第22話 貪欲の理由
「そろそろ一郎が油断してる頃だと思って抜き打ちで様子を見に来たんだけど、やっぱり思ったとおりだったわね。」
やっぱり朝のメールは罠だったか。
普段の千尋さんは、約束していないのにわざわざ来られないなんてメールをしてくることはない。
冷静になった今ならわかるけど、朝は頭が色欲でいっぱいでちゃんとした判断ができなかった。
僕が「すみません」と言って頭を下げると、千尋さんは呆れたような表情をしながらもニヒルに笑い、ダイニングの椅子に座った。
「まっ、一郎の関係者が増えるのはいつものことだけどね。でも、ちゃんと床は掃除しときなよ。」
千尋さんはダイニングの床に座り、ハンドバックから細い煙草を取り出して火をつけた。
僕は急いで灰皿を取り出しテーブルに置く。
「それでそこの女、家主に挨拶もないわけ?ちょっと顔を上げて名前を名乗りな。」
千尋さんの言うことももっともだけど、美香さんは床にありったけの胃液をぶちまけて、ようやくえずくのをやめてぐったりしている。
そんな美香さんに事情を説明させるなんて酷だ。
「あの…。この人は関係者じゃないんです。『あまつかみか』さんという方で、僕から色欲を買い取った悪魔なんです…。」
「ちょっと待って…、あまつか…みか…?」
千尋さんは加えたばかりの煙草を灰皿に押し付け、立ち上がって美香さんに近づく。
「ちょっと顔を見せてよ…。」
千尋さんが美香さんの顎をつかんでグイっと持ち上げた。その瞬間、千尋さんと美香さんの目が合った。
「やっぱり…!ミカエル…、天使美香絵瑠じゃん!うっそ!覚えてない?小学校でずっと一緒だった田中千尋だよ!」
「千尋…ちゃん?」
美香さんの口から弱々しい声が漏れた。だけど、まだ目は虚ろだ。
「え~っ!なつかし~!!元気だった?そういえば、ずっとお医者さんになるって言ってたよね。なれたの?」
美香さんは弱々しく首を横に振る。
「ふ~ん、じゃあ今は何をしてんの?」
「美香さんは、今は悪魔をされてます。悪魔の会社に勤めていろんな人間と契約して、大欲を買い取ってるらしいですよ。僕も色欲を買い取ってもらって…。」
まだ声を出すのも辛そうだったので、僕が代わりに答えてあげる。
「ふ~ん、つまり買取専門の営業職ってことか~。」
千尋さんは美香さんの服装とか、床に置かれた鞄とかをジロジロと見て、それから口元にニヤリとした笑いを受かべた。
「へぇ~、落ちぶれたもんだ~。倉敷第四小学校では、医者でお金持ちのパパに何でも買ってもらえて、勉強も運動もできて先生にも好かれて、神さまに愛された子とまで言われたあのミカエルちゃんがね~。」
「ち、千尋ちゃん…?」
四つん這いになりながら、戸惑った表情で弱々しく見上げる美香さんを、腕組みしながら、これ以上ないくらいのドヤ顔で見下ろす千尋さん。
「でもね、神さまには愛されてたかもしれないけど、私も他の小学校の友達も、みんなミカエルちゃんのことが大嫌いだったんだよ!!」
「そんな…。あんなに仲良くしてくれてたのに…。私のこと好きだって言ってくれてたのに…。」
「違う!!」
吐き捨てるような千尋さんの一声に、美香さんが顔を背ける。
「自分一人だけお金持ちの家に生まれて、親にも愛されて、何でも買ってもらえて!覚えてる?小学校5年生の時、小学校のみんなでミカエルのピアノの発表会を観に行かされた時のこと!!一人だけお姫様みたいな服を着て、でかいコンサートホールでグランドピアノ弾いてて…。私がお世辞でうらやましいな~って言ったら、『だったら千尋ちゃんもパパとママにピアノ習わせてってお願いすればいいのに』って、しれっと言ってきやがって。狭い団地に住んでる私の親がピアノ買って習わせてくれるわけないだろっ!!あと、夏休みに私が家族で大阪の親戚の家に遊びに行って子犬を抱いたって友達と話してたら、お前はオーストラリアでコアラを抱いたって自慢で被せてきやがったよな!そんな風にお前はいつも私たちを見下してたよな!!」
