第27話 ラストスパート
朝、ホテルの部屋で目を覚ました美香さんは、しばらくベッドの上でキョロキョロと周囲を見渡し、僕を見つけるとガックリとうなだれた。
「やってしまった…。」
「別にやってませんよ。ただ泊まっただけです。美香さんが泥酔して家まで帰るのが難しかったので…。」
「実際にやったとかじゃなくて、男女がホテルに泊まったことが問題なの!ホテルに泊まったけど何もしなかったって、誰が信じてくれるのよ!!しかもダブルベッドで一緒に寝るって…。」
「この部屋しか空いてなかったらしくて…。すみません。」
ちょうどポットでお湯を沸かしていたところなので、美香さんに煎茶を入れる。マグカップを渡すと美香さんは素直に受け取って口を付けた。
「でも、よく考えたら一緒に暮らしてるわけですし、今さら一緒にホテルに泊まってダブルベッドで寝たってどうってことありませんよ。」
その言葉に彼女は僕をキッと睨みつける。
「全然違うし!あ~あ、なし崩しにどんどん浸食されていく…。それに、昨日の話だけど、社宅があるんだったら早く言いなさいよ!それだったらずっとうちにいる必要なかったのに…。」
「ああ、すみません。なんか忙しくて忘れてました~。」
しれっと言いながら僕はもう一杯お茶を淹れるため美香さんに背を向けた。背中越しに美香さんの「まったくもう…」というつぶやきが聞こえる。
「今日は土曜日で会社も休みですし、社宅は来週以降手配するとして、今日はどうしましょう?このままどこかへ出かけますか?代々木公園とか散歩します?それで原宿でブランチとか?」
「なにのんきなこと言っとんよ!こうなったらやることは一つでしょ!」
「やること…とは?」
僕は思わずごくりと固唾を飲みこむ。ダブルベッドも目に入る。それはもしや…。
「残りあと一人の関係者との話し合いを終えることよ!」
「え~っ、それ、この週末じゃなきゃダメですか?昨日紅羽さんと悲しい別れをしたばかりですし、もっとゆっくりと進めましょうよ。」
僕がガックリと不満そうな声を出すと、美香さんはまた厳しい視線を向けてきた。
「関係者との話し合いを終えて、それで君が社宅を手配して引っ越せば、私も元の生活に戻れる。この1か月間、一郎に振り回されっぱなしだったけど、ようやくゴールが見えて来たのよ。一気に巻いて行くわよ!」
僕の不満の声は聞き入れないてもらえない。いや、これは当たり前のことだ。
もともと美香さんには、僕が関係者との関係を清算することに協力する義務はない。ただ、なし崩し的に巻き込んでしまっただけだ。
だから、関係者との話がすべて終わってしまったら、もう美香さんとこんなに親しく接することができなくなるだろう。
たしか悪魔と人間との恋愛はご法度だと言っていた。
美香さんは悪魔のわりにやけに真面目だし、きっと馬鹿正直にそれを守ろうとするに違いない。
毎日色欲を吸い取ってもらえるとはいえ、それだけの関係になってしまうのか…。
「最後は聡美さんよね。きっとこの辺りにいるはずだから、近くに呼び出せばすぐに来てくれるわよね。話の分かりそうな人だし、一郎のこれまでの経緯も知ってるだろうから、ちゃんと話せば今日中には解決できそうね。よしっ、じゃあ私からLINEして呼び出すわね。」
僕が内心で寂しさを感じていることに気づかないのか、美香さんの中では勝手に今日ですべての関係者との話し合いを終える方向で進んでいるようだ。
美香さんはカバンからスマホを取り出して、ベッドの端で足をブラブラさせながらメッセを打ち込み始めた。
「待ってください。聡美さんは確かに、僕に関係者がたくさんいることや、最近、関係者と話し合って関係を清算していることは知っていると思います。そろそろ自分の番だと気づいていると思います。だけど、彼女との関係も長いわけですし、そんな雑に話し合いを終えるわけにはいきません。もうちょっと、どう伝えるか考えてからにしませんか?」
