第91話:神託と神罰
お読みいただき、ありがとうございます。
朝・昼・夕の1日3回の更新を目指しています。
少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。
聖女セレスティアの凛とした声は、大審問室の張り詰めた空気を切り裂いた。神の代理人たる異端審問官サルディウスでさえも、教会の権威の源泉そのものである彼女の乱入を、即座には制止できない。
「聖女様。神聖なる審問を、個人の慈悲で乱すことは許されません。……やはり、あなたは、もう既に……」
サルディウスがようやく絞り出した言葉には、焦りと怒り、そして絶望にも似た響きが混じっていた。だが、セレスティアは怯まなかった。彼女は王侯貴族や高位の神官たちが見守る中をゆっくりと進み、サルディウスの前に立つ。その瞳は、ただ一人、審問官を真っ直ぐに見据えていた。
「審問官殿。神の御心を遮ってはなりません」
彼女は、静かに、しかし有無を言わせぬ力強さで告げた。
「神託が下りました」
その一言に、場は大きくどよめいた。神託。この世界において絶対的な意味を持つ、神からの言葉だ。
セレスティアがゆっくりと目を閉じると、彼女の小柄な体から清らかで力強い光があふれ出し、石造りの冷たい審問室を温かな慈愛で満たす。
「真の罪は、癒し手の御業にあらず。生命を弄び、その苦しみを試練と称し、救いを妨げる者の心にあり」
彼女の声は預言のように響き、明らかにサルディウスの行いを指弾していた。
「古き理は星の涙より生まれ、新たな理は星の旅人によりもたらされん。二つの理が出会う時、真実の光は蒙昧の闇を照らすべし」
その神託の意味を完全に理解できた者はいなかっただろう。だが、聖女がカガヤを擁護していることだけは、誰の目にも明らかだった。
「偽りの神託だ!異端者の妖言に惑わされたか!」
サルディウスが激昂して叫ぶが、その言葉は空虚に響くだけだ。聖女の神聖な佇まいの前では彼の権威も色褪せて見える。
南の公爵が満足げに頷き、第二王子が興味深そうに口元を緩めるのが見えた。法廷の空気は一変し、サルディウスは完全に孤立した。俺が仕掛けた論理の罠よりも、はるかに鮮やかに、彼女はこの場の力学を覆してみせたのだ。
聖女という絶対的な権威の介入によって生まれた法廷の混乱と権力の空白。
しかし、この瞬間を狙って待ち望んでいた者がいた。
突如、大審問室の高いステンドグラスが甲高い音を立てて砕け散る。
「何事だ!」
神殿騎士たちが叫ぶのと、黒い影がいくつも部屋になだれ込んでくるのは同時だった。
全身を黒で包み、胸に「心臓を捧げる鷲」の紋章を刻んだ狂信者たち。その統率された動きは、以前、俺を襲った者たちと寸分違わない。
「神罰の時だ!偽りの聖女と、それを祀る腐敗した教会に、我らが真の神の裁きを下す!」
彼らの狙いは俺だけではなかった。先頭の男が叫ぶと、狂信者たちはサルディウス、列席する王侯貴族、そして聖女セレスティアへと、一斉に襲いかかった。
「聖女様をお守りしろ!」
「侵入者を排除せよ!」
神殿騎士団の怒号が飛び交い、審問室は一瞬にして戦場と化した。だが、敵はあまりにも周到だった。砕かれた窓から次々と増援がなだれ込み、その連携は騎士団のそれを上回っている。
「ちっ!」
俺は、恐怖に目を見開くセレスティアの手を取り、自らの背後へと庇う。
〈アイ! 最適な防御行動を! 聖女の安全を最優先!〉
《了解、マスター!》
審問室は三つ巴の乱戦の様相を呈した。狂信者たちは敵味方の区別なく刃を振るい、サルディウスは神殿騎士に守られながらも、その目は、俺と乱入者たちを等しい憎悪で見据えていた。
混乱の中、一人の狂信者が俺とセレスティアに気づき、獣のような雄叫びを上げて突進してくる。神殿騎士は別の敵と交戦中で間に合わない。
「カガヤ様!」
セレスティアが悲鳴にも似た声を上げる。俺は彼女を背に隠したまま、腕の触媒に意識を集中させる。
《マスター、背後から二人! 右からの斬撃を左腕の結界で防御、同時に体勢を低くし、軸足で左からの敵を薙いでください!》
アイの戦術予測は、もはや思考を介せず、俺の脊髄に直接命令を下すかのようだ。
俺は精密機械のように動く。右からの剣を左腕の結界で受け流し、同時に身をかがめて左からの敵を軸足で転倒させる。無防備になったそこへ、別の神殿騎士の槍が突き刺さった。
「助力感謝する!」
礼を言う騎士に頷きを返す余裕はない。この極限状態にあって、俺の心は不思議なほど冷静だった。恐怖はない。あるのは、この混沌をいかに最適化し、被害を最小限に抑え、そして聖女を守り抜くかという、ただ一つの目的だけだ。
俺の「理術」の本質は、最適化と制御にある。その淀みない一連の動きを、第二王子ゼノンが、予測不能なものを見る者の笑みを浮かべて見つめているのを、俺は視界の端で捉えていた。
戦いは熾烈を極めた。数の上で有利なはずの騎士団が押されているのは、狂信者たちの死を恐れぬ特攻故だった。
