第29話 究極の選択
代々木公園での聡美さんの話し合い途中、突然苦しみだした美香さんは救急車で病院に運び込まれた。
そこで30歳過ぎの女医の先生から言われた言葉は意外なものだった。
「原因はわからないです。」
「えっ?そんなバカな。このペットボトルの水を飲んだ後にあんなに激しく苦しんでるんですよ。きっと毒を盛られたはずです!」
僕はベッドに寝かされ、呻き声をあげながらもだえ苦しんでいる美香さんを一瞬見つめた後、女医の先生に『聖女の涙』を突き付けた。
しかし、先生は目を閉じて首を振った。
「その水も検査しました。しかし、何の毒も細菌も検出されませんでした。アレルギーも疑ってみましたが、抗ヒスタミン剤がまったく効きません。」
「そんな、じゃあなんであんなに苦しんでるんですか?」
「わかりません。今は原因不明としか言えません。引き続き原因を探って見ますが、何か特殊な持病とか、体質とか聞いていることはありませんか?」
「特殊な持病とか体質…。」
僕が考え込むと、先生は看護師さんから呼ばれ、そのまま病室を出て行った。
その後も僕は考え続けた。僕も『聖女の涙』を飲んだ。
だけど体は何ともない。
美香さんが口に入れたペットボトルにだけ毒を入れられたのかと思ったけど、僕が飲んだペットボトルの中身を浴びせられた美香さんの肌も火傷みたいに爛れている。
それに聡美さんが残したあの捨て台詞、「地獄に堕ちろ、悪魔め」だったか。
聡美さんは美香さんが悪魔だと気づいて攻撃していた。
でも、どうやって…。
その時、僕ははっと思い付いてカバンの底を漁った。
「よかった。まだあった…。」
僕は見つけ出した名刺の連絡先にすぐに電話した。
◇
「すみません。お休みの日にご連絡をして。」
僕が連絡した相手は美香さんの上司の悪魔である本城さん。病院に現れた彼は、土曜日にも関わらずダンディなスーツに身を固め、トレードマークの顎髭も綺麗に整えられていた。
「いえいえ、山口様にご連絡をいただけて大変ありがたいです。本日はどうされました?こんなところで?」
「実は美香さんが大変なことになって…。ちょっとこちらに来てください。」
本城さんを病室に案内すると、苦しむ美香さんの姿を見て本城さんは「むぅ…」とうなった。
「この水を飲んでから急に苦しみだしたんです。でも医師の先生は普通の水だって言ってて…。もしかして美香さんが悪魔であることが原因じゃないかと思って本城さんに来ていただいたんです。ちょっと見てください。」
僕が興奮しながら『聖女の涙』を差し出すと、本城さんは受け取らず、顔をしかめてハンカチを口に当て、後ずさった。
「それを引っ込めていただけますか。それは聖女が聖なる力をこめた聖水…。人間にとっては奇跡を起こす神の水ですが、悪魔にとっては死に至る猛毒…。」
僕は驚き、手に持った聖女の涙を見つめる。
「最近、聖女に会いませんでしたか?おそらく、聖水を飲んだあまつかくんは聖水にこめられた聖なる力で体の中から浄化されているのでしょう。あの苦しみようだと、おそらくあと1日と持たないでしょうね。」
本城さんは、顎髭を撫でながら、まるで明日の天気を話すかのような何でもない口調でつぶやいた。
「そ、そんな!何とかできませんか?」
「悪魔である以上、聖水による浄化の効果は避けられません。しかもまさか聖水を飲んで体に取り込むとはなんとうかつな…。すぐに魔界の病院に運べば、もしかしたら何とか一命をとりとめられるかもしれませんが…。」
「じゃあ、お願いします!すぐに魔界の病院に運んでください!!」
肩を掴み必死にお願いする僕に、本城さんは冷めきった視線を向けた。
「どうして私が?」
本城さんの冷酷な口調に、僕は一瞬で興奮が収まり背筋に冷たいものが走った。
「えっと…、美香さんは本城さんの部下です…よね?」
「確かにそうですが…。でも、それは私があまつかくんのために、わざわざ骨を折ってあげる理由にはなりませんよ。」
本城さんは肩をすくめながら、唇の端を歪めた。
「じゃあ、僕からお願いします。美香さんを魔界の病院に運んであげてください!!」
「なぜあなたのお願いを聞かなければいけないんですか?」
本城さんの声がさらに低く、かつ冷たくなった。しかし顔には余裕な笑みを浮かべたまま。
そのコントラストが本城さんの凄みを際立たせている。
「あなたは、私の契約相手ではないですよね。契約相手ではない人間のお願いを聞く悪魔なんていませんよ。」
「じゃ、じゃあ麻梨香さんにお願いして…。」
「残念でしたね。麻梨香さんはあなたに捨てられた傷心を癒すためにアラスカのユーコン川に旅行に行かれていますから…しばらく連絡は取れないでしょうね…。」
