第87話:籠の鳥の羽音
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聖女セレスティアと、あの地下礼拝堂で密かに会ってから、数日が過ぎた。
あの地下礼拝堂での密会が、今のところ、俺と彼女の最後の対話となっていた。だが、俺と彼女の間には、誰にも知られない、秘密の繋がりが生まれていた。それは、俺が軟禁されている部屋の窓から見える、中庭の風景に託されていた。
「アイ。セレスティアの様子は?」
俺は、窓の外を眺めながら、尋ねた。
《はい、マスター。彼女は、今朝も中庭のガゼボで読書をしています。ですが、その本は、以前とは違うものです》
俺の網膜インプラントに、ドローン型ナノマシンが捉えた映像が投影される。そこに映し出された本の表紙には、俺が彼女に教えた、簡単な図形が、花の栞を装う形で挟まれていた。
あれは、俺が彼女に与えた、最初の「課題」だった。
あの日、俺はセレスティアにこう伝えたのだ。
「あなたの力は、あなた自身の心と、この世界の理が、深く結びつくことで生まれる。まずは、自分の心を観察することから始めましょう。嬉しい時、悲しい時、心がどう動き、体のどこに力が集まるのか。それを、毎日、簡単な図形で日記のように記してみてください。言葉にする必要はありません。あなただけが分かる記号でいい」
それは、科学における内観的なバイオフィードバックの、ごく初歩的な応用だった。自らの心身の状態を客観的に認識させ、無意識の領域にある力の流れを、意識のレベルへと引きずり出すための訓練だ。
《彼女は、マスターの指示通り、毎日、感情の変化を記録しています。昨日、彼女が記した図形は『喜び』と『期待』を示していました。おそらく、マスターとの次の会話を心待ちにしているのでしょう》
「そうか…」
その報告に、俺の胸は静かな温かさで満ちされた。彼女は、俺を信じ、俺の言葉を実行してくれている。
「だが、次の指示を伝えられないことには、何も始まらない。このままでは、ただ状況が動くのを待つだけだ」
《はい、マスター。現状、我々から彼女へ能動的に接触する手段は存在しません》
この物理的な隔絶。デメリットだと思うかも知れないが、案外メリットもあると俺は考えている。何しろ、隔絶されていると言うことは、俺に接触するのも容易くはない。怪しい奴らに襲撃される確率も減るというものだ。また、できることが情報収集と分析くらいだったこともあり、結果、俺に盤上全体を見渡せる観測者の視点を与えてくれた。これは危機であると同時に、チャンスでもある。各勢力の欲望、弱点、そして行動パターン…今は、ただ情報を蓄積し、分析し、次の一手をシミュレートする時だ。好機は、必ず来る。
そんな俺の焦燥をよそに、事態は再び、セレスティア自身の意志によって動き始めた。
あの日から四日後の午後。俺の部屋を、再び、あのサルディウスの側近神官が訪れたのだ。その顔には、隠しきれない不審と苛立ちの色が浮かんでいる。
「カガヤ。聖女セレスティア様が、再び貴様との謁見を望んでおられる。場所は、前回と同じ、地下の礼拝堂だ。…聖女様が、貴様のような異端者と、これほど頻繁に会うことを望まれるとは。一体、どんな妖術を使った?」
神官の問いに、俺はただ静かに微笑んで見せた。
◇
月明かりだけが差し込む、地下の礼拝堂。
再び二人きりになると、セレスティアは、少し興奮した面持ちで、俺に駆け寄ってきた。そして、俺が何か言う前に、彼女は不意に俺の手を取った。
「カガヤ様!」
その手は、ひんやりとしていて、けれど微かに震えていた。聖女という立場からすれば、あまりに大胆な行動だ。
「あなたの言う通りにしてみました。そうしたら…少しだけ、分かるようになったのです。自分の心が、どう動いているのかが!」
彼女の瞳は、初めて見るおもちゃを与えられた子供のように、純粋な喜びに輝いていた。俺は、その突然の行動と、握られた手の熱に、少しだけ戸惑った。
「…それは良かった。大きな一歩ですよ、聖女様」
俺がそう言うと、彼女はハッとしたように、慌てて俺の手を離した。その頬が、薄暗い中でもほんのりと赤く染まっているのが分かった。
「それで、その…次は何をすれば良いのでしょうか?」
彼女のその真っすぐな問いに、俺は頷くと、祭壇の方を指さした。
「次の訓練は、あの祭壇の前で行います。今度は、自分の内側ではなく、外から来る力に、意識を集中してみてください。あなたの体と、この礼拝堂、そして、この王都のどこかにある『何か』が、呼び合っているはずです。その力の流れを感じ取るのです」
「外からの、力の流れ…?」
「ええ。あなたの力は、あなただけのものじゃない。もっと大きな、何かと繋がっている。その繋がりを感じ取ることができれば、あなたは力の主となる、次の段階へ進めるでしょう」
