表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
84/283

幕間3-2:ヴェリディアの残響

お読みいただき、ありがとうございます。

朝・昼・夕の1日3回の更新を目指しています。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

カガヤ・コウが王都へと旅立ってから、半月が過ぎた。


ヴェリディアの街は、一見すると何事もなかったかのように、いつもの日々を繰り返していた。市場には活気ある声が飛び交い、冒険者ギルドの扉は相変わらずひっきりなしに開閉を繰り返す。異端審問官がもたらした嵐は、彼の不在と共に過ぎ去り、街は表面上の平穏を取り戻していた。


だが、その日常の風景の、そこかしこに。

あの異邦人が残していった影響は、静かな、しかし確かな存在感を放ち続けていた。



冒険者ギルドの重い扉が、悲鳴のような音を立てて開かれた。


「誰か! 誰か助けてくれ! ポーションを! いや、解毒薬を!」


屈強な冒険者の男が、顔面蒼白の仲間を抱きかかえ、転がり込んでくる。仲間は腕を毒々しい紫色に腫れ上がらせ、苦悶の息を漏らしていた。


樹鱗毒蛇(バーク・ヴァイパー)だ! 森で薬草を採取中に!」


ギルド内が、一瞬にして騒然となる。樹鱗毒蛇(バーク・ヴァイパー)の毒は進行が早く、並の解毒薬では効果が薄い。誰もが、また一人、腕利きの冒険者が命を落とすのかと、暗い予感を抱いた。


だが、受付カウンターのキアラだけは冷静だった。彼女は慌てることなく、カウンターの奥にある鍵のかかった棚から、一つの小瓶を取り出す。


「これを!」


仲間の冒険者が、震える手でそれを受け取り、毒に侵された男の口へと流し込む。すると、数分もしないうちに、彼の苦しげだった呼吸は穏やかになり、腕の腫れも見る見るうちに引いていった。


ギルド内は、安堵のため息と、奇跡を目の当たりにしたかのような賞賛の声に包まれた。


「すげえ…本当に効きやがった」

「あれが、例のカガヤの…」


キアラは、安堵の表情を浮かべながらも、空になった小瓶が並ぶ棚を見つめ、そっと呟いた。

「…でも、この在庫も、いつまで持つかしら…」


その声は、ギルドの喧騒に掻き消され、誰の耳に届くこともなかった。



薬師ギルドの研究室では、数人の薬師たちが、一枚の羊皮紙を囲んで頭を悩ませていた。


「この薬草の抽出法、カガヤ殿の理論を応用すれば、純度をさらに高められるはずなのだが…」

「ううむ、この『薬効を成す根源構造の安定化』という部分が、どうしても理解できん」

「そうだ、カガヤ殿にご助言を…あ…」


一人の若い薬師が、習慣でそう口にして、はっと口をつぐんだ。そうだ、彼はもういない。あの、どんな難問にも明快な「理」を示してくれた、異邦の賢者は。


彼がいなくなってから、ギルドの研究は停滞しているわけではない。むしろ、彼が遺した「分離薬学」という新たな学問は、多くの薬師に希望と探究心を与え、ギルド全体が活気に満ちている。


だが、何かが足りなかった。


未知の壁にぶつかった時、常識を覆すような発想で道を切り拓いてくれた、あの圧倒的な知性。その不在が、研究室の空気から、確かな活気を奪っているように感じられた。



「――ボーッとするな、クゼルファ!今は戦いの最中だぞ!」


グスタフの鋭い声が、クゼルファの意識を現実へと引き戻した。


ハッと我に返ると、巨大な剛爪魔熊(グリズリー・クロウ)の鉤爪が、顔のすぐ横を掠めていく。もし、グスタフが盾で一瞬その軌道を逸してくれなければ、今頃彼女の顔は引き裂かれていただろう。


「…ごめんなさい!」


クゼルファは大剣を握り直し、仲間たちに謝罪した。


カガヤがヴェリディアを去ってから、彼女は元のパーティーに戻り、クエストをこなす日々を送っていた。仲間たちは、以前と変わらず温かく迎え入れてくれた。それなのに、彼女の心は、どこかこの場所にない。


