第28話 聖女の涙
ちょうど正午、待ち合わせ場所である代々木公園のオリーブ広場に着くと、端の方のウッドテーブルの脇に聡美さんがちょこんと座っている姿が見えた。
今日もいつもの安定した地味な装い。白いシャツに灰色のカーディガンを羽織り、黒いロングスカートを履いている。
「聡美ちゃ~ん、お待たせ~!」
美香さんは、元気よく手を振りながら聡美さんに駆け寄る。美香さんを見つけた聡美さんは控えめに微笑みながら、肩のあたりで小さく手を振る。
「場所すぐに分かった?」
「はい…。」聡美さんは消え入りそうな声で答えると、僕の方に目を向け小さく会釈をした。
「いや~、今日はちょっと暑いよね。11月とは思えないよ~。」美香さんは手で顔を扇いでいる。
確かに今日は日差しが強く少し暑いくらい。
「あの、もしよかったらこれ…。」
聡美さんは鞄からピンク色のペットボトルを二本取り出して僕たちの前に置いた。
「あ~っ!!これ、聖女の涙じゃないですか!!」
「聖女の涙?」
驚きの声を上げた僕を、美香さんがキョトンとした顔で見つめる。
「千尋さんの会社で売っているミネラルウォーターなんですけど、飲むと肌がきれいになるとか体調がよくなるとかネットで評判で、飛ぶように売れてるんです。たしか、聡美さんが企画した独自の製法で作ってるんですよね。限定生産だから千尋さんにお願いしても手に入らないみたいで…。一度飲んでみたかったんです。ありがとうございます!」
頭を下げる僕に、聡美さんは小さく手を振りながら照れたようにはにかんだ。
さっそく一口飲んでみると、信じられないくらいの爽快感が身を包んだ。
「うっそ!すごくおいしい!本当にこれ、水ですか?エナドリじゃなくて?美香さんも飲んでみてくださいよ!」
「ああ、うん。あとでね…。」
そういえばここに来る途中、美香さんは時間調整のために入ったカフェで、二日酔いで頭が痛いと言いながら水とアイスコーヒーをがぶ飲みしていた。
「それでね。今日は一郎から聡美ちゃんにお話があるの。」美香さんが真顔になり、僕の方に目配せをした。
いよいよ本題だ。僕は椅子に座り直し、聡美さんを真っすぐに見つめた。
「あの、昔、5年前…最初に会った頃、僕が色欲に悩まされているって話をしたことありましたよね。」
聡美さんは控えめにうなずいた。その瞳が小刻みに揺れている。何を言われるか不安なのだろうか。
「聡美さんは、僕が色欲で悩んでることについて相談したら親身に聞いてくれて…しかも聡美さんも身を捧げてくれて…。あの時は本当に聡美さんの優しさには救われました。」
聡美さんは無言のまま、また小さくうなずいた。
「だけど、僕は愚かで、聡美さんだけじゃなくて色んな人と関係を持っていました…。聡美さんも知っていたと思いますけど何人も、何十人もいました。そんな色欲に振り回されて無責任に生きていた自分が本当に嫌になる。」
聡美さんは黙ったまま、今度は首を左右に振った。
「だけど、この美香さんに出会って…契約して、この忌まわしい色欲を引き取ってもらえて、やっとこれまでの自分がどれだけ異常だったのか気づくことができました。これまでみたいにたくさんの人と不誠実な関係を持つことを止めて、ようやくちゃんとした真面目な人間として生き直したいと思えるようになりました。だから、今は、これまで関係があった人全員に謝って回っています。謝っても許せないと思うかもしれません。僕の自己満足かもしれません。それでも聡美さんにも謝りたいです。僕の色欲で振り回してごめんなさい。無責任に関係を持ってごめんなさい。傷つけてごめんなさい。心から謝ります。」
僕は手を膝について、深く深く頭を下げた。
謝っても謝り切れない。合わせる顔がない。
そんな気持ちからなかなか頭を上げられない。
「いいのよ。私は幸せだった。」
意外な言葉に顔を上げると、そこには柔らかく微笑む聡美さんの顔があった。
