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第30話 真実の愛とは

「お世話になりました~。」

僕は入口からナースステーションに向かって声を掛けた。


病院に運び込まれた時、美香さんは一時は生死の境を彷徨っていたけど、その後何とか峠を越え、10日間の療養を経て退院を許されるまでに快復した。


とはいえ、まだ体力が戻っておらず、フラフラと覚束ないので美香さんには離れたベンチに座って待ってもらっている。


「あら~、一郎くん、もう退院なのね…。」


ナースステーションの奥から婦長の静香さんがわざわざ出て来てくれた。

静香さんは30代くらいで長い髪をお団子にまとめている。一見、厳しそうな顔をしているけど、親身に相談に乗ってくれた優しい人だ。


「これ、皆さんでお召し上がりください。」


「そんな気を遣わなくていいのに…。」


僕が買って来た羊羹の箱を差し出すと、受け取ろうとした静香さんと手が触れた。


「いつでも連絡くれていいからね…。私も相談したいことあるし…。」


「はい…。」


静香さんはポケットからメモのようなものを取り出すと、素早く僕の手に握らせた。きっと連絡先が書いてあるのだろう。


その時、別の看護師さんから「静香さん、山本先生がお呼びで~す」という声がかかり、静香さんは名残惜しそうな流し目をして、「じゃっ、絶対に連絡してね」と腰のあたりで小さく手を振って戻って行った。


美香さんのところに戻ろうと振り返ると、ちょうど担当医の麻央さんがこちらに近づいて来た。


「もう退院なんだ。寂しくなるわね…。あっ、これは不謹慎かな…。」


「いえ、先生のおかげで助かりました。ありがとうございます。」


白衣を着て、少し痛んだ黒髪を後ろで一つに結んでいる麻央さんは、少し寂し気に俯いた。


「私も一郎くんが話を聞いてくれたおかげで助かったよ。おかげでもうちょっとこの仕事が続けられそうな気がする…。」


「はい。麻央さんならきっとできますよ。」


担当医の麻央さんも美香さんの病状について親身に相談に乗ってくれた。

そのうち麻央さんが医師として自信を失ってしまっていることに気づき、声を掛けると麻央さんからも相談を受けるようになった。


「また…連絡していいかな?」


「はい。いつでも…。」


僕が笑顔でうなずくと、麻央さんは少しはにかみ、それから「じゃあ、またね…」とつぶやいて、僕の肩に少し触れてから背を向けた。


「美香さん、お待たせしました。」


ベンチで待っていた美香さんのところへ戻ると、美香さんからジトっとした不審そうな視線を向けられる。


「どうしました?」


「あんた、私がベッドで苦しんでる間にいったい何してたの?なんで2連続であんな湿っぽい別れ方してんのよ?」


「ああ、ははっ…。」僕は笑ってごまかすしかない。


『僕よりも5から10歳くらい年上で、これまで何か一つのことに打ち込んで、恋愛とか二の次だったけど、ふとこのままずっと一人なのか、寂しいなって思っちゃった女性にやたら好かれる』

