第23話 悪魔との同棲
「えっと…うちここ。エレベーターないから階段で2階まで上がってね。」
美香さんに案内された美香さん宅は小田急線梅が丘駅から徒歩25分。
おそらく昭和の頃に建築されたであろうレトロな和風アパート。外壁はくすんだ緑色のモルタル。
アパートの横に付けられたアルミの階段は野ざらし。手すりは錆びていて下手に寄りかかると命に係わるかもしれない。
2階の廊下の一番奥が美香さんの部屋らしい。
美香さんは古びた鍵をドアノブに突っ込んでガチャガチャさせているけど、なかなか鍵が開けられない。
少し気まずいので視線を外して隣の部屋を見ると、表札にカタカナで『カルロス』と書いてあった。
「ミカエルとカルロス…、ここだけブラジルみたい。」そう口の中でつぶやきながらほくそ笑んでいると、やっと開錠に成功したらしく、扉を開けて「早く入んなよ」と部屋の中に誘ってくれた。
中に入ると靴が3足でいっぱいになってしまう小さな玄関。
奥に6畳の畳部屋が見える。そこにつながる細い廊下の右には小さなキッチンと冷蔵庫。左には洗濯機とユニットバス。
奥の部屋には中央にちゃぶ台。それから鴨居に突っ張り棒が渡してあり、美香さんがいつも着ている、似たような黒いスーツが何着も吊り下げられている。
でも、他にはほとんど何もない。まさに赤貧洗うがごとし。
大学入学して最初に住んだアパートに似てるな。
そう思って部屋の前で佇んでいると、「ちょっと」と美香さんから声がかかり、部屋に一歩踏み入れた。
この瞬間から美香さんとの共同生活が始まるのかと思うと少しワクワクした。
「そこ座って!」
しかし、そんな僕の浮ついた気持ちは奥の部屋に正座した美香さんから飛んできた緊張した声に破られた。
厳しい顔で向かいの畳を指さしている。僕は素直に従ってそこに正座する。
「もう一回言っとくけど、さっきみたいに襲い掛かってきたら、すぐに出て行ってもらうからね。」
「はい…すみませんでした。」
僕は素直に頭を下げる。だけど、美香さんはまだ険しい表情で顔をしかめたまま。
「言い訳になるかもしれないですけど、僕はずっとあれに悩んで来たんです。長い期間女性と関係を結べず色欲が溜まると、自分を抑えきれないくらい性格が獰猛になってしまうんです…。」
「長い期間色欲を我慢って、たったの3日半じゃないの!それで性格が豹変するなんておかしくない?」
美香さんは、顔をしかめたまま軽蔑するような視線を投げつけてきた。
「そうなんです…。僕も自分で異常だと思います。これでも、昔は普通の彼女と普通に付き合ってて、一生、その彼女だけを愛したいって真面目に考えていたんですよ。だけど大学に入ってすぐできた同年代の彼女からは、僕の性欲が凄すぎて要求に応じきれないって言われて、それで我慢してたら、さっきみたいに性格が変貌して攻撃的になって、怖がられて幻滅されてフラれちゃって…。それからです。色欲が溜まるのが怖くなったのは。だから関係者を増やして、色欲が溜まらないようにして…。」
「それだったら…ほら、あの…ほら…自分でするとか…。あと、プロの人にお願いするとか…。」
うつむいたまま上目遣いでチラリと見上げた先にいる美香さんは、まだ少し顔をしかめていたけど、なぜか真っ赤になっている。
「どっちも…試しました。だけど違うんです。全然それでは満たされなくて、かえって悶々とした思いが募っちゃって。ただ発散できればいいわけじゃなくて、ちゃんと僕のことを想ってくれる女性に受け止めてもらわないと全然解消できないんです。だから僕が悩んでるのは性欲じゃなくて、まさに色欲なんだと思います…。」
「……。」
またチラリと美香さんをみると、腕組みをしながら仏頂面で目を閉じている。
「美香さんが来てくれて感謝してます。美香さんが色欲を吸い取ってくれるおかげで、複数の関係者とそういった関係を結ばなくても色欲を発散して冷静でいられるようになりました。美香さんのおかげで普通に生きられる希望が見えました。だからこれからもよろしくお願いします。」
そのまま畳に手を付いて、それから額も付けた。
さっきの行いで信用を失ってしまったことはわかっている。こんな形でしか誠意を示せないことが情けない。
「…まあ、私も毎日色欲を吸い取ってあげるって約束したけど、3日間も放置しちゃったわけだしね…。」
「それじゃあ!」