俺の言葉に、セレスティアは真剣な表情で頷くと、祭壇の前にひざまずき、静かに目を閉じた。彼女の周りの空気が、わずかに揺らめき始める。
俺は、その様子を注意深く観察しながら、アイに分析を指示した。
《マスター。彼女の生体エネルギーが、祭壇の地下深くにある、巨大なエネルギー源と、明確な共鳴を開始しました。彼女は、我々の予想を遥かに超える速さで、自らの力の使い方を学び始めています》
「素晴らしい才能だ…。彼女なら、あるいは…」
その時だった。
《緊急報告です、マスター。北の公爵家、ドラクシア家の一行が、教会への寄付を名目に、聖女セレスティア様への私的な謁見を求めてきました。謁見は、明日の昼。場所は、あの中庭のガゼボです》
「何だと!?」
ついに、公爵家が動いたか。
〈ドラクシア家とはどんな家だ?〉
《北の公爵家、ドラクシア家。当主はレダフォルン・アディ・ドラクシア。北方の過酷な国境地帯を治める、最も排他的で油断ならない勢力です。常に王家や他公爵家とは距離を置き、自家の勢力拡大のみを追求しています。領内には邪神教の隠れ里があるとも噂され、その軍事力には、魔術を操る謎の部隊も含まれているとされています。マスターの知識を渇望していますが、その真意は計り知れません》
アイからの報告が、俺の思考に冷水を浴びせた。
北の公爵家、ドラクシア。最も排他的で、邪神教との黒い噂さえ囁かれる油断ならない連中。そんな彼らが、聖女の価値を、そして恐らくはその背後にいる俺の知識の価値を、自らの目で値踏みしに来る。
俺は、祈りを続けるセレスティアの横顔を見つめた。彼女を、こんな得体の知れない連中との取引の道具にはしたくない。だが、この謁見は、膠着した状況を覆す、千載一遇の好機でもある。俺の心に、再び葛藤が渦巻く。一人の人間として彼女を救いたいという想いと、毒蛇の巣に手を突っ込んででも利を得ようとする、商人としての冷徹な打算。
「…カガヤ様?」
俺の険しい表情に気づいたのか、セレスティアが、不安そうな顔でこちらを見ていた。
俺は、一つ、大きな決断をした。
「聖女様。少し、よろしいですか。あなたに、お伝えしておかなければならないことがあります」
俺の真剣な口調に、セレスティアも表情を改め、向き直った。
「はい。何でしょうか?」
「私の情報網が、一つの知らせを掴みました。おそらく、明日、北の公爵であるドラクシア家が、あなたに謁見を申し込んでくるはずです」
「ドラクシア家が…? でも、なぜそれをあなたが…?」
彼女の瞳に、当然の疑問が浮かぶ。俺は、その問いには直接答えず、話を続けた。
「重要なのは、彼らがなぜこの時期に、あなたに会いに来るか、です。今、この王都は、私の存在を巡って、教会と貴族たちの力の均衡が大きく揺らいでいる。そして、ドラクシア家は、その天秤の行き先を、最も注意深く見ている勢力です」
「私が、その天秤と…何か関係が?」
「ええ。教会は、俺という『異端者』に対抗するため、あなたという『聖女』を最強の切り札として、民衆に見せつけました。聖女様。今まで、公衆の面前で多くの人々に奇跡の光を与えたことはありましたか?」
「いいえ。慰問をしたり、数名の方に癒やしを施したことはよくありましたが、一度にあのような多くの方々に癒やしを施したのは、あの日が初めてです」
「やはりそうなんですね。そのこと自体が、あなたを最強の切り札として切ったという証拠となります」
「そんな……。私はタダ癒やしを与えたかっただけで……」
「ええ。あなたはそうでしょう。しかし、彼ら貴族にとって、あなたはもはやただの聖女ではない。教会が手にした、最も価値のある駒なのです」
「私が…駒…」
セレスティアの顔から、血の気が引いた。俺は、あえて厳しい現実を突きつける。
「そうです。だから、彼らはあなたを試しに来る。『この聖女は、どれほどの価値があるのか』と。商人としての言葉で言うなら、これは、あなたへの『値踏み』です。そして、その舞台は、俺が俺の価値を示すための、絶好の機会でもある」
俺の言葉を、セレスティアは一つ一つ、確かめるように受け止めていた。そして、すべてを理解した上で、彼女は、静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「…分かりました。ならば、見せて差し上げましょう。私が、ただの『駒』ではないということを。そして、あなたが、ただの『異端者』ではないということを」
その瞳には、もう迷いの色はなかった。
俺は、彼女と、ただの共犯者ではない、利害を共にし、未来を切り拓くための「ビジネスパートナー」になったのだ。
俺は、彼女の言葉を、胸に刻むように、強く頷いた。
籠の中の鳥は、もういない。
近い将来、この盤上の景色は、根底から覆ることになるだろう。
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