第25話 紅羽の目はごまかせない
金曜日の19時30分、僕と美香さんは、紅羽さんとの待ち合わせ場所であるホテルのバーラウンジにいた。
約束の時間は20時だけど、作戦会議のために二人だけで早めにお店に入ったのだ。
「それじゃあ、今日はどんな作戦で行くの?」
美香さんはモスコミュールを口に含みながら、ホテルの高層階にあるバーラウンジから見える夜景にうっとりと目を奪われている。
「はい。今回はすべて正直に話そうと思っています。僕が色欲に振り回されて関係者を増やしてきたことも、美香さんに色欲を売り渡す契約をしたことも、紅羽さんとの関係も解消したいことも…。」
「えっ?それで大丈夫なの?信じてもらえる?」
「確かに、これまでは僕が色欲に振り回されてたくさんの女性と関係を持っているとか、悪魔に色欲を売ってしまったとか荒唐無稽で信じてもらえないと思って、全部は説明してきませんでした。だけど、紅羽さんはすごく頭のいい方なんです。隠し事をしても、嘘をついてもきっと見抜かれてしまいます。だから、正直に、ありのままに話そうと思います。」
「でも…一郎に他にも関係者がたくさんいたって話はしなくていいんじゃないかな…。きっと怒らせちゃうよ。」
「確かに、そこをあいまいにして説明することもできると思います。だけど、紅羽さんにだけは正直に説明したいんです。」
「職場の上司なんでしょ。何股もかけられてたって知ったら、一郎を左遷したり、下手したらクビにしちゃうかも…。」
「それでも紅羽さんにだけは誠実に、正直に説明したいんです…。」
僕の態度から固い決意を察してくれたのか、美香さんはうなずいてくれた。
「うん…わかった。じゃあ、私は横から黙って見守ってるから。頑張ってね。」
美香さんに肩を叩かれたその時、バーの入口に紅羽さんの姿が見えた。
僕が軽く手を上げると、こちらに気づいたようだ。
今日の紅羽さんは真っ赤なブラウスに白いスーツ。もともと長身なのにヒールの高い靴を履いていて、さらにスタイルの良さが際立ってモデルみたいだ。
颯爽と歩いて来る姿は、まるでそこにスポットライトが当たっているのかと錯覚する。他のお客さんにも紅羽さんを目で追っている人がいる。
「お待たせ、山口くん。それからお隣の方は初めまして。神嶌紅羽です。」
僕たちの前に立った紅羽さんは、優雅に、かつ丁寧に頭を下げた。
思わず美香さんがばね仕掛けの人形のようにぴょこっと立ち上がる。
「は、はじめまして、天使美香絵瑠と言います。悪魔をしています。」
「ミ、ミカエル…?えっ…?悪魔?」
さすがの紅羽さんも、この出オチの自己紹介には面食らったようだ。
ただ、そこは紅羽さんも海千山千。すぐに落ち着きを取り戻し、優雅にソファに腰かけ、ギムレットを注文した。
「神嶌さん、今日はお時間取っていただいてありがとうございます。今日はご相談したいことがあります。このあまつかさんに関係することです。」
紅羽さんは余裕のある表情で微笑みながら鷹揚にうなずく。いつもの、何でも話しやすい上司モードだ。
僕はそれに勇気づけられて、これまでの経緯を一気に説明した。
僕が色欲に振り回されていて大学1年生の頃以来、たくさんの関係者と性的関係を結んでいたこと、少し前まで定期的に関係も持つ関係者だけでも6人もいたこと、そんな無責任な生き方をする自分に悩み、ずっと何とかしたいと思っていたこと、そんな時に悪魔を名乗る美香さんが現れて、美香さんに色欲を独占的かつ排他的に渡す契約を結んだこと、それ以来、色欲に振り回されず冷静に考えられるようになり、関係者と一人ずつ話し合いをして納得してもらいながら関係を清算していること…なるべく簡潔に順を追って訥々と説明した。
紅羽さんは、真っ直ぐに僕を見つめて、たまにうなずきながらも一切口を挟まず、黙って聞いてくれた。
「つまり、今回は私との関係を清算するための話をしたいってことね。」
僕が話し終えると、頭のいい紅羽さんは話の先を読んで、僕が言いにくいことを自分から言ってくれた。ふぅっと小さくため息をつきながら。
「はい…そうなんです。あ、誤解しないでください。紅羽さんとのことは真剣に好きだったんです。ただ、僕が色欲に振り回されて、紅羽さん以外とも色んな人と無責任な関係を結んでしまったことが悪くて…。そんな自分を変えるためには、僕の忌まわしい色欲を消すしかないと思って、悪魔との契約で色欲を失くしてしまったので、もう紅羽さんとの関係も続けることは難しくなって…。すみません。うまく説明できてないかもしれないですが…。」
