第26話 本気の恋が実らぬ理由
僕が紅羽さんとの思い出を回想していると、紅羽さんが自嘲気味に笑いながら首を振った。
「話が逸れちゃったわね。思い出話をしたいわけじゃないの。君がこの悪魔さんとの契約を解消して、色欲を、全部じゃなくて過剰な部分だけ引き取ってもらえる方法があるってことに本当に気づいてないのか聞きたかったの。」
「ああ…、その方法なら美香さんの上司の方にも聞きました。その上司の方から、僕が即時に望みを叶えるよう美香さんに要求したら、どうせ美香さんは望みを叶えられないから、債務不履行で契約を解除して、それから新しく色欲の4分の1とか5分の1だけを渡す契約を結んだらどうかって方法を提案されたんですけど、そうなると債務不履行になるような契約を締結した美香さんは会社をクビになって、しかも煉獄行きの刑罰を受けることになるらしいです。とても、そんなことできませんよ。」
僕が軽く笑いながら、横に座る美香さんを見ると、不安そうな顔をしながらも、力強くうなずいた。僕を信じていると伝えるかのように。
「君は、その悪魔さんと取引をしただけなのよね?なんでその悪魔さんに気を遣う必要があるの?」
「それは…。逆上した関係者から襲われた時に助けてもらった恩もありますし…。あと、僕が住んでいたマンションのオーナーが関係者で、関係を解消したらそこから追い出されてしまったので、今は美香さんのアパートに住ませてもらっているんです。美香さんが会社をクビになって煉獄に行くことになると、僕も住むところがなくなって困っちゃうんですよ~。」
頑張って僕の気持ちを説明しようとしたけど、なかなかうまく説明できない。僕が契約を解消できないのはこんな理由じゃないはずなのは自分でもわかっている。
紅羽さんはそんな苦しい説明をする僕の姿を見ながら首を傾げている。
「家を追い出されちゃってその人の家でお世話になってるの?何でそれを早く言わないのよ。それならすぐに社宅を手配したのに…。」
「ああ…、はい。そうですね…。」
僕はうなずきながらも言葉を濁すしかない。
実は僕も社宅が使えることはわかっていた。
それなのに、あえて美香さんの家に住まわせてもらえるなんてとても言えない。
怖くて美香さんの方を見られないけど、横から「聞いてないんですけど~」という小さなつぶやきとともに物凄い圧を感じる。
「社宅のことは後で話すとして…本当にわからないの?その悪魔の、美香絵瑠さんにも迷惑を掛けずに契約を解消して、過剰な色欲だけ引き取ってもらう方法があるって。そもそも今の契約を続けても、美香絵瑠さんに対価を支払える見込みがないなら問題の先延ばしにしかならないんじゃないの?」
紅羽さんの鋭い眼光が僕を射抜く。
もはやごまかすことはできない。これは年貢の納め時だ。
「はい。わかっています。もともと結んだ契約を合意解除するんですよね。それで、美香さんが対価を払える範囲で色欲の一部を渡す契約を巻き直す…。」
「えっ?えっ?どういうこと?」
隣の美香さんは意味がわからないようで、戸惑いながら僕と紅羽さんを交互に見る。
「契約当事者が合意すればペナルティ無しに契約を解消することができる。これは契約である以上、悪魔との契約でも同じでしょ?それだったら債務不履行じゃないから、その後、一部でも色欲を渡す契約を結び直せば悪魔さんも会社をクビになったり、処分されたりすることはないんじゃないかしら?例えば、一郎の色欲の4分の1とか5分の1を受け取る契約を結び直せば、美香絵瑠さんでも対価を払えるんじゃない?」
紅羽さんのわかりやすい補足説明を受けても、美香さんはまだ理解しきれていないのか、「そうなの?えっ?それで大丈夫なの?」とつぶやきながらせわしなく視線を惑わせている。
「私が納得できないのは、そんな簡単なことを一郎が気づかないふりをしていること…。他にも、家を追い出されたのに、ホテルに泊まるでもなく、社宅の手配もせず、何でわざわざ美香絵瑠さんの家に転がり込んで一緒に住んでいるのかということ…。どうしてそんなことをしているの?」
紅羽さんは口元に微笑みを浮かべているけど目はまったく笑っていない。
きっと僕の本心まで見抜かれているだろう。
