幕間3-2:ヴェリディアの残響
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カガヤ・コウが王都へと旅立ってから、半月が過ぎた。
ヴェリディアの街は、一見すると何事もなかったかのように、いつもの日々を繰り返していた。市場には活気ある声が飛び交い、冒険者ギルドの扉は相変わらずひっきりなしに開閉を繰り返す。異端審問官がもたらした嵐は、彼の不在と共に過ぎ去り、街は表面上の平穏を取り戻していた。
だが、その日常の風景の、そこかしこに。
あの異邦人が残していった影響は、静かな、しかし確かな存在感を放ち続けていた。
◇
冒険者ギルドの重い扉が、悲鳴のような音を立てて開かれた。
「誰か! 誰か助けてくれ! ポーションを! いや、解毒薬を!」
屈強な冒険者の男が、顔面蒼白の仲間を抱きかかえ、転がり込んでくる。仲間は腕を毒々しい紫色に腫れ上がらせ、苦悶の息を漏らしていた。
「樹鱗毒蛇だ! 森で薬草を採取中に!」
ギルド内が、一瞬にして騒然となる。樹鱗毒蛇の毒は進行が早く、並の解毒薬では効果が薄い。誰もが、また一人、腕利きの冒険者が命を落とすのかと、暗い予感を抱いた。
だが、受付カウンターのキアラだけは冷静だった。彼女は慌てることなく、カウンターの奥にある鍵のかかった棚から、一つの小瓶を取り出す。
「これを!」
仲間の冒険者が、震える手でそれを受け取り、毒に侵された男の口へと流し込む。すると、数分もしないうちに、彼の苦しげだった呼吸は穏やかになり、腕の腫れも見る見るうちに引いていった。
ギルド内は、安堵のため息と、奇跡を目の当たりにしたかのような賞賛の声に包まれた。
「すげえ…本当に効きやがった」
「あれが、例のカガヤの…」
キアラは、安堵の表情を浮かべながらも、空になった小瓶が並ぶ棚を見つめ、そっと呟いた。
「…でも、この在庫も、いつまで持つかしら…」
その声は、ギルドの喧騒に掻き消され、誰の耳に届くこともなかった。
◇
薬師ギルドの研究室では、数人の薬師たちが、一枚の羊皮紙を囲んで頭を悩ませていた。
「この薬草の抽出法、カガヤ殿の理論を応用すれば、純度をさらに高められるはずなのだが…」
「ううむ、この『薬効を成す根源構造の安定化』という部分が、どうしても理解できん」
「そうだ、カガヤ殿にご助言を…あ…」
一人の若い薬師が、習慣でそう口にして、はっと口をつぐんだ。そうだ、彼はもういない。あの、どんな難問にも明快な「理」を示してくれた、異邦の賢者は。
彼がいなくなってから、ギルドの研究は停滞しているわけではない。むしろ、彼が遺した「分離薬学」という新たな学問は、多くの薬師に希望と探究心を与え、ギルド全体が活気に満ちている。
だが、何かが足りなかった。
未知の壁にぶつかった時、常識を覆すような発想で道を切り拓いてくれた、あの圧倒的な知性。その不在が、研究室の空気から、確かな活気を奪っているように感じられた。
◇
「――ボーッとするな、クゼルファ!今は戦いの最中だぞ!」
グスタフの鋭い声が、クゼルファの意識を現実へと引き戻した。
ハッと我に返ると、巨大な剛爪魔熊の鉤爪が、顔のすぐ横を掠めていく。もし、グスタフが盾で一瞬その軌道を逸してくれなければ、今頃彼女の顔は引き裂かれていただろう。
「…ごめんなさい!」
クゼルファは大剣を握り直し、仲間たちに謝罪した。
カガヤがヴェリディアを去ってから、彼女は元のパーティーに戻り、クエストをこなす日々を送っていた。仲間たちは、以前と変わらず温かく迎え入れてくれた。それなのに、彼女の心は、どこかこの場所にない。
戦いの最中でも、ふと、彼のことを考えてしまう。
今頃、王都でどうしているだろうか。無事だろうか。一人で、困難に立ち向こっているのではないか。
そんな想いが、彼女の剣を鈍らせていた。