僕のそのニッチなモテ能力はいまだに健在だ。


なぜか知らないが、この1週間のうちに二人もそんな女性を引き寄せてしまっている。


ただ、一つだけ違うことがある。


僕が完全に色欲を失ってしまったため、まったく関係を結ぼうという気が起こらなくなったのだ。

だから二人に対しては同性から相談を受けた場合と同じように、何の下心もなく接することができた。

もちろん肉体的な関係なんか一切結んでいない。


「さあ、帰りましょうか。まだしばらく自宅で療養が必要みたいですし、帰ってゆっくり休みましょう。」


「じ~っ、じ~っ‥‥」

しつこく不審な目を向けてくる。わざわざ口で擬音を出しながら。



「それで…人間に戻ってどうですか?何か変化はありましたか?」

自宅へ向かうタクシーの中で、僕はずっと気になっていたけど聞けなかったことを勇気を出して口に出した。


「な~んも変わらんし。ああ、失業しちゃったか。それくらいかな…。」

後部座席の左側に座る美香さんは、頬杖を付きながら車窓の外をぼんやりと眺めている。


「それはすみません…。勝手に決めてしまって。」


「ああしないと死んでたわけだし、感謝してるよ…。まだ現実を受け止めきれてないけど…。」


美香さんは悪魔から人間に戻った。それは1週間前、病院のベッドでもだえ苦しむ美香さんの耳元でこう囁いたからだ。


「僕の色欲の対価として…美香さんが人間に戻ってください。今すぐ。」


聖水は悪魔を浄化する効果がある。だから聖女の涙を飲んで体の中に聖水を取り込んでしまった美香さんは体の中から浄化されて生死の境を彷徨っている。


だけど、聖水は人間にとっては無害。むしろ奇跡をもたらす効果がある。

だったら、美香さんが人間に戻れば体内の聖水による浄化が止まり、むしろ聖水の効果で回復できるのではないか。


もちろん不安はあった。そもそも美香さんが叶えられる望みなのか?叶えられるとして僕の色欲で対価として十分なのか?


でも、このままでは美香さんは死んでしまう。本城さんが言う通りお金とかを請求して債務不履行解除する方法もあった。だけど、僕は賭けてみることにした。論理的には、美香さんが死ななくて済み、かつ煉獄行きにならなくて済む方法を。


そして賭けは成功した。


僕が望みを伝えた直後、美香さんは聖水による浄化が止まったのか、苦しむのを止め、穏やかな表情になった。それを見た本城さんは悔しそうな顔をしながら姿を消した。


体力をかなり消耗していたので、その後しばらく入院することになったけど、僕の手元に残っていた聖女の涙を飲ませ、またそれを脱脂綿に浸して顔を拭いてあげると、みるみる体力が回復し、また火傷のように爛れていた肌も少しずつ元に戻って、今ではほとんど目立たない。