わかっていたつもりだったけど、この人にごまかしや嘘が通用しないことを再認識させられた。
こうなったら正直に僕の気持ちを説明するしかない。僕は腹を決めた。
「それは…僕がそうしたかったからです。」目に強く力をこめて、紅羽さんを真っすぐに見つめ返した。
聡明な紅羽さんはこの一言ですべてわかったようだ。一瞬ハッとした後、悲し気な表情になった。
「そっか…。そっか…。つまり私はフラれちゃったんだ。」
紅羽さんは、気弱そうな笑みを浮かべた。瞳も潤み始めている。
「すみません。」
「このホテルで告白されて、それからここで君と恋人になって…。あれから2年ちょっとか…。君はずっと尖ってた私を変えてくれて…。私は…君のこと、本気で好きだったのにな…。」
紅羽さんが言葉を詰まらせ始めた。潤んだ瞳が今にも決壊しそうだ。
「僕も紅羽さんのこと…を本気で好きです。だけど…。」
「ごめん…。帰るね。また月曜に仕事で…。じゃ…。」
僕の言葉を途中で遮り、紅羽さんは立ち上がり、短い言葉だけを残すと踵を返し、まるで走るように去って行った。
きっと涙がこぼす姿を僕に見られたくなかったのだろう。
優しいだけじゃない。そんなプライドの高い紅羽さんも本当に大好きだった…。
「ちょっと!本当にあれで終わりでいいの?あの人、一郎のことを本気で好きだったみたいだよ。」
「いいんです。」
「よくないって…えっ?一郎?」
美香さんが僕の肩を掴んでいる。
その美香さんの輪郭は見える。だけどその顔がぼやけてよく見えてない。
あっ、あれ?僕も泣いてるの?
「やっぱり…一郎も紅羽さんのこと、本気で好きだったんでしょ?だったら追いかけなよ。」
「いいんです。どうせ結ばれることはないんだから。」
「契約のこと言ってるの?大丈夫だよ!さっきの話よくわかんなかったけど、やり方があるんでしょ?私が会社を説得して何とかするからさ!」
「いえ、それが問題じゃないんです。」
僕が首を振ると、美香さんは僕の両肩を掴んで僕の目を真っすぐに覗き込んだ。
「一郎は、今は色欲がないでしょ?さっき吸い取ったもんね。それでも紅羽さんのことをこれだけ好きって思えるなら、涙を流すくらい愛しく想えるなら、それは色欲じゃない。真実の愛だよ。一郎には色欲と愛の違いはよくわからないかもしれないけど、色欲なしで本当に愛せる人に出会えることなんて、めったにないんだよ。ほとんどの人は会えずに生涯を終えることになる。だから、絶対逃しちゃだめだよ。ちゃんとお互いをただ一人の相手として愛して、それで結婚して一生一緒にいればいいじゃん!」
美香さんが興奮して鬼気迫った目で顔を近づけ僕の掴んだ両肩を揺さぶる。
「いえ…結婚なんて無理です。」
「なんで?職場の上司と部下だから、後ろ指差されるかもしれないけどさ!ちゃんと結婚すれば誰も文句は言わないって!」
「いや、そうじゃなくて、紅羽さんはもう結婚してるんで…。」
「はっ?」
美香さんが僕の肩から手を離した。
目をこすり、おそるおそる顔を覗き見ると目を丸くし、口を開けて呆然としている。
「紅羽さん、旦那さんと別れる気はないみたいで。あっ、知ってます?日本では一人の相手としか結婚できなくて…。」
「それくら知っとらい!!なんじゃあ?二人は不倫してたってか?」
「ま、まあそうなります…。」
僕が遠慮がちにうなずくと、美香さんは僕のネクタイを掴んで引っ張り上げた。
「おんどりゃ!不倫のくせになに純愛みたいな空気出しとるんじゃ!言っとくが不倫は文化なんかじゃねぇからな!」
「いや、別に文化的活動として紅羽さんと関係していたわけでは…。」
「知っとるわ!あ~あ、感動して損した。なんじゃそら?結局ただの職場の不倫カップルじゃん!もう一郎の言葉は信じられん!ウソつきっ!!」
「いや、別に、不倫じゃないとは一言も言ってなかったと思うんですけど…。」
「そんなの常識じゃろが~!」
ブチギレてしまったのか。
この後、美香さんの怒りはなかなか解けず、怒りをぶつけるかのようにカクテルをあおり続けた。
それで泥酔してしまったので、結局ホテルに部屋を取って一緒に泊まることになった。
奇しくも紅羽さんと最初に泊まった部屋と同じだったけど、それを言うとまた怒りが再燃しそうなので、黙って横に寄り添った。