戦いの最中でも、ふと、彼のことを考えてしまう。


今頃、王都でどうしているだろうか。無事だろうか。一人で、困難に立ち向こっているのではないか。

そんな想いが、彼女の剣を鈍らせていた。


「クゼルファ、無理はするな。お前の気持ちは、分かる」


戦闘の後、グスタフが、その大きな体躯に似合わない優しい声で言ってくれた。シファも、心配そうに彼女の顔を覗き込む。


その優しさが、今は少しだけ、辛かった。



「最近、どうですの? クゼルファ」


辺境伯邸の庭園。陽光が降り注ぐ東屋で、エラルが穏やかな笑みを浮かべて紅茶を勧めてくれた。すっかり元気になった彼女とのこのお茶会は、今のクゼルファにとって、唯一心が安らぐ時間だった。


「いつもと何も変わらないわよ。クエストを受けて、魔獣を狩って…」


そう答えたが、その声がどこか虚ろに響いていることに、彼女自身も気づいていた。


「本当に、そうですの? なんだか、貴女から以前のような迷いのない輝きが感じられない気がして。わたくしの気のせいかしら」


エラルの優しい指摘に、クゼルファはドキリとしてカップを持つ手を止めた。


「そ、そんなことはないわ! 鍛錬は毎日欠かしていないし、クエストだって…」


「ええ、分かっていますわ。貴女が誰よりも真面目なことは。でも、体がここにあっても、心が別の場所にあっては、本当の力は出せないものでしょう?」


「……」


エラルの穏やかで、それでいて全てを見透かすような瞳に、クゼルファは言葉を失った。


エラルは確信を持って、静かに言葉を続けた。

「…カガヤ様のこと、ですわよね」


その言葉は、優しく、しかし鋭く、クゼルファの心の最も柔らかい部分を抉った。


「カガヤ様が心配で、その剣が鈍っている方が、よほど務めを果たせていないのではなくて?」


その言葉に、クゼルファはぐっと唇を噛んだ。図星だった。


「でも、私があの王都へ行ったところで、一体何ができるというの? 異端審問は、言葉と信仰の戦い。私の剣が届く場所ではないわ…」


必死に、自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。行けない理由を、並べ立てる。


「カガヤ様は、今、王都で一人で戦っておられます。貴女は、彼の剣となり、盾となると誓ったはず。剣とは、ただ魔獣を斬るためだけのものですか? 盾とは、ただ物理的な攻撃を防ぐためだけのものですか?」


エラルは、静かに、しかし力強く続けた。


「今の貴女は、彼の隣に立つための準備ができていないと、ご自分で認めているようなものですわ。本当に彼の『盾』になりたいのであれば、まずはご自身を磨き上げるべきではありませんか? どんな困難が彼の前に現れようとも、貴女が必ず駆けつけ、その全てを斬り払えると、胸を張って言えるように」


エラルの言葉は、クゼルファの心に深く突き刺さった。


そうだ。私は、何を甘えていたのだろう。


彼の隣に立つ資格がないと嘆く前に、その資格を掴み取るための努力を、私はどれだけしてきたというのだろう。彼がいないこの街で、ただ彼の身を案じて剣を鈍らせているだけでは、何も変わらない。彼の隣に立つと決めたのなら、今のままではダメだ。もっと強くならなければ。彼がいつ、どんな困難に直面しても、必ず駆けつけて支えられるように。


クゼルファは、カップを静かにテーブルに置くと、意を決して顔を上げた。


その瞳には、もう迷いはなかった。


「エラル…ありがとう。私の目は、覚めたわ」


「ええ。貴女なら、そう言うと思っていましたわ」


エラルは、満足そうに微笑んだ。


その日の夕暮れ、クゼルファは冒険者ギルドの訓練場で、一人、汗を流していた。

手にした剣が、ずしりと重い。だが、それは心地よい重みだった。


(カガヤ様)

(今の私では、あなたの隣には立てない)

(だから、ここで強くなります。次に会う時、胸を張ってあなたの剣だと言えるように)


クゼルファの瞳に、再び戦士の炎が灯った。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

「☆☆☆☆☆」からの評価やブックマークをしていただけると、今後の創作の大きな励みになります。

感想やレビューも、心からお待ちしています!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