「そんな、じゃあどうしたら美香さんを助けてもらえますか…?」
僕は確信した。目の前にいるのは間違いなく悪魔だ。だけど、僕にはもうその悪魔に頭を垂れて縋りつくしかない。
そんな僕の姿を見ながら、本城さんは、満足そうに髭を撫でまわし、わずかな時間、思案するような表情をして、それからニヤリと笑いかけてきた。
「そうですね…。あなたが私の契約相手になれば、あまつかくんを助けることはできますよ。」
「えっ?それはどういうことですか?」
「前にお話ししたでしょう?あまつかくんとの契約を債務不履行解除して、私にあなたの色欲を売ってください。前は4分の1とお伝えしましたが、あまつかくんを助けるためには、それでは足りないですね。色欲をすべてお譲りください。そうすれば、あまつかくんを魔界の病院に運んで、治療を受けさせることを約束しますよ。」
「そ、そんなことしたら、美香さんは会社をクビになって、煉獄行きになるって話じゃなかったですか?」
「まあ、そうでしょうね。だけど、今のままだったら、あまつかくんは今夜にも死んでしまう。それに比べれば煉獄行きなんて天国みたいなもんでしょう?ああ、悪魔が死ねば地獄行きだから、まさに天国と地獄ですね。クックック…。」
本城さんは、自分の言葉に声をあげて笑い始めた。
ベッドでは相変わらず美香さんが苦しみに喘いでいる。
もし美香さんの命が助かっても、煉獄行きになることになるなんて耐えられない…。
「そうだ!美香さんとの契約を合意解除します。それで、本城さんと契約します。そうすれば債務不履行にはならないし、煉獄行きは避けられるんじゃないですか?」
僕の言葉に、本城さんは笑うのを止めて不機嫌そうな表情になった。
「そんな小知恵を誰が…。でも残念でしたね。合意解除をするためには上司の決裁が必要なんです。つまり私の決裁ですね。」
「じゃあ、承認してくれますよね。ほら、美香さんも煉獄に行かなくて済みますし、本城さんも僕の色欲をすべて手に入れられるわけですし、いい話じゃないですか?」
「ククッ…確かにいい話ですね…。」
「じゃあっ!」
「だが断る!」
本城さんはニヒルに笑いながら僕に向かって手のひらを突き付けて来た。
「どうして?」
「どうして…?どうしてでしょうね?ただ、私の気が乗らないだけです。ああ、今わかりました。私は、あまつかくんのことが大嫌いなんですよ。」
顎鬚を撫でながら平然と言い放たれたセリフに耳を疑った。
「えっ?あまつかさんは部下ですよね?しかも死にかかってるんですよ。そんなつまらない好き嫌いで?ふざけるなっ!!」
僕は本城さんに駆け寄り、胸倉をつかもうとした。
しかし、次の瞬間、僕の視界の天地が逆転し、気づいたら床に這いつくばっていた。
「いきなり暴力なんて乱暴な方ですね。教えておいてあげましょう。私はあまつかくんが大嫌いなんです。部下だからなんて関係ない!30歳過ぎてから、無計画にも悪魔に転職して来て、しかも、ただ闇雲にに大欲を買い取るんじゃなくて、契約相手の人間のことも考えて、みんなが幸せに契約を結びたいなんて大口叩いて。必死に駆けずり回って手練手管を使って、セコセコと何とか大欲を集めて来ている私たちみたいな低級悪魔を、あまつかくんが心の中で軽蔑していたのは気づいていましたよ。だから、あまつかくんが契約を全然取れなくて、ざまあ見ろと思ってたのは私だけじゃないはずです。だけど、突然、色欲なんてギガント級の契約を取って来て、ドヤ顔で部長に報告して褒められて…。そんな姿を見せつけられたら殺したいくらい憎らしく思うには十分です。」
僕は床の上で身を起こし、本城さんを睨みつけた。本城さんも冷たい視線で睨み返してくる。
「さあ、選択の時だ!選べ無力な人間よ!このまま、あまつかを死に至らしめるか、あまつかに、とても叶えられない望みを突き付け、煉獄送りにしてから、私にその色欲をすべて譲るか!もう時間はないぞっ!!」
僕は本城さんを睨みながら、よろよろと立ち上がり美香さんの枕元に近づくと、耳に口を近づけた。
「そうか!あまつかに望みを伝えるのだな?いいぞ!だけど気を付けろよ。色欲と同じくらいの価値の望みを伝えなければ意味はない。そうしなければ望みは無効だ。お金であれば200億円くらい要求すれば十分だろう。さあ、言ってみろ!お前の望みを!そしてあまつかを煉獄送りにしてやれ!!ハッハッハ~!」
勝ち誇った顔の本城さんを一睨みすると、僕は目を閉じた。
大きな賭けになる。だけど、美香さんを救うにはこれしかない。
僕は決意を固めてカッと目を開いた。
「美香さん…。色欲の対価となる僕の望みを伝えます。」
美香さんは苦しみながらも僕の方に顔を向け、それからこくりとうなずいた。




