトラブルが発生して、このままでは船が停まってしまうかも知れません!」
「何だと!よし分かった。君達は早急に復旧できるよう最善を尽くしてくれ。私は事と次第によってはすぐ救護を頼むから、心配せずに宜しくな」
「はいっ!」
(えっっっ?!)
あまりの驚きにディムは声も出せず、屍のようにそのまま固まってしまった。
船が、停まってしまう。
もうすぐ津波がやって来るのに―――
今度は絶体絶命の窮地に立たされたディムたち。
彼らの運命は、風前の灯なのだろうか?
プラチナの波は何も言わず、不気味に凪いでいるだけだった…………