第85話:二人の異端児
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聖女セレスティアが「奇跡」を披露した翌日から、王都の空気は一変した。
大聖堂前の広場には、聖女の起こした奇跡の余韻を求め、一日中祈りを捧げる信徒たちの姿が絶えない。街の酒場や市場では、あの日の出来事が、尾ひれをつけられ神話のように語られていた。
「聖女様の光を浴びたら、長年痛んでいた古傷が消えた」
「不治の病の母親が、床から起き上がれるようになった」
人々の口から語られる逸話は、俺がヴェリディアで得た限定的な名声など、霞んでしまうほどの熱狂を伴っていた。そして、その熱狂は、そのまま俺への敵意へと変換されていた。
「辺境の『まやかし使い』は、聖女様の御前で、己の罪を悔いたそうだ」
「邪神の力は、本物の奇跡の前では無力だった、とな」
サルディウスが望んだ通り、俺は「偽物」の烙印を押され、民衆の信仰心は、聖女セレスティアという一つの焦点へと、熱狂的に収束しつつあった。
俺の網膜インプラントに映し出されるドローンからの映像は、その様子を克明に捉えていた。サルディウスは、この機を逃すまいと、連日、有力な貴族やギルド長たちを教会に招き、聖女との謁見を許可していた。それは、彼の、そして教会の権威を盤石にするための、巧みな政治ショーに他ならなかった。
俺は、鳥籠の中から、そのすべてを観測し続けていた。しかし、情報という武器はあっても、それを活かす術がない。この物理的に隔離された空間では、俺は盤上の駒の動きをただ眺めることしかできないのだ。
そんな、閉塞感に満ちた日々が、さらに数日続いたある日の午後。
俺の部屋の扉が、唐突に開かれた。
立っていたのは、あのサルディウスの側近である、壮年の神官だった。その手には、簡素だが清潔な、一揃いの衣服が抱えられている。
「…着替えろ、カガヤ。聖女セレスティア様が、貴様のような異端者にも、慈悲を与えたいと仰せだ。特別に、謁見の栄誉を授けてくださる」
その言葉は、あまりに予想外だった。
(聖女が、俺に…? なぜだ? サルディウスの差し金か? それとも…)
思考を巡らせるが、答えは出ない。だが、断るという選択肢はなかった。これは、膠着した状況を動かす、唯一の機会かもしれない。俺はそう考え、謁見を了承した。
俺は、用意された衣服に着替え、神官の後について行く。
連れて行かれたのは、大聖堂の奥深く、一般の信徒は決して立ち入ることのできない、静かな中庭だった。
そこは、まるで時が止まったかのような、美しい空間だった。色とりどりの花々が咲き乱れ、中央の噴水が、キラキラと光を反射しながら、涼やかな音を立てている。その庭の一角にある、白いガゼボの椅子に、聖女セレスティアは一人で静かに座っていた。
傍らには、サルディウスの姿も、神殿騎士の姿もない。ただ、庭の四隅に、風景に溶け込むようにして、監視役の神官が数名、立っているだけだった。
「…聖女様。例の男を、お連れしました」
側近の神官が、恭しく頭を垂れる。
セレスティアは、手にしていた一冊の古い本から顔を上げると、俺の姿を認め、その碧色の瞳をわずかに見開いた。そして、小さく頷くと、静かな声で言った。
「ご苦労様。少し、この者と二人だけで話をします。あなた方は、下がっていてください」
「しかし、聖女様! この男は危険です!」
「構いません。神の御前で、偽りを述べる者などおりません。それに、この庭は、神の御力で守られています。大丈夫ですよ」
彼女の、穏やかだが有無を言わせぬ響きに、神官は一瞬ためらったが、やがて不承不承といった様子で頭を下げ、他の監視役たちと共に、庭の入り口まで後退していった。
ガゼボの中には、俺と彼女、二人だけが残された。
気まずい沈黙が流れる。先に口を開いたのは、彼女の方だった。
「…あなたが、カガヤ、ですね」
その声は、バルコニーで聞いたような、民衆を導くための力強いものではなく、どこか儚げで、透き通るような響きを持っていた。
「はい。あなたが、聖女セレスティア様、でよろしいですか」
俺は、貴族と話す時のように、丁寧な言葉を選んで返した。
「…先日の、癒しの儀式。あなたも、見ていたと聞きました」
「ええ。素晴らしい『奇跡』でした。多くの人々が、あなたの力で救われた」
俺は、あえて彼女の力を肯定する言葉を口にした。俺の答えに、彼女は少しだけ驚いたように目を見開くと、ふっと寂しそうに微笑んだ。