「そういえば、悪魔じゃなくなったから、もう恋愛も結婚もご法度じゃないんですよね。」


「ああ、そうね…。職も失っちゃったし、婚活でもしようかな…。」

美香さんは相変わらず車窓の外を眺めたままぼんやりしている。


「そういえば社宅は手配できた?君はいつ引っ越す予定なの?」


「すみません。色々あったのでもう少し一緒に住ませてもらえると…。」


「まあ、入院中の私のお世話とかあったし、仕方ないか。引っ越しの日程が決まったら教えてね。」


さっきから美香さんの表情はまったく動かない。無表情でずっと外を見たままだ。これから先のことをどう考えているんだろう?まったくわからない。


ここは僕から一歩踏み出すべきだろうか。


「やっぱり引っ越さなきゃいけませんか?」


「当たり前でしょ!あんな狭い部屋に男女二人で暮らすなんて…。間違いがあったらまずいでしょ。」


「大丈夫です。僕、色欲が完全に無くなったんですよ。もう悶々としたりすることもありません。」


「そんなこと言って、ちゃっかり女医さんと婦長さんに手を出してたみたいだけど…。」

美香さんは呆れたような口調で、ふうっとため息をついた。


「違いますよ。色々相談に乗ってもらいましたけど、これまでみたいに性衝動が突き上げて流されてみたいなことはなくて…。まるで同性に接するみたいに凪いだ気持ちです」


「ふ~ん…。」

美香さんはつまらなそうにつぶやき、また窓の外に目を移した。


「そういえば、前に言ってましたよね。色欲が無くなっても愛しているって思えることが真実の愛で、そう思える相手には滅多に巡り合えないって…。」


「ああ言ったね。君も紅羽さん相手だったら、色欲なくても大丈夫なんじゃない?」


「いえ…今となれば紅羽さんのことは愛しているというよりも、尊敬して敬愛しているだけなんだってことがわかりました。本当に愛せる人が見つかったから…。」


「なにそれ?相変わらず手が早いね。色欲無くなっても変わらないんじゃん。どこでそんな人を見つけたの?」

美香さんはフンッと鼻を鳴らし、僕から顔を背けた。


僕はその不機嫌そうな姿に少しひるんだ。だけど負けちゃいけない。日和っちゃいけない。グッと拳を握って気合を入れた。


「その人は僕のすぐ隣にいます。色欲を失った僕が、それでも愛せる人は美香さんのことです…。」


向こうを見ていた美香さんの肩がビクッと震えたけど、何も言わなかった。だから僕はそのまま言葉を継いだ。


「1か月前に突然現れて悪魔だなんて怖いこと言ったかと思えば、抜けてる姿もかわいらしくて。それにいつも僕のことを親身に助けてくれて。それで気づけば美香さんのことばかり考えていました。色欲がなくなってからもずっと…。この美香さんへの想いが真実の愛なんだと思います。だから、これからもずっと一緒にいてもらえませんか?」


僕がありったけの想いを伝えた後も、美香さんは何も言わなかった。微動だにしないまま車窓の外を眺めている。

そのまま5秒、10秒、15秒と待ったけど何も言ってくれない。もしかして聞こえなかった?不安になり始め、もう一度言い直そうと口を開いた時だった。


「気に入らない…。」


「えっ?」


「気に入らないって言ったの。君はどうせ、年上で寂しい思いしてる女は、みんな君のことを好きになるって思ってるんでしょ。君が私のことを好きだって言ったら、尻尾振って喜ぶなんて思ってるでしょ。」

美香さんは相変わらずこちらを向いてくれない。口調もとげとげしい。


「あいにくだったね。こっちは君のせいで散々ひどい目に合わされたんだよ。鋏で殴られて縫うような傷を作ったり、久しぶりに会った友達の家でゲロ吐いてさんざん罵倒されたり、聖女に聖水飲まされて死にそうになったり…。ついにはせっかく就いた仕事も失っちゃって…。こっちは君と会ってから散々だよ!」


「ごめんなさい…。」


美香さんの言う通りかもしれない。僕は美香さんに幸せをもらったけど、美香さんは僕のせいで不幸になったのかもしれない。

悪魔になってしまったとはいえ定職に付いて、それなりに楽しくやっていたのにその生活を奪ってしまって。


僕はしょぼんと肩を落とすしかできない。


「でもまあ…。本城課長から有利な契約を提案された時も、私を選んでくれたことは嬉しかった…。」

顔をあげると、変わらず彼女は頬杖をついて外を見ていてその表情は見えない。


「それから仕事の愚痴を聞いてくれた時も、千尋ちゃんじゃなくて私に付いて来てくれたことも、夜に悲しくて泣いている時に抱きしめてくれたことも…それに私の命を救ってくれたことも…本当に嬉しかった。」


その瞬間、タクシーが長いトンネルに入った。背中を向けたままの美香さんの顔がガラスに映った。その頬は緩み、目じりは下がり間違いなくニヤケていた。


僕は思わず美香さんににじり寄り、その手を握った。


「美香さん…。結婚しましょう!」


「ちょっと、それは早すぎるって!まだ出会って1か月でしょうが!!」

美香さんは僕の手を払いのけ、突き飛ばした。


「でも、色欲無しで愛せる相手はめったに見つからないって言ってたじゃないですか。それにさっき婚活しようとか言ってましたし。だから逃がしちゃいけないと思って…。」


「結婚となれば別じゃ!しっかり相手のことを知ってから考えるべき話!段階を飛ばし過ぎじゃろ!」


「じゃあ、まずは一緒に暮らしましょう。とりあえず広いマンションに引っ越して、そこで二人の新生活を…。」


「それも飛ばし過ぎじゃ!!」

美香さんは、また僕にプイっと背を向けてしまった。


「そんな…。じゃあ、どうしたら?」

僕が情けない声を出すと、美香さんはチラッと僕の方を見た。少し頬が紅潮しているように見える。


「まずは…普通に恋人として付き合ってみるってのでいいんじゃない?君も私も、ほとんどそんな経験ないんだし…。」


また背を向けてしまった彼女に対し、僕は黙って深くうなずいた。

それも悪くない。彼女とだったら純愛も楽しめそうだし…。


僕がうなずくだけで何も言わなかったからか、彼女は心配そうに、また僕をチラリと見た。その不安そうな表情もなんとも表現できないくらい愛おしかった。


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