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第9話 天使ミカエル

金曜日の午後9時過ぎ、薄暗い救急夜間外来病院の待合室には、僕以外に誰もいなかった。


僕を助けるために若葉さんに額を割られたあまつかさんは、診察室で治療を受けている。


診察室に入れてもらえなかった僕は待合室のベンチで心配しながら待つしかない。


僕の手に握られているハンカチにはおびただしい量の血が付いている。


よく見えなかったけど、若葉さんは思いっきり鋏で殴っていた。

きっと傷は深いに違いない。

女性なのに顔に醜い傷痕が残ったりしないだろうか…。


もしそんなことになったらどうしよう…。

僕が若葉さんから逃げて話し合いをしなかったせいだ…。


ギュッとハンカチを握りながら、自分の愚かさを悔やんでいると、診察室の扉が開き、後ろ向きになったあまつかさんが、部屋の中に向かって「ありがとうございました」と頭を下げながら、お尻から出てきた。


「なんだ、待っててくれたんだ。先に帰ってくれてもよかったのに。」


微笑みながらこちらに向かって歩いてきたあまつかさんの顔は、さっきまで滴っていた血も綺麗に拭き取られてさっぱりしている。

ただ左眉の端に大きなカットバンが貼られている。

また、白いブラウスには血の跡が点々と残っている。

それが目に入ると、僕の胸は罪悪感でさらに強く締め付けられた。


「そんな…帰れませんよ。あの…助けに来てくれてありがとうございました。」


「なんなん?しおらしくして。そうそう、ほら君のストーカーをしてた聡美さんだっけ、彼女が私に連絡してくれたんだよ。君が屈強な二人組に連れ去られたって。今度、彼女にもお礼言っときなよ。」


「はい…。あの、傷…僕のせいですみませんでした…。」


立ち上がって深く頭を下げると、あまつかさんは額に貼られたカットバンを指さし、もう片方の手を気にしていないという風に振りながらケラケラと笑い出した。


「大丈夫だって。血はたくさん出たけど2針縫ったくらいだし、眉毛の端だからもし傷痕が残ってもメイクでうまく隠せるみたい。」


「…すみません。そもそも僕のせいで変なことに巻き込んで…。」


「いいって、いいって。自分の家畜を守るのは悪魔として当然の義務だぜ!!」


彼女はサムズアップしながら、歯を見せてニッコリと笑った。

僕が気にしないようにわざと明るく振る舞ってくれてるのかな?


でも、僕の罪悪感は拭えない。


「正直に言います。あまつかさんには関係者達とちゃんと誠意をもって話し合うように言われていたのに…まったく話し合いをしようとしてませんでした。それどころか連絡を無視してたらそのうち自然消滅するだろうって甘く見てて…そしたら、さっきみたいなことになって…。すべて僕の考えが甘かったせいです。」


僕がしょんぼりと頭を下げると、あまつかさんは「あ~あ」と言いながら、眉を寄せてニヤリと笑い、したり顔になった。


「ほ~ら~!!私が言ったとおりでしょ。人の気持ちを甘く見ちゃダメだって。君は性欲のはけ口くらいにしか思ってなかったのかもしれないけど、さっきの彼女はちゃんと君のことを好きだったよ。それなのに急に君と連絡取れなくなったりしたら、気持ちの持って行きどころがなくなっちゃうじゃん。あんなふうに爆発しちゃうのも無理ないって。」


「はい…すみません。あまつかさんの言うことをちゃんと聞かなかった罰が当たったんだと思います。」


「ハハッ…。私、悪魔だよ。悪魔の言うことをちゃんと聞かなくて罰が当たるなんて言う人、初めて見たよ。ハハハッ!!」


僕のセリフがツボに入ったのか、彼女はお腹に手を当てて大笑いし出した。


でも、僕はとても笑う気にはなれない。真剣な表情で彼女を見つめた。


「あまつかさんにお願いがあります。」


「ハハッ…うん…?なに?」


彼女は表情を引き締めようとしたようだけど、難しかったようで少しにやけた表情で僕を見つめる。


「これから他の関係者とも向き合って誠実に話して、きちんと納得してもらって関係を清算していきたいと思っています。でもどう進めたらわからなくて…相談に乗ってもらえませんか?」