「偽りの聖女に、神罰を!」
一人の狂信者が、ついに防御網を突破し、セレスティアへと肉薄する。
「しまっ……!」
俺は別の敵をいなしていたため、一瞬対応が遅れた。
その時だった。
「――もう、やめて!」
それまで俺の背後で震えていたセレスティアが、叫びと共に一歩前に出る。
彼女の体から、淡く、しかし抗いがたいほどの温かな光があふれ出した。それは、儀式のような計算された光ではない。この混沌の戦場で、傷つき倒れ伏す人々を救いたいという、彼女の魂そのものが叫びとなって放たれたかのようだった。
その光は、波のように審問室の隅々にまで広がり、憎悪に歪んだ狂信者たちの動きを鈍らせた。
振り下ろされようとしていた剣が、まるで重い空気に阻まれたかのように勢いを失う。剣戟の轟音と断末魔の悲鳴が嘘のように止み、場には奇妙な静寂が訪れた。そして、その光は倒れ伏した騎士たちの上に、まるで慈愛の雨のように降り注いだ。夥しい血が流れていた傷口から、血の赤に代わって柔らかな光が溢れ出し、見る見るうちにその傷を塞いでいく。苦痛の呻きは驚嘆のため息に、絶望に歪んでいた顔は安堵の涙へと変わっていった。
「な……これが、聖女様の、御力……」
一人の若い騎士が、自らの腕の傷が塞がっていくのを見て呆然と呟いた。
その光景に、最も動揺していたのはサルディウスだっただろう。自分が「異端者」と断罪しようとした男と、「道具」として扱っていた少女こそが、この場で誰よりも人々を救おうとしている。彼の信じる「正義」が音を立てて崩れていくのを、俺は見逃さなかった。
聖女の覚醒が、この混沌とした戦場の流れを決定づけた。彼女から放たれる癒しの光は、神殿騎士たちの傷を癒すだけでなく、彼らの心に折れかけていた闘志を再び燃え上がらせた。
「うおおぉぉっ!」
雄叫びと共に立ち上がった騎士団長が、血に濡れた剣を高く掲げる。その声に呼応するように、騎士たちは統率された動きを取り戻し、狂信者たちへと反撃を開始した。
光の奔流の中で、狂信者たちの動きは明らかに鈍り、その連携も乱れている。
死を恐れぬはずの瞳に、初めて戸惑いと恐怖の色が浮かんでいた。
騎士たちは、負傷者を庇いながら陣形を再編し、波のように押し寄せる。剣と剣がぶつかり合う甲高い金属音、怒号、そして断末魔。先ほどまで一方的に押されていたのが嘘のように、戦況は完全に逆転した。
狂信者たちは一人、また一人と騎士たちの刃に倒れていく。 やがて、砕け散ったステンドグラスの前に、追い詰められた最後の一人がよろめきながら立ち尽くしていた。その身には無数の傷を負い、黒装束は自らの血で赤黒く染まっている。
周囲を神殿騎士に完全に包囲され、もはや逃げ場はない。だが、その男の瞳には、絶望ではなく、最後の使命を全うしようとする狂信の光だけが燃え盛っていた。
彼は、高らかに叫んだ。
「魂よ、真の神の御許へ! 偽りの世界に、浄化の炎を!」
その言葉と共に、彼は自らの心臓を短剣で貫いた。その顔には、苦痛ではなく、恍惚とした笑みが浮かんでいた。
静寂が戻った大審問室は、凄惨な有様だった。砕かれたステンドグラスから吹き込む冷たい風が、血の匂いをかき混ぜる。多くの騎士や神官が傷ついたが、セレスティアの光によって、致命傷を負った者はいなかった。
その惨状の中心で、俺は静かに立っていた。背中に、か細い震えが伝わってくる。セレスティアが、最後の命綱であるかのように俺のマントを固く握りしめているのが分かった。彼女は無傷だった。
サルディウスは、ただ呆然と立ち尽くしていた。彼の視線は、倒れた狂信者と、傷ついた仲間たちと、そして聖女を庇って立つ俺との間を行き来している。
この惨状は、もはやカガヤを「異端」の一言で裁ける状況ではないことを、誰の目にも明らかにした。
神の名の下に始まった法廷は、皮肉にも、神罰を叫ぶ者たちの乱入によってその権威を完全に失墜させたのだ。
異端者と断罪された男だけが、最後まで聖女を守り抜いた。これ以上、滑稽で、皮肉な物語があるだろうか。
誰の裁定も必要なかった。俺はゆっくりと息を吐き、背後のセレスティアに向き直る。
「……もう、大丈夫だ」
その声は、この狂気の法廷の喧騒の中で、しかし驚くほどはっきりと、俺の背後にいるセレスティアに届いた。彼女が俺のマントを握りしめる力が、ほんの少しだけ緩む。俺が振り返ると、涙の滲む瞳で、しかし真っ直ぐに俺を見つめ返す少女がいた。
砕かれたステンドグラスを通して、夕暮れの光が静かに差し込んでいた。それは、この狂気の法廷の終焉を告げる、鎮魂歌のようにも見えた。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!
「☆☆☆☆☆」からの評価やブックマークをしていただけると、今後の創作の大きな励みになります。
感想やレビューも、心からお待ちしています!