「そんな…そんなつもりじゃ…。」
「それから!お前は一人だけ京都の名門私立中学に越境入学したけどさ!そん時なんて言った?『ごめんね。みんなと同じ学校通いたかったけど、やっぱりちゃんとした学校に行きたかったから』って言ったよな!!『ごめんね』ってなんだよ。『ちゃんとした』ってなんだよ!!それじゃあ、私たちが進学する地元の公立中学校はちゃんとしてないのかよ!!」
「違う…違う…。」
四つん這いのまま弱々しく首を振る美香さんを見下ろしながら、千尋さんはさらに意地の悪い笑みを浮かべた。
「でもまあそのせいで…、お前の母ちゃんとお前だけが京都に引っ越して、残されたお医者さんの父ちゃんと離婚することになったんだっけ?知ってるか?お前の父ちゃん若い女と再婚して新しい子ども作って、今は10歳くらいになるんだっけ?この間帰省した時に見かけたけどさ。お金をかけて甘やかされて昔のミカエルそっくりだったよ。」
美香さんは「そうなの?」とつぶやいて驚愕の表情を見せ、それから歯を食いしばってうつむいた。もしかしてそれは知らなかったんじゃないだろうか?
「もうそのあたりで…。」
美香さんがあまりにかわいそうで見てられない。
僕は思わず千尋さんの肩に手を置いたけど、彼女はそれを払いのけた。
「いいや、まだだ。私がずっと言いたかったことはこれからだ!ミカエル!お前はもう医者の娘でも医者でもない。安いスーツ着て、型がくずれた安いノーブランドのカバンを持って、わずかな給料で契約のためにお客にペコペコと頭を下げて回る安い女だ。私を見ろ!今や社長で、あくせく働かなくても年収は1億円をゆうに超えてる。このスーツもイタリアの高級ブランドの最新作。これ1着でミカエルのスーツが100着は買えるぞ!今や大逆転だな~!このマンションも私の物だし、さっきお前とイチャイチャしてた一郎も、私が養ってやってる愛人だ!!どうだ、ざまぁみろ~!!アハハハハッ~!!」
高笑いをする千尋さんの前で、床に手を付きがっくりうなだれる美香さん。まるで土下座をしているようにも見える。
これ以上はもうダメだ…。僕が止めないと。
「千尋さん。もう満足したでしょう。これ以上はやめましょう。」
僕は千尋さんと美香さんの間に割って入り、千尋さんの目を見て懇願した。
しかし、千尋さんは僕を鋭く睨み返した。
「言っとくけど、お前が女を連れ込んだことを許したわけじゃないからな。まあ、結果として、ミカエルに大逆転した姿を見せつけるっていう私の長年の望みをかなえてくれたわけだ。それに免じて許してやる。今すぐミカエルを追い出せ!!それでミカエルが汚した床を掃除しろ!そしたら、全部水に流してやる。」
「そんな…。美香さん、あんなに弱ってるわけですし、もう少し部屋で休ませてあげても。」
「いいやダメだ!今すぐだ!それともあれか?一郎がミカエルと一緒にこの家を出て行くか?それだったら、床を掃除して、一郎が荷物をまとめる時間くらいは待ってやってもいいよ。」
千尋さんは腕組みをしながら、首を傾げ、それからニヤリと歯を見せて笑った。
振り返ると美香さんが苦しそうにうずくまっている。
「さあ選べ!一郎に贅沢な暮らしをさせてやってるゴージャスで美しい私か!?それとも床に這いつくばってゲロゲロ吐いてるような、そこの安くてみすぼらしい女かっ!?」
