第76話:隘路を照らす道標
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夜が明け、朝の光がヴェリディアの街を照らし始めた頃、教会で起きた「奇跡」の報は、燎原の火のごとく街中を駆け巡っていた。
死の淵にあったはずの若い神官ティトゥスが、一夜にして劇的に回復した。その事実は、街の人々を昨日までとは比較にならないほどの興奮と混乱の渦に巻き込んだ。
「神は、我々の祈りを聞き届けてくださったのだ!」
そう言って教会に殺到し、涙ながらに祈りを捧げる信徒たち。
「いや、あれはカガヤ様の御業だ! 彼こそが本物の聖者だ!」
そう叫び、カガヤを英雄視する者たち。
そして、「人の理を超えた力は、禍つ者の仕業に違いない」と、恐怖に顔を引きつらせる者たち。
ヴェリディアは、期待と狂信、そして疑念が入り混じった、危険な熱気に包まれていた。
その熱狂の中心、ヴェリディア教会の一室で、異端審問官サルディウスは、静かに、しかし煮えたぎるような怒りの炎をその瞳に宿していた。彼の前には、ベッドから身を起こし、まだ衰弱してはいるものの、確かに己の足で立つティトゥス神官がいた。
「…ティトゥス。昨夜、何があった。正直に話せ」
サルディウスの低い声が、部屋の空気を震わせる。
「は…はい。審問官様。昨夜、意識が朦朧とする中、誰かが私の部屋に…。薬を飲まされ、そして、喉に何か冷たいものを当てられると、激しい痛みと共に、胸の苦しみが…」
「その者の顔は見たか」
「いえ……。しかし、その声には聞き覚えが。先日審問を受けていた、カガヤという男の声に似ていたように思います」
その報告を聞き、サルディウスはゆっくりと目を閉じた。そして、再び目を開いた時、その瞳の奥の炎は、絶対的な確信と、冷酷な決意の色へと変わっていた。
彼は、集まった神官たちに向き直ると、威厳に満ちた声で宣言した。
「皆、聞いたな。これは、神が我々の祈りに応えたもうた奇跡ではない。神の試練の最中に、異端者が禍つ者の術を用いて介入し、聖なる儀式を汚したのだ! ティトゥスの回復は、神の御業にあらず、人の魂を惑わすための、まやかしに他ならぬ!」
彼の言葉は、有無を言わせぬ断定だった。俺が起こした「人命救助」という事実を、彼は「神への冒涜」という、自らの信仰の枠組みの中へと、完璧に捻じ曲げてみせたのだ。
「直ちに、辺境伯、薬師ギルド、冒険者ギルドの長を召喚せよ。神の御前で、異端者の罪を、今度こそ白日の下に晒してくれる」
◇
その日の午後、教会の審問室には、重苦しい空気が漂っていた。
部屋の中央には、以前と同じ長いテーブル。俺はその一方に座らされ、向かいには、激しい怒りを法衣の下に隠したサルディウスが腰を下ろしている。そして、今回は部屋の壁際に、辺境伯、アルケム殿、ゴルバスの三人の席が用意されていた。彼らは厳しい表情で腕を組み、この一方的な審問の証人として、じっと成り行きを見守っている。
「ヴェリディア辺境伯、アルケム薬師ギルド長、ゴルバス冒険者ギルドマスター。貴殿らには、これまでカガヤという男を擁護してきた責任がある。だが、その結果がこれだ」
サルディウスは、ティトゥスの回復記録が書かれた羊皮紙をテーブルに叩きつけた。
「この男は、私が神の試練として禁じた治療を、密かに、しかも人の理を超えた術を用いて行った。これは、神の代理人である私への反逆であり、教会そのものへの冒涜である! もはや、いかなる弁明も許されん!」
その剣幕に、ゴルバスが吐き捨てるように言った。
「結果として、あんたの部下は助かったんだろうが。それが、そんなに気に食わねえのか?」
「黙れ、無頼の徒よ!」
サルディウスは一喝した。
「これは、命が助かったかどうかの問題ではない! 神の定めたもうた秩序を、人が驕り高ぶり、乱したという、断じて許されざる罪なのだ!」
「では、審問官殿」
辺境伯が、冷静な声で割って入った。
「あなたの言う『神の秩序』とは、目の前の命を見殺しにすることなのかね?」
「神の試練を乗り越えることこそが、真の救済。人の浅知恵でそれを妨げることこそが、最大の罪なのだ」
議論は、完全に平行線を辿っていた。
俺がどんなに論理的に治療の正当性を訴えても、サルディウスはそれを「禍つ者の詭弁」と一蹴する。彼にとって、俺はもはや議論の相手ではなく、断罪すべき罪人でしかなかった。
三人の守護者たちの圧力も、俺が「審問官が禁じた治療を行った」という明白な事実の前には、決定的な力を持ち得なかった。状況は、明らかに俺に不利だったが、こうなることは覚悟の上だ。この道を選んだことに、後悔はない。
その日の審問は、何の結論も出ないまま、重苦しい雰囲気の中で終わりを告げた。サルディウスは、結論を出すことを急いではいなかった。むしろ、この辺境の地で性急に決着をつけることを、意図的に避けているようでもあった。彼の視線は、ここではない先を見据えているかのようだった。
◇
追い詰められた俺の元を、その夜、アルケム殿が密かに訪れた。彼の顔には、これまでにないほどの焦燥と、そして覚悟の色が浮かんでいた。
「カガヤ殿。もはや、通常のやり方ではサルディウスを止められん」
彼は、人目をはばかるように声を潜めた。
「奴は、単なる狂信者ではない。奴は…恐れておるのだ。君という存在が、教会が長年隠し続けてきた『歴史の真実』を、暴いてしまうことを」
「歴史の真実?」
「うむ。サルディウスのような教会の強硬派が、何よりも恐れているもの。それは、正教会が編纂した公式な歴史書から抹消され、読むことさえ禁じられた、一連の書物…『禁書』の存在じゃ。奴らが本当に隠したいのは、紋章の謎でも、君を襲った者たちの正体でもない。そのさらに奥にある、この世界の成り立ちそのものに関わる、根源的な真実じゃ」
彼は、俺の目をじっと見つめた。
「カガヤ殿。貴殿が、この窮地を覆し、そしてこの世界の歪みを正したいと願うのなら、その『禁書』を探し出すしかない。答えは、そこに眠っておるはずじゃ。わしにできるのは、ここまでじゃ。すまぬ…」
アルケムが去った後、俺は一人、彼の言葉を反芻していた。
『禁書』。抹消された歴史。世界の成り立ちに関わる真実。
点と点が繋がり、一つの巨大な陰謀の輪郭が、ゆっくりと姿を現し始めていた。
アルケムの言葉は、俺が進むべき道を示す、最後の道標だった。
だが、その道は、このヴェリディアにはない。
俺は、窓の外に広がる、王都の方角の空を静かに見つめた。
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