「…あれは、奇跡などでは…」
彼女はそこまで言うと、不意に言葉を切り、ぎゅっと唇を噛んだ。その美しい顔に、深い苦悩と、そして何かに対する恐怖の色が浮かぶ。彼女は俺の視線から逃れるように、わずかに俯いた。
数秒の沈黙。何を言うべきか、あるいは、言ってはいけないのか。その葛藤が、彼女の華奢な肩を微かに震わせているように見えた。
やがて、彼女は意を決したように、再び顔を上げた。その瞳は潤んでいたが、そこには確かな意志の光が宿っていた。
「…あれは、奇跡などではありません。少なくとも、私の起こした奇跡ではないのです」
彼女の口から漏れたのは、信じられない告白だった。
「あれは、私が起こしているのではないのです。私を通して、何かが、起こっているだけなのです。私には、自分の意志であの力を制御することはできません。ただ、求められるままに…器として……、そう、器として身を委ねているに過ぎないのです」
その告白に、俺は息を呑んだ。
彼女は、自分の力の正体を、理解していない。だが、それが自分の意志によるものではないことには、薄々気づいているのだ。そして、そのことに、深い孤独と苦しみを抱えている。
俺は、目の前の少女が、ただの「教会の象徴」ではない、一人の人間なのだと、改めて認識した。
「あなたの力は、とても温かい光でした」
俺は、静かに言った。
「ですが、あの光を放った後、あなたの顔は、ひどく疲れているように見えました。あれは、あなたの生命力を削っているのではないですか?」
俺の言葉に、セレスティアは、これまで誰にも見せたことのないような、驚きに満ちた表情で、俺の顔をまじまじと見つめた。
「…どうして、そんなことまで…。今まで誰も、気づいてはくれませんでした」
彼女は、驚きと、そして戸惑いが入り混じった表情で俺を見つめた。
「私の体のことなど…。皆、私が起こす奇跡にしか、興味がありませんでしたから…」
その声は、微かに震えていた。
俺は、彼女に一歩近づいた。
「聖女様。あなたのその力は、おそらく、この地に眠る『神々の遺物』が持つ大いなる力と、あなた様ご自身の魂が、まるで呼び合うようにして生まれる働きなのでしょう。それは、人の理解を超えた奇跡というより、まだ誰も知らない『仕組み』だと思います。そして、仕組みがあるものならば、必ずその手綱を握る方法もあるはずです」
俺は、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「聖女様……。私には、その手助けができるかもしれません」
「…本当、ですか?」
「ええ。ただし、そのためには、あなた自身が、自分の力を知ろうとしなければならないでしょう。器であることをやめ、自らの意志で、その力の主となる覚悟が」
その時だった。
「…聖女様! そろそろ、お時間です!」
庭の入り口から、側近の神官の、鋭い声が飛んできた。俺たちの密談が、長すぎると判断したのだろう。
セレスティアは、名残惜しそうに俺を見ると、最後に、小さな声で、しかしはっきりとした意志を込めて、こう言った。
「…また、お話がしたいです。まだ、お聞きしたいことが、たくさんありますから」
それは、聖女としてではなく、セレスティアという一人の少女としての、切実な願いだった。
部屋に戻った俺は、アイに問いかけた。
〈アイ。今の会話、どう分析する?〉
《彼女は、マスターに対し、極めて高い関心と、そして信頼を抱き始めています。彼女は、自らの力の正体と、それを制御する方法を、心の底から求めているのでしょう。マスターは、彼女にとって、唯一の希望となりうる存在だと推測します》
この王都で、教会が絶対の切り札とする、聖女セレスティア。
彼女を、ただの「器」や「象徴」から解放し、一人の人間として、その心と力を救い出すこと。この世界で、それができるのは、おそらく俺しかいない。その可能性こそが、最大の『価値』であり、最高の『取引材料』だ。
だが、それはもう、ただの取引ではない。
俺は、静かな闘志を宿した笑みを浮かべた。
「反撃の序曲を、始めようか」
籠の中の鳥は、同じく籠の中にいる、もう一羽の鳥と出会った。
二羽の鳥が共に羽ばたく時、この盤上の景色は、根底から覆ることになるだろう。
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