千尋さんの燃えるような真っ赤な瞳を見て思った。
この人は本気だ。それならもう仕方ない…。
◇
3時間後、僕は、夕闇が迫りつつある中、私物を詰め込んだ海外旅行用のスーツケースを引きずりながら駅に向かう坂を下っていた。
隣には、よろよろと歩く美香さん。
「大丈夫ですか、美香さん。キャリーケース持ちましょうか?」
「…フンッ…。」
美香さんはさっきから口を聞いてくれず、ろくに目も合わせてくれない。
「あの…それで、僕も住むところがなくなってしまって…今日泊まるところなんですが…。」
「あそこで朝まで粘ればいいでしょ。」
美香さんが指さした先にはイートインスペースのあるコンビニエンスストア。
「いや、夜になるとヤンキーのたまり場になって襲われちゃうかもしれないですし…。」
「5キロほど歩くとファミレスがあるんじゃなかった?」
「この荷物で5キロは歩けませんって。」
「普通にホテルに泊まればいいじゃん。」
「ちょっと先立つものが…。」
その時、美香さんがピタリと足を止めた。
「そもそも千尋ちゃんが言う通り、私のことなんか気にせずあのマンションに残ればよかったじゃん。今からでも謝ってきなよ。そしたらきっと許してくれるよ。」
僕が目を合わせて訴えかけようとすると、美香さんはフンッと鼻を鳴らしながら顔を背け、またガラガラとキャリーケースを引きながら坂を下って行った。
「千尋さんに謝ってあそこに残してもらうなんて、そんなことできませんよ。」
「なんでよ?」
「美香さんが一人になっちゃうじゃないですか。まだ体調悪そうですし、一人で帰すのは心配で…。」
「いったい誰のせいで体調悪くなったと思ってんのよ。」
「すみません。」
美香さんはまったく振り返らないまま歩き続け、僕はその背中に向かって頭を下げるしかない。
「それと…ちょっと千尋さんに一泡吹かせたかったってのもあって…。」
「なにそれ?」
「ほら、千尋さん、お金持ちで高い服着てマンションも持ってて愛人も養ってて、すべて美香さんに勝ってるってドヤ顔してたじゃないですか。そんな中で僕が美香さんを選んだら、一矢報いて救われるかなって…。」
美香さんがピタリと足を止める。だけど僕の方は振り向かない。
「一矢報いて救われるってなによ…?私は別に悔しくなんかない!千尋ちゃんのことなんか何も思ってない。」
「あっ、ごめんなさい。そうじゃないんです。僕も悔しかったんです。千尋さんにあんな風に言われっぱなしで。だから僕が一矢報いたかったんです…。」
「ふ~ん。」
また美香さんは歩き出した。
僕は黙って後を追いかける。
「それに見ました?僕が美香さんと出て行くっていた時の千尋さんの顔…。驚きすぎてまるで埴輪みたいになってましたよね。『ハニャッ!』なんて言って。」
「フフッ…確かにあれは傑作だったわね…って、別にあれで、ちょっとすっきりしたなんて思ってないんだからね!!」
そんなツンデレなセリフを言った後、また美香さんは黙ってキャリーケースを引いた。僕は捨てられた子犬のようにただ後を追いかけるしかできない。
「梅が丘だから…。」
「えっ?」
「私の家がある場所。言っとくけど、さっきみたいに襲い掛かってきたらすぐに叩きだすからね!!」
「はい!美香さんが毎日色欲を吸い取ってくれたら絶対に大丈夫です!」
「もっと自制心持ちなよ。」
「すみません…。」
「それから…ありがとね。一郎が付いて来てくれて、私はちょっと救われた。」
美香さんが僕に背中を向けたまま、最後にぽつりとつぶやいた言葉はよく聞こえなかったけど、思わず僕の頬が緩んだ。