「私だけじゃない。他の人もきっとそうだったと思うよ。若葉さんは一郎くんがいたおかげで安らぎを得て燃え盛る怒りの感情を抑えることができた。麻梨香さんは一郎くんに生きる希望を見出して怠惰に溺れなかった。綾乃さんは人知れず鬼子母神のように他の人を食い物にして子供を育てる罪悪感に苦しんでいたけど、一郎くんが綾乃さんの心を救ってあげた。千尋さんは一郎くんのおかげで歪んだコンプレックスを乗り越えられた。紅羽さんは一郎くんのおかげで人を思う大切さに気付き、傲慢に飲み込まれずに済んだ…。」
聡美さんの表情は相変わらず柔らかく、口調も穏やかなままだった。まるですべてを許す尊い慈母のように見えた。
「私もそう…。一郎くんのおかげで生きる喜びを知ることができた。子どもの頃からずっと聖女として厳しく修行させられて、主のお考えを広めるための活動に身を捧げて普通の生活が許されなかった。神の考えを説きながら、本当はみんながうらやましかった。こんな思いを持つことは神の教えに背くってわかっていたのに、普通に恋人を作って愛し合える人に嫉妬してた。でも、あの雪の日に一郎くんと知り合うことができて、関係できて、生きる悦びを知ることができました。ただ一筋の光を見ることができました。だから、一郎くんには感謝してます。これまでありがとう。」
僕は思わず聡美さんの手を握ったが、聡美さんは手を引いてやんわりと離した。
「これ以上は未練になっちゃうと思うよ。」
「うん…。」
しばらく聡美さんと見つめ合い、少し照れ臭くなって目を逸らすと、横に座っていた美香さんが滂沱の涙を流している姿が目に入った。
「えっ?どうしたの?」
「うん…。聡美ちゃんも話したらわかってくれて…。これで一郎も関係者とみんな話し合って納得してもらえて、なんか感無量で…。」
美香さんは服の袖口で涙を拭くと、手元のペットボトルに口を付けて、グイッと持ち上げた。ごくごくと一気に半分くらい飲み干している。
そうだ。美香さんの言う通りだ。1か月続いた関係者との話し合いもこれで終わり。
少し寂しいけど僕も感無量だ。
これで晴れて新しい人生をスタートできる。
僕の胸にもこみあげて来るものがあり、少しホロリと涙がこぼれそうになった。
しかし、そう思った瞬間、なぜか僕たちを包んでいた柔らかい空気が、サッと変わるのを感じた。
急に張り詰めた空気。それは僕の目の前、聡美さんから発せられている。
「お前は許さない…。」
一瞬、空耳かと思った。
でも間違いない。その言葉は間違いなく聡美さんの口から出たものだ。
しかも先ほどまでの慈母のような微笑から一変し、鬼のような形相で睨んでいる。
僕ではなく美香さんの方を…。
「私たちはみんな一郎くんに救われてきた。一郎くんはみんなの苦しみの源なんかじゃない。みんな一郎くんの情けを受けたからこそ欲に飲み込まれずに生きて来られたんだ。一郎くんこそは神の使者。一郎くんと関係できることは私たちにとって福音だった。だけど…お前が現れたせいで、お前が一郎くんの福音を独り占めしたせいで、私たちは全員地獄に堕とされた…。」
聡美さんが立ちあがり、僕の手元にあったペットボトルをさっと掴むと、美香さんの頭の上でひっくり返し、その中身をバシャッとかけた。
「地獄に落ちろ!!悪魔めっっ!!」
憎しみに顔を歪めた聡美さんは、口元にニヒルな笑みを浮かべると、そのまま踵を返して駆け去って行った。
その背中が、あっという間に小さくなる。僕は現実のこととは思えず、それを呆然と見送るしかできなかった。
「うぐぐっっ…。」
隣から聞こえるうめき声に、ハッと我に返った。
美香さんが喉を掻き毟るようにして苦しんでいる。
さっき聡美さんに聖女の涙をかけられた顔も火傷みたいにまだらに赤く腫れ上がっている。
「えっ?ど、毒…?」
美香さんはそのまま泡を吹きながら芝生の上に倒れ込んだ。それでも苦しみながら身をもだえている。
「きゅ、救急車を呼んでください!すぐに救急車を!!」
大声で叫ぶと、周りに人が集まって来た。やがて遠くの方から救急車のサイレンが聞こえてきた。
僕は美香さんの肩を抱いて励まそうとしたけど、美香さんはずっと喉を掻き毟り、泡を吹きながら芝生の上をのたうち回っていた。




