第73話:神の試練と人の理
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辺境伯、薬師ギルド、そして冒険者ギルド。三方向からの強烈な圧力は、さすがの異端審問官サルディウスの動きをも鈍らせた。俺への審問は中断され、街には奇妙で張り詰めた静寂が続いていた。だが、それは決して勝利ではなかった。
サルディウスは教会に籠ったまま、次なる一手を探して静かに牙を研いでいる。それは、嵐の前の、息が詰まるような凪だった。
その均衡を、誰も予期せぬ形で破ったのは、「病」という名の災厄だった。
事件が起きたのは、サルディウスの調査団がヴェリディアに到着してから、一週間が過ぎた頃だった。調査団の一員であった、ティトゥスという名の若い神官が、突然の高熱と呼吸困難を訴えて倒れたのだ。
彼の症状は、このヴェリディア地方で古くから恐れられている風土病、「灰降病」のそれと完全に一致していた。発症すれば、数日のうちに全身の機能が衰弱し、肺が石のように硬くなって死に至るという、致死率が極めて高い病だ。有効な治療法は、未だ見つかっていない。
この一報は、すぐに街中を駆け巡った。
薬師ギルドでは、アルケム殿が腕利きの薬師たちを集め、治療法の検討に入った。だが、文献を調べ、薬草を調合しても、光明は見えない。
「駄目じゃ…やはり、これまでのやり方ではどうにもならん…」
アルケム殿は、悔しげに唇を噛んだ。
一方、教会に籠るサルディウスの反応は、悲嘆や動揺ではなかった。それは、好機を見出した狩人の、冷たい計算に満ちていた。
ティトゥスを診た教会の治癒師たちが、なすすべなく匙を投げた。通常であれば、教会はあらゆる手を尽くして信徒の命を救おうとする。だが、サルディウスはこの状況を、カガヤという異物を排除するための、天が与えた絶好の機会だと判断した。彼は病床に苦しむティトゥスの枕元に立つと、集まった神官たちに、厳かにこう宣言したという。
「この地に蔓延る異端の気配が、我らの信仰を揺るがせ、神の御加護を遠ざけている。ティトゥスの病は、我らがその異端の誘惑に打ち勝ち、揺るぎない信仰を神に示すための『試練』に他ならない」
そして、彼は驚くべき命令を下した。
「よって、これよりティトゥスへの人の手による治療の一切を禁ずる。薬師ギルドの薬はもちろん、我らの治癒魔法さえも、今は神への不信の表れとなる。我らが行うべきは、ただひたすらなる祈り。我らの信仰の力だけで、この試練を乗り越えてこそ、神はこの地の穢れを浄化してくださるであろう」
その命令は、ティトゥスへの事実上の見殺し宣告であった。だが同時に、カガヤに向けられた、完璧な罠でもあった。
もしカガヤが何もしなければ、ティトゥスの死は『異端者の邪気が信仰を妨げたせい』にできる。
もしカガヤが禁を破って治療すれば、彼は審問官の命令に背き、教会の権威に逆らう『明白な異端者』として断罪できる。
部下の命さえも、敵を追い詰めるための駒として使う。そのあまりに冷酷で計算高い判断に、集まった神官たちは、恐怖とも戦慄ともつかぬ感情で凍りついたという。
その情報は、すぐに俺の元にも届いた。もたらしたのは、心配して「古木の憩い」を訪れたクゼルファだった。
「…そんな、無茶苦茶です! 祈るだけで病が治るなら、薬師なんて必要ありません! サルディウスという人物は、自分の部下の命さえ、何とも思わないのでしょうか…」
彼女は、憤りに肩を震わせている。その隣で、俺は冷静にアイに指示を出していた。
〈アイ、薬師ギルドや知識院で収集した灰降病に関する文献データを再解析し、症状、進行パターン、過去の治療記録を統合分析しろ〉
《了解。…文献データの統合分析を完了。記録によれば、灰降病は、大気中に浮遊する特定の鉱物粒子を吸い込むことで発症する、