紅羽さんは腕組みをしながらじっと考え込んでいた。それから肢を組み替え、口を開いた。
「その、悪魔との契約書を見せてもらえる?サインしたってことは、契約書もあるんでしょ?」
僕は鞄から美香さんと締結した契約書を取り出した。紅羽さんは契約書を受け取り、真剣な表情で読み進め、ある条項のところで視線が止まった。
「第3条第2項に『色欲の対価として、甲の望みを叶えるものとする。』ってあるけど、一郎は何を叶えてもらう約束をしてるの?」
「ああ、これは、悪魔と人間が取引する際には相応の対価を支払わなきゃいけないって、悪魔の世界の法律で決まってるらしいんです。それをしないと契約が無効になって、しかも契約を締結した美香さんが罰せられるらしくて。だから条項としては入れてるんですけど、僕の目的は色欲を消すことなので、まだ望みとかは伝えてないんです。」
「じゃあ、何を叶えてもらうつもりなの?」
「それが結構、難しくて…。色欲はかなり価値が高いらしくて、それに見合った望みにしなきゃいけないんですけど、そうすると美香さんが叶えられるレベルを超えてしまうんです。例えば相応の対価をお金で払ってもらうと、美香さんの稼ぎでは1000年ローンくらいじゃないと無理みたいです。だから、追って指定するってことで先延ばしにしてもらってるんですけど…。」
チラッと横目で見ると、美香さんは申し訳なさそうに身を小さくしていた。
紅羽さんは、美香さんの態度には関心なさそうに「ふう~ん」とつぶやきながら契約書を読み進める。
「はっきり言って君にとって不利な契約だね。色欲を失うってことは、一生誰とも恋愛も結婚もできないってことでしょ。」
「はい…。でも契約を締結した以上は従うしかないので…。あっ、そういえば契約締結の後で、別の悪魔から美香さんとの契約を取り消して、色欲の一部だけを渡す契約を締結するよう誘われたんです。いや~、何で先にそれに気づかなかったんだろ。もう契約を締結しちゃった後ですし、しょうがないですよね~。」
契約書から顔を上げた紅羽さんの瞳が一瞬だけ鋭く光った。
「山口くん、本当に気づいてないの?そんなことないよね。4年前、法務部で働き始めた頃の山口くんならともかく…。」
紅羽さんの表情が厳しくなった。
呼び方も『一郎』から『山口くん』に変わった。これは厳しい上司モードだ。
「たしかに、紅羽さんの部下になったばかりの頃の僕は、全然ダメダメでしたよね~。ほら、1年目の頃でしたっけ。僕がレビューした契約書にミスがあって、営業部の偉い人が怒鳴り込んできて、紅羽さんにかばってもらって、しかもこのラウンジで慰めてもらったこと、ありましたよね~。」
あの頃の僕は、もともと志望していなかった法務部に配属され、しかもパワハラ系で有名な圧も強い怖い上司の下に配属され、少し不貞腐れて仕事に身が入ってなかった。
そんなだったから、ある日、他部署から頼まれた契約書の確認について、急かされるままに上司である紅羽さんに一切相談しないまま適当に回答し、しかも後になって致命的なミスを見逃していたことがわかったのだ。
だけど、僕のせいで大きな騒ぎになった時、紅羽さんは一言も相談を受けていなかったはずなのに僕を一切責めることなく、自分の責任だと言って部長や関係部署に頭を下げてくれた。
しかも、失敗にしょげかえっていた僕に、落ち込んだときは肉だと言って焼肉をご馳走してくれて、その後このバーラウンジで慰めてくれた。
この時、僕はこの凛々しい紅羽さんに心を奪われ、1回目の告白をしたのだ。
「フフッ…。そんなこともあったわね。だけど、その後、君は一生懸命頑張って、急成長して、1年後には私をサポートして大型M&Aを成功させたじゃない。あの時もここで、一緒に祝杯を上げたわね。」
紅羽さんが厳しい表情を緩めて、白い歯を見せて意味ありげに笑いかけた。
僕はその意味がわかって少しはにかむ。
仕事で失敗し、しかも紅羽さんへの1回目の告白も大失敗した後も、僕はあきらめなかった。
もし仕事で成長した姿を見せられたら紅羽さんの気持ちが変わるかもしれない。
そう思って、生まれ変わった気持ちで積極的に仕事に力を入れ、休みの日には勉強をして資格も取り、1年後には、若手としては大きな仕事を成功させることができた。
その時も紅羽さんがこのラウンジでお祝いしてくれたので、満を持して改めて告白したら、紅羽さんは、照れくさそうにはにかみながらうなずいてくれた。
しかも、そのまま一緒にこのホテルに泊まって…あれが最初の関係だったな。
思わずそんな回想をしていた。




