第84話:聖女の奇跡、賢者の理屈
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俺は軟禁されている部屋の窓辺に立ち、眼下に広がる王都の街並みを、ただぼんやりと眺めているように見せかけながら、その実、網膜インプラントに投影された膨大な情報を処理し続けていた。
スティンガーⅣが収集した、この巨大な都市の神経網を流れる、無数のささやき、密談、そして陰謀。それら大量のデータは、アイによって再編成され、一つの巨大な権力の相関図を形作っていく。
《マスター。北の公爵、ドラクシア家が、サルディウス審問官の側近と再び接触。マスターの持つ『分離薬学』の技術情報を、教会を通じて独占的に入手する見返りに、南のゼラフィム家に対する偽の嫌疑を捏造する計画に、正式に合意した模様です》
《東のラゼルナ家は、金獅子商会と連携。マスターの治療によって価値が高まったヴェリディア産の薬草を買い占め、市場価格を操作しようと画策しています》
《王家は、依然として沈黙。教会と貴族の争いを静観し、双方が疲弊するのを待っているかのようです》
次々と流れ込む情報。それは、俺という存在が、この王都の権力者たちにとって、彼らの欲望を叶えるための、便利な「道具」あるいは「駒」としてしか認識されていないという、残酷な現実を突きつけていた。
そんなある日の昼下がり。街の空気が、いつもと違うことに気づいた。
大聖堂の鐘が、荘厳に、そして連続して鳴り響いている。その音は、定時を告げるものではない。何か特別な出来事の始まりを告げるかのように、王都全体に響き渡っていた。
窓の外に目をやると、人々が家々から出てきて、皆、同じ方向へと向かっていく。その視線の先、俺が軟禁されている塔が隣接する大聖堂へと、人々は向かっている。
老人、子供、商人、職人。身なりの良い者も、貧しい者も、誰もが皆、何かに引き寄せられるように、不安と期待が入り混じった表情で、大聖堂前の広場へと集まっていく。
〈アイ、何が始まる?〉
《不明です、マスター。しかし、大聖堂前の広場に、大規模な集会が形成されつつあります。民衆の数は、すでに数千規模に達しています》
その時だった。俺の部屋の扉が、いつもとは違う、重々しい音でノックされた。入ってきたのは、サルディウスの側近である壮年の神官だった。
「カガヤ。筆頭審問官様がお呼びだ。ついてくるように」
その有無を言わせぬ口調に、俺は静かに立ち上がった。ついに、次なる動きがあったのだ。
俺が連れて行かれたのは、大聖堂の最上階にある、巨大なバルコニーだった。眼下には、王都の壮麗な街並みと、大聖堂の前に集まった、無数の民衆の姿が見える。彼らは皆、固唾を飲んで、このバルコニーを見上げていた。
《マスター。ここに集まっている民衆の多くは、病気、怪我、もしくは貧困による栄養失調などの体調不良を抱えています》
アイからの報告に、俺は眉をひそめた。バルコニーに目をやると、その中央には、サルディウスが、まるで世界の王のように腕を組んで立っていた。
「…壮観だろう、カガヤ。神の御威光の下に集った、罪なき子羊たちだ」
彼は、俺を振り返り、歪んだ笑みを浮かべた。
「辺境で君が起こしたという『まやかし』の噂は、この王都にまで届き、信徒たちの心を騒がせている。だが、その不安も今日で終わりだ。今日、彼らは真の奇跡を目の当たりにし、どちらが神に選ばれし者かを知ることになる」
〈何言ってるんだ。ヴェリディアから、少なくとも200キロメートルは離れている。ここ王都に10日かそこらで噂が広がるはずはないだろう!〉俺は心の中で叫ぶ。
《マスター。その噂は、正教会自らが流布しています》
〈だろうな、マッチポンプというわけか〉