「えっ?ええっ?私が・・・?」


あまつかさんは自分の顔を指さしながら明らかに戸惑っている。


「はい。実は恥ずかしながら、これまでちゃんと女性と別れ話をしたことがないんです。」


「嘘でしょ?ほら、高校の時に担任の先生と付き合ってたとか言ってたじゃん。そういう付き合ったとか別れたとかって経験は君の方が豊富じゃないの?」


「いえ…高校の時の先生は、3年生の時に僕との関係が学校にバレて、クビになったため自然消滅しましたし、他の関係者も自然消滅ばかりで…。いえ、それ以前に、これまでもセックスするだけの関係者はたくさんいたけど、ちゃんと付き合ってた恋人はこれまでに一人しかいません!!」


「いや…そんなきっぱりとした態度でそんな鬼畜なことを言われると…、ドン引きなんだけど…。」


「すみません。でも、そんなどうしようもない僕だから、恋人とちゃんと付き合ったり、別れたりっていう話は、あまつかさんの方がきっと豊富な経験があると思うんです!!」


「ま、ま~ね~…。」


あまつかさんは、まんざらでもない表情をしながら、なぜか天井の非常灯を見つめている。


「なので、どうしたら彼女たちを傷つけずに、穏便に別れられるのか教えてください。お願いします。」


深く頭を下げ、顔だけ上げて上目遣いで様子をうかがうと、あまつかさんは少し頬を赤らめ、口元も緩んでいた。


「ま、まあ…しょうがないわね。じゃあ、かわいい家畜のために、大人の別れ方ってやつを経験豊富な私が教えてあげるわ。」


「ありがとうございます。」


僕が頭を下げたところで、静寂に包まれた待合室に受付の職員さんの声が響いた。


「あまつかさ~ん、あまつかみか…」


「は~い!!」


呼び出しの声が聞こえるや否や、それに被せるようにあまつかさんが元気よく答え、小走りに受付の方に向かった。


僕も追いかける。きっとお会計だろう。僕のせいで怪我をしてしまったんだから、せめて治療費だけでも支払わせてもらわないと。


「あまつかさんですね。マイナンバーカードお返しま~す。」


あまつかさんの背中越しに、受付の職員さんがマイナンバーカードを差し出した時、偶然、氏名欄が目に入った。


『天使 美香絵瑠』


「えっ?てんし?」


驚きのあまり小さく声を漏らすと、あまつかさんはバッと勢いよく振り返り、非難がましい視線を向けて来た。


「ちょっと!私の個人情報なんだけど!」


「あまつかさんって、天使って名前なんですか?悪魔なのに?」


「ち、ちがう…。私の名前は…デ、デビル美香よ…。」


「そんな女子プロレスラーみたいな名前なわけないじゃないですか。というか、『あまつか』ってどこに消えたんですか…?あっ、もしかして『天使』って書いて『あまつか』って読むとか?」


僕の言葉に、彼女は真っ赤になりながら無言でうなずく。


「あれっ?じゃあ、下の名前はどう読むんですか?」


「みか…。」


「えっ、でも字数が合わないですよね。ミカ…エロとか?」


「ひ、人の名前をそんな淫乱な感じに読むな!!」


「えっ?じゃあ、なんて読むんですか?」


「…ミカエル…。」


「えっ?じゃあ、天使ミカエルじゃないですか!なんで悪魔なんかやってるんですか?」


「う、うるさいな~!いいでしょっ!私の勝手じゃん!だいたい名前だって親が勝手に付けたんだし!!」


「えっ?親がいるんですか?もしかしてお父さんの名前はイエスで、お母さんはマリアとか?」


「やめてよ!人の名前でからかわないでっ!!気にしてるんだから!!!」


彼女は真っ赤になりながら両手で顔を覆ってしゃがみこんでしまった。


ふと気づくと、職員さんが『まだですか?』といったジト目でこちらを見つめて来るので、慌てて治療費を精算した。

その間、あまつかさんは手で顔を覆ったまま、ずっとカウンター下にしゃがみこんでいた。


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