第90話:神聖なる茶番劇
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大聖堂の重い扉が閉ざされると、外の喧騒は嘘のように遠のき、絶対的な静寂がその場を支配した。ひやりとした石の感触が、壁や床から伝わってくる。巨大なステンドグラスから差し込む光は、無数の塵をきらめかせながら床に落ち、神々の物語を幻想的に描き出している。だが、その光は少しも温かみを感じさせず、むしろこの場の冷徹さを際立たせているかのようだった。
ここは、王都中央教会、大審問室。フォルトゥナ王国の信仰と秩序の番人たる、神の法廷だ。
俺は、部屋の中央にぽつんと置かれた一つの椅子に座るよう促された。正面の、一段高くなった場所には、簡素だが威厳のある審問官の席。そこに、筆頭異端審問官サルディウスが、まるで古くからそこに根を張る老木のように、微動だにせず座っている。彼の背後には、同じく表情を消した神官たちが壁のように並び、その両脇には、この国の権力を象徴する者たちが「証人」として列席していた。
四大公爵家の席には、当主、あるいはその代理人らしき者たちの姿があった。此度の審問が王国の根幹を揺るがしかねない重要事であると判断した王家、あるいは教会が、彼らを「証人」として召喚したのだろう。
その中に、南の公爵、アディル・アディ・ゼラフィムの姿を私は認めた。彼だけが、私に向けてかすかに頷いて見せた。その瞳には、心配と、そして「信じている」という無言のメッセージが込められている。他の三家の者たちは、探るような、あるいは値踏みするような複雑な視線を私に投げかけている。そして、王家の席には、第二王子ゼノンと思われる人物の姿もあった。彼は、ただ静かに、この茶番劇の成り行きを見守っている。
この場の全員の視線が、私という一点に突き刺さる。肌がひりつくような緊張感。私は、努めて平静を装い、深く息を吸った。
《マスター。心拍数、血圧ともに正常範囲内。ストレスレベルは上昇していますが、思考能力に影響はありません》
アイの冷静な報告が、私の唯一の防波堤だった。
やがて、サルディウスが静かに立ち上がった。その瞬間、部屋の空気が更に張り詰める。
彼の声は、大きくはないが、大聖堂の構造がそれを増幅させ、隅々にまで冷たく響き渡った。
「カガヤ。これより、神の御名のもとに、汝の異端の嫌疑を問う」
彼は、形式的な開廷宣言の後、すぐに本題に入った。その目は、私を人間としてではなく、ただ断罪すべき「罪」そのものとして見ている。
「先日、我が配下の神官ティトゥスが、古くよりかの地を蝕む風土病『灰降病』に倒れた。これは、神が我らの信仰を試すために与えたもうた試練であった。だが、汝はその神聖なる試練に、人の浅知恵をもって介入し、あろうことかティトゥスの命を救ったという。これは真か?」
「事実です。私は彼を治療しました」
私は簡潔に、そして事実のみを答えた。
「治療、だと?」
サルディウスの口元に、嘲るような笑みが浮かぶ。
「汝のそれは、癒しではない。神の御業を模倣し、神の領域を侵す、冒涜的なる行為だ。汝が行ったという『分離薬学』による所業。それは、神が定めたもうた自然の理を、毒には毒の、薬には薬の役割を、矮小な人間の傲慢で歪める邪法に他ならない。その力、邪神より授かったものではないと、どうして言えようか!」
彼の言葉は、修辞に満ち、計算され尽くしていた。それは、論理ではなく、聴衆の信仰心と恐怖心に直接訴えかける扇動だった。陪席の神官たちの間に、どよめきが走る。「邪神」という言葉が、彼らの心を支配する。
私は、慌てず、騒がず、静かに口を開いた。「審問官殿。私の『理術』は、自然の理を歪めるものではありません。むしろ、その逆です」
「何だと……?」
「麦の穂を例に取りましょう。人は、穂から食せる実と、食せぬ殻を分けます。それは、神が与えたもうた恵みを、より良く人が享受するための知恵であり、『労働』です。私が行ったことも、それと何ら変わりません。あの薬草が持つ、人を癒す部分と、人を害する部分。その二つの『理』を正しく見極め、不要な部分だけを取り除いただけのこと。これは、神の創造物を冒涜する行いではなく、その恵みを最大限に生かすための、探究の果てにある技術です」
私の反論に、今度は公爵たちの席から、かすかな感心の声が漏れた。第二王子も、興味深そうに私を見ている。論理と論理の戦いなら、負ける気はしない。
だが、サルディウスは、まるで私の反論を待っていたかのように、冷たく笑った。
「面白い詭弁を弄するものだ。では聞くが、カガヤ。汝の言う『理』とやらは、魂の在り処を説明できるか?神が如何にして生命を創造したもうたか、その神秘を解き明かせるのか?否、できまい。汝の言う理術とやら、所詮は神の御業の表面をなぞるだけの、猿真似に過ぎん。神の創造したもうた毒にさえ、神の深遠なる御心があるやもしれぬ。それを、人の矮小な価値観で『不要』と断じることこそ、何よりの傲慢であり、邪神の囁きに他ならぬ!」
見事な論理のすり替えだった。私の論理の土台そのものを、「神の領域を侵す傲慢」という一点で否定してみせたのだ。科学的合理性が通用しない、信仰の法廷。ここでは、証明不能な「神の御心」が、観測可能な「事実」よりも優先される。
南の公爵が何かを言いかけたが、サルディウスはそれを視線だけで制した。
完全に、孤立した。四方八方を、狂信という名の壁で塞がれたような感覚。じりじりと、しかし確実に、私は追い詰められていく。
サルディウスは、勝利を確信した捕食者の目で私を見下ろし、最後通告を突きつけた。
「カガヤ。最後に問う。汝のその力、その知識、その『理術』とやらは、神より授かりしものか、邪神より授かりしものか。答えよ」
沈黙。全ての視線が私に注がれる。神と言えば、その力の根源を問われ、いずれ嘘が露見する。邪神と言えば、その場で火刑が確定する。どちらに転んでも、破滅。完璧な、チェックメイトだった。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
だが、私が口を開くよりも早く、大審問室の巨大な扉が、凄まじい音を立てて開かれた。
そこに立っていたのは、純白の衣をまとった、聖女セレスティアだった。彼女は息を切らし、しかし、その瞳には神々しいほどの強い意志の光を宿していた。
「――待ちなさい!」
その凛とした声は、この神の法廷の、偽りの神聖さを打ち破る、最初の雷鳴のように響き渡った。
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