自ら不安を煽り、自らそれを鎮めることで、民衆の信仰心を掌握する。その古典的で悪辣な手口に、俺は内心苦々しく思っていると、バルコニーの奥の扉が、ゆっくりと開かれた。
そこから現れたのは、純白の法衣に身を包んだ、一人の少女だった。
歳は、クゼルファと同じくらいだろうか。陽光を浴びて輝く、プラチナブロンドの髪。宝石のように澄んだ、碧色の瞳。そして、人間離れした、神聖なまでの美貌。
彼女がバルコニーに一歩足を踏み入れた瞬間、眼下の民衆から、どよめきと歓声が沸き起こった。
「聖女様だ…!」
「おお、セレスティア様…!」
人々は地にひざまずき、涙ながらに祈りを捧げ、その名を呼ぶ。その熱狂は、もはや信仰というより、狂信に近いものがあった。
聖女、セレスティア。彼女こそが、サルディウスが、そして正教会が用意した、俺という存在を打ち消すための、最強の切り札だったのだ。
彼女は、民衆の声に応えるように静かに微笑むと、バルコニーの最前列へと歩み出た。そして、その両手を天に掲げ、澄み渡る、しかし不思議なほど広場全体に響き渡る声で言った。
「神の御前に集いし、愛しき子羊たちよ。汝らの苦しみ、迷い、そのすべてを、このセレスティアが、大いなる光と共にあがないましょう」
その声は、民衆を導くための、絶対的なカリスマと慈愛に満ちていた。彼女がそう宣言すると、信じられないことが起こった。
彼女の体から、温かく、そして神々しい光が放たれた。その光は、見る者の心を優しく包み込み、魂の奥底まで洗い清めるような、絶対的な肯定の力に満ちていた。光は天に舞い上がると、無数の光の粒子となって、大聖堂前の広場一帯に、まるで柔らかな雪のように降り注いだ。
その光を浴びた人々は、恍惚とした表情で天を仰ぎ、涙を流してひざまずく。怪我をしていた者の傷が癒え、病に苦しんでいた者の顔に生気が戻る。
それは、俺がヴェリディアで行った、どんな治療よりも大規模で、そして圧倒的に「奇跡的」な光景だった。俺の科学が、論理と事実の積み重ねであるとするならば、彼女のそれは、理屈を超えた、絶対的な信仰の顕現だった。
「どうだ、カガヤ」
サルディウスが、勝ち誇ったように俺に言った。
「これこそが、神の御業。神に選ばれし聖女だけが起こせる、真の奇跡だ。貴様の小賢しい技術など、この光の前では、闇夜の蝋燭の灯にも等しい。貴様は、もう終わりだ」
俺は、何も答えられなかった。圧倒的な光景を前に、俺の脳裏に、一つの疑問が浮かんでいた。
〈あれは、本当に神の力なのか? それとも…〉
《マスター。現在観測中の現象について、分析結果を報告します》
アイの冷静な声が、俺の思考に割り込んできた。
《彼女から放出されているのは、極めて高密度のエネルギーです。対象の生体組織に直接作用し、細胞レベルでの修復を促している点において、マスターが使用する医療用ナノマシンの効果と類似しています。ただし…》
「ただし、何だ?」
《エネルギーの供給源が不明です。彼女自身の生体エネルギーだけでは、これほどの規模の現象は説明不可能です。この星の『魔素』が、何らかの形で関与している可能性が極めて高いと推測されます。あるいは、我々の知らない、未知のエネルギー源が…》
やはり、そうか。これは、奇跡などではない。俺の知らない、未知の科学、あるいは物理法則に基づいた現象に違いない。
俺は、民衆の熱狂とは裏腹に、冷めた瞳でその光景を見つめていた。あれが解析可能な物理現象であるならば、制御することも、再現することも可能なはずだ。
だが、そんなことを今、誰が信じる?
聖女セレスティア。彼女こそが、この世界の最大の謎を解く鍵なのかもしれない。 俺の胸に、元科学者としての探究心が、再び熱く燃え上がっていた。
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