「それは…そうかも…。」
僕が苦し紛れの提案が刺さったようだ。美香さんはメッセを打ち込む手を止め、スマホをベッドの上に置いた。
「そうですよ。聡美さんはかれこれ5年くらいの長い付き合いになりますから、丁寧に話したいんです。しかも出会った頃からずっとあんな感じでいつも見守ってくれていたのに…。」
目を閉じてこの5年間を思い出してみた。どの思い出の場面にも、聡美さんは視界の中央にはいない。
でも常に視界の端から見守ってくれていた…。
「えっ?それすごくない?ストーカー歴5年ってことでしょ?いつも一郎の後をずっと追いかけてるけど、仕事とか生活は大丈夫なの?」
「仕事は…千尋さんのマルチの会社の幹部だから不労所得があって大丈夫みたいです。生活は…よくわからないです。5年前に突然、僕のマンションに宗教の勧誘で訪ねて来てそれ以来の付き合いですけど、私生活はまったく謎です。」
「えっ?じゃあ、宗教の勧誘に家に来た聡美さんを一郎が手籠めにしたってこと?それはさすがに鬼畜じゃない?」
美香さんがジト目で睨んできたので、僕は慌てて手を振って否定した。
「手籠めになんてしてないですよ。あれは大雪ですごく寒い日だったんですけど、雪がちらつく中で手袋もせず、コートも着ないで寒そうに路上に立って聖書について説いていた聡美さんを見つけて、思わず声を掛けて部屋に入れたんです。」
「ぱっと見、君が優しい紳士みたいなストーリーだけど、下心を持って連れ込んだんでしょ?」
「違いますよ。寒そうな中、真っ赤な顔して立っているのがかわいそうで同情しただけです…。それで部屋に上げて、温かいお茶を出して、聖書の話を聞かせてもらって、そこでたまたま出て来た旧約聖書の話に関連して、僕が色欲に苦しんでるって相談したら、『あなたが悪いわけではありません。そんなに苦しいなら、私がこの身を捧げます』って言ってくれて、それで…。」
「ウソつけ~!そんな廉価版のAVみたいな都合のいいストーリー展開あるわけないじゃろ~!!」
美香さんが突然興奮して絶叫し始めた。寝不足と二日酔いで情緒不安定なのだろうか。
「そんなこと言われても本当なんです。それから聡美さんはずっと僕のことを見守ってくれるようになって、僕が色欲に苦しんでいる時は決まって身を捧げてくれて…。関係者が増えてからはめっきり回数も減ったんですけど、それでもたまに…。」
「それってひどくない?そんな都合のいい女扱いして!どうせ『今日は誰もつかまんね~し、聡美で我慢しとくか』って雑な扱いしてたんじゃろ?そんなの聡美ちゃんがかわいそうだよ~!!」
美香さんは、冷たい僕に利用される都合のいい女聡美さんという勝手なストーリーを展開し、しかもその自家発電で増幅したのか、さらに興奮してベッドにある枕を両腕でバシバシ殴り始めた。
美香さんが手が付けられない様子になったので、僕は黙って興奮が収まるのを待つ。
やがて美香さんは枕を殴るのを止め、息を切らせ肩で息をしながらうつむき、ベッドの上で何かを始めた。僕の方からは背中が邪魔になって何をしているかよく見えない。
「美香さん、落ち着きました?」
おそるおそる声を掛けると、美香さんがギギッとぎこちなく首だけで振り向いた。
「…もうひどすぎる。これ以上、食い物にされる聡美ちゃんを見てられない!!絶対に今日話をつけよう。さっき呼び出したから。12時に代々木公園で待ち合わせ。そこで話つけるから!!」
美香さんに見せられたスマホの画面には、『12時に代々木公園のオリーブ広場に来られる?』というメッセージが表示された。
僕が画面を凝視していると、『わかりました』と聡美さんから返信が表示された。
こうなると今日話すしかないのか…。




