第89話:断罪の鐘
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中庭での会談が終わった後、サルディウスは自室に戻ると、祈りのための椅子を蹴り倒した。ガシャン、と重い木材が石の床に叩きつけられる音が、静まり返った部屋に虚しく響く。彼の周囲に控えていた神官たちは、主の激しい怒りに身を縮こまらせ、遠巻きに見ているだけだった。
(あの聖女、完全に異端者に取り込まれたか……!)
サルディウスの脳裏に、ドラクシア家の代理人の前でカガヤを擁護したセレスティアの姿が焼き付いて離れない。あの瞳、あの言葉。あれは、ただの同情や気まぐれではない。明確な意志、そして異端者への共感。
聖女が、教会の至宝が、異端者に汚されようとしている。サルディウスにとって、それは自らの信仰と、教会そのものの権威に対する、許しがたい冒涜だった。
これ以上、王家や公爵たちの政治的な駆け引きに付き合っている時間はない。神の敵は、神の法の下で、速やかに断罪されねばならないのだ。彼の心は、純粋で、揺るぎない、そして危険な狂信によって完全に支配されていた。
その夜、サルディウスの決断は、教会という巨大な組織を、恐るべき速度で動かし始めた。彼の言葉は神の言葉となり、神官たちは夜を徹して準備を進めた。そして、夜が白み始める頃には、すでに断罪の舞台は整えられていた。
◇
翌朝、王都の空気を切り裂くように、大聖堂の鐘が鳴り響いた。それは、通常、王の崩御や大規模な祝祭の際にのみ鳴りされる、特別な鐘だった。王都の民衆は何事かと空を見上げ、ざわめきが波のように広がっていく。
その混乱の真っただ中に、教会からの公式な布告が発せられた。
『聖女セレスティア様が、異端者カガヤの邪悪なる気に触れ、その御心に曇りが生じた。よって、神の御前において、異端者の罪を明らかにし、聖女様の御心を清めるための、異端審問を本日正午より、大聖堂にて執り行う』
その報は、瞬く間に王城と四大公爵家にも届いた。
王城の一室で、第二王子ゼノンは卓上の戦略盤に視線を落とし、駒を一つ指で滑らせながら、静かに口の端を吊り上げた。彼の前には、南の公爵からの使者が、緊張した面持ちで控えている。
「サルディウスめ、随分と性急な手を打ってきたものだ」
教会の穏健派も、サルディウスのこの強引なやり方に顔を青くした。だが、もはや誰にも止められない。「聖女の浄化」という大義名分を掲げられてしまえば、それに異を唱えることは、教会そのものへの反逆と見なされかねない。
王家も、公爵家も、そして教会の穏健派さえも、この狂気の茶番に「証人」として列席することしかできなくなってしまったのだ。
悔悟の塔の扉が、いつもより乱暴に開かれた。サルディウス自らが、数人の神殿騎士を伴ってそこに立っていた。
「カガヤ。君の罪を問う時が来た。神の法廷へ来てもらおう」
彼の顔には、自らの退路を断ち、最後の勝負に打って出た者の、冷酷な決意が浮かんでいた。
俺は、静かに頷いた。この展開は、昨夜からアイとシミュレートしていた最悪のパターンの一つだった。
《マスター。これから行われるのは、論理的な対話ではなく、政治的な公開処刑です。彼らの目的は真実の探求ではなく、マスターを『異端者』として断罪することにあります。いかなる論理的な反証も、彼らの信仰の前では『邪神の詭弁』と解釈されるでしょう》
〈ああ、分かっている。だが、ゲームのルールがそうなっている以上、そのルールの中で戦うしかない〉
俺は、給仕係が置いていった質素なパンと水を口にし、立ち上がった。ゴルバスから貰った、特注の隠密装備に身を包む。黒く鞣された革鎧は体に吸い付くように馴染み、足音を吸収するブーツは、これから向かう神聖な場所には不釣り合いなほど、不穏な静けさを足元にもたらした。
〈アイ。勝算は?〉
《マスター。純粋な論理のみで無罪を勝ち取る確率は、1.7%です。ですが、彼らの論理の矛盾を突き、彼ら自身の教義を逆手に取ることで、法廷そのものを機能不全に陥らせる確率は、38.6%まで上昇します》
〈38.6%か。悪くない。絶望的な賭けにしちゃ、上等すぎる確率だ〉
俺は、サルディウスと神殿騎士たちに促され、悔悟者の塔を出た。太陽の光が眩しい。
大聖堂へと向かう道すがら、沿道は黒山の人だかりだった。俺を見る人々の目。そこには、畏敬、恐怖、憎悪、好奇心、あらゆる感情が渦巻いていた。まるで、猛獣か何かを見世物にするような、野次馬たちの視線の洪水だ。
肌を焼くような無数の視線を浴びながら、俺は冷静にその光景を分析していた。彼らは俺を見ているのではない。彼らが頭の中で作り上げた「異端者カガヤ」という偶像を見ているのだ。ある者にとっては救世主、ある者にとっては邪神の使い。
宇宙の片隅からやってきた宇宙商人カガヤ・コウという、ちっぽけな個人の真実など、この熱狂の中では何の意味も持たない。
サルディウスが描いた脚本の上で、俺はただ、道化を演じさせられているに過ぎない。腹立たしいが、同時に奇妙なほど心は凪いでいた。彼らの評価など、所詮はその程度だ。重要なのは、俺がこれから何を成し、何を証明するか。これもまた、一つの交渉。俺の命と、この世界の理を賭けた、壮大な取引なのだ。
やがて、大聖堂の巨大な扉の前にたどり着く。
見上げるほどの高さを持つその扉は、まるで巨大な獣の顎のように、俺を飲み込もうと待ち構えている。
俺は一度だけ空を見上げた。どこまでも青く澄んだ空。セレスティアが「神託」で視たという「星々の海」は、この空の遥か彼方にある。今は、それを想うだけだ。
扉が、重々しい音を立てて開かれる。
その向こうには、薄暗く、荘厳で、そして圧倒的な威圧感を放つ大審問室が広がっていた。ステンドグラスから差し込む光が、床に幻想的な模様を描き出す。そして、その最も奥。審問官の席で、サルディウスが、あたかもこの世の理を律する最後の審判者であるかのように、静かに俺を待ち構えていた。
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