僕がパッと顔を上げると、美香さんは少し緩めた表情をまた引き締めた。
「でも、約束だからね。関係者のみんなと話して納得して関係を解消して、それから新しい関係者を作らないで誠実に生きること。わかった?」
「はい。それはもちろんです。約束します。」
僕は改めて畳に額を擦りつけた。
その後、二人で簡単な夕食を作ってちゃぶ台で食べて、それぞれお風呂に入って寝る時間になった。
美香さんが押し入れから布団を出して、六畳間に二組並べて敷いてくれた。
「じゃあ、おやすみ。」
「おやすみなさい。」
電燈の紐を引いて部屋が暗くなると、今日あったことが思い出され、さっきまで眠かったのに急に目が冴えてきた。
色々なことがあったな。明日からどうなるのかなと思っていると、隣から鼻をすするような音が聞こえる。
「なんだろ?」と様子を伺っていると、美香さんが急に布団を頭からかぶった。わずかだけど忍び泣くような声が聞こえるような気がする。
「大丈夫ですか?」
「平気…。」
だけど忍び泣くような声は収まらない。僕はそっと布団の中に手を入れて美香さんの手を握った。
「ちょっと、やめてよ!襲い掛かってくるつもり?」
「違います…。ちょっと安心するかなと思って…。」
美香さんの口調は厳しかったけど、振りほどいたりはしなかったので、そのまま手を握っていると、彼女が布団から少し頭を出した。
「ごめん…。ありがと…。」
「大丈夫ですか?何か辛いことがあったんですか?」
美香さんは何も答えなかったので、僕もただ黙って手を握り続ける。
「……さっき千尋ちゃんに言われたこと思い出してた。」
「ああ、あれは気にしなくていいですよ。千尋さんは自分で勝手に思い込んでコンプレックスをこじらせて、それを努力のモチベーションにしているようなところがあるので。あれも彼女の思い込みによる妄想ですよ。」
「違う、そうじゃない…。」
彼女は寝返りをうって僕に背を向けた。その拍子に握った手も離れてしまった。
「千尋ちゃんが言ってたこと、その通りだと思う。小学生の頃の私は自分がどれだけ恵まれてるのか気づかないで、調子に乗ってデリカシーのない行動をしてたと思う。」
「それは…子供なわけですし、しょうがないのでは?」
背を向けた彼女からまた忍び泣くような声が聞こえてきた。背中も震えて始めている。
「中学だって…。パパみたいにお医者さんになりたいから、地元の公立じゃなくて京都の私立に行きたいってわがまま言って…。そしたらママと私だけ京都に引っ越してパパだけ倉敷に残ることになって…。離れて暮らしてたら寂しくなったパパが浮気して、パパとママの関係がおかしくなって、離婚することになって…。全部私のせいだ。」
僕は何も言えず、代わりに美香さんの背中にそっと手をおいた。
「しかも、家族を崩壊させてまでわがまま言ったのに4浪しても医学部に合格できなくて…。あきらめて適当な大学に入ったら全然馴染めなくてすぐに辞めちゃって…。それで、ママから津山の実家に帰ろうって言われたのを振り切って東京に出てきて…。」
そのまま美香さんは言葉を詰まらせ、嗚咽を漏らし始めた。
「東京に出てからは生活費を稼ぐために夜のお仕事をして、そこで私のことを口では好きとか言ってくれる人もいたけど、実は私を性欲のはけ口としてしか見てなくて飽きたらすぐに捨てられるのを繰り返して…そんな中でもやっと本当に好きになれる人を見つけたって思ったら、半グレで、お金のために私を売ろうとして…。それで結局、悪魔になっちゃった。しかもほとんど契約取れなくて悪魔の中でも劣等生…。あんなに調子に乗ってた小学生の頃の私を知ってる友達が見たらどう思うだろ?千尋ちゃんが言う通りだよ。きっとみんな千尋ちゃんみたいに、私のことを惨めだってバカにするよ。何の反論もできない。」彼女は嗚咽し、激しく身を震わせた。
僕は彼女の布団に移り、彼女を背中から抱きしめた。
「ちょっと!!やめて…。結局、一郎も私を性欲のはけ口としか見てないんじゃん。」
「違いますよ。ただ抱きしめたいだけです。ダメですか…。」
「それなら…いいけど…。」
僕はグスグスと泣き続ける彼女を背中からそっと優しく抱きしめ続けた。
かける言葉がないのだから、こうするしかない。
そうしているうちに、次第に彼女の泣き声と震えは収まり、やがて静かな寝息が聞こえて来た。