「クゼルファ、無理はするな。お前の気持ちは、分かる」
戦闘の後、グスタフが、その大きな体躯に似合わない優しい声で言ってくれた。シファも、心配そうに彼女の顔を覗き込む。
その優しさが、今は少しだけ、辛かった。
◇
「最近、どうですの? クゼルファ」
辺境伯邸の庭園。陽光が降り注ぐ東屋で、エラルが穏やかな笑みを浮かべて紅茶を勧めてくれた。すっかり元気になった彼女とのこのお茶会は、今のクゼルファにとって、唯一心が安らぐ時間だった。
「いつもと何も変わらないわよ。クエストを受けて、魔獣を狩って…」
そう答えたが、その声がどこか虚ろに響いていることに、彼女自身も気づいていた。
「本当に、そうですの? なんだか、貴女から以前のような迷いのない輝きが感じられない気がして。わたくしの気のせいかしら」
エラルの優しい指摘に、クゼルファはドキリとしてカップを持つ手を止めた。
「そ、そんなことはないわ! 鍛錬は毎日欠かしていないし、クエストだって…」
「ええ、分かっていますわ。貴女が誰よりも真面目なことは。でも、体がここにあっても、心が別の場所にあっては、本当の力は出せないものでしょう?」
「……」
エラルの穏やかで、それでいて全てを見透かすような瞳に、クゼルファは言葉を失った。
エラルは確信を持って、静かに言葉を続けた。
「…カガヤ様のこと、ですわよね」
その言葉は、優しく、しかし鋭く、クゼルファの心の最も柔らかい部分を抉った。
「カガヤ様が心配で、その剣が鈍っている方が、よほど務めを果たせていないのではなくて?」
その言葉に、クゼルファはぐっと唇を噛んだ。図星だった。
「でも、私があの王都へ行ったところで、一体何ができるというの? 異端審問は、言葉と信仰の戦い。私の剣が届く場所ではないわ…」
必死に、自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。行けない理由を、並べ立てる。
「カガヤ様は、今、王都で一人で戦っておられます。貴女は、彼の剣となり、盾となると誓ったはず。剣とは、ただ魔獣を斬るためだけのものですか? 盾とは、ただ物理的な攻撃を防ぐためだけのものですか?」
エラルは、静かに、しかし力強く続けた。
「今の貴女は、彼の隣に立つための準備ができていないと、ご自分で認めているようなものですわ。本当に彼の『盾』になりたいのであれば、まずはご自身を磨き上げるべきではありませんか? どんな困難が彼の前に現れようとも、貴女が必ず駆けつけ、その全てを斬り払えると、胸を張って言えるように」
エラルの言葉は、クゼルファの心に深く突き刺さった。
そうだ。私は、何を甘えていたのだろう。
彼の隣に立つ資格がないと嘆く前に、その資格を掴み取るための努力を、私はどれだけしてきたというのだろう。彼がいないこの街で、ただ彼の身を案じて剣を鈍らせているだけでは、何も変わらない。彼の隣に立つと決めたのなら、今のままではダメだ。もっと強くならなければ。彼がいつ、どんな困難に直面しても、必ず駆けつけて支えられるように。
クゼルファは、カップを静かにテーブルに置くと、意を決して顔を上げた。
その瞳には、もう迷いはなかった。
「エラル…ありがとう。私の目は、覚めたわ」
「ええ。貴女なら、そう言うと思っていましたわ」
エラルは、満足そうに微笑んだ。
その日の夕暮れ、クゼルファは冒険者ギルドの訓練場で、一人、汗を流していた。
手にした剣が、ずしりと重い。だが、それは心地よい重みだった。
(カガヤ様)
(今の私では、あなたの隣には立てない)
(だから、ここで強くなります。次に会う時、胸を張ってあなたの剣だと言えるように)
クゼルファの瞳に、再び戦士の炎が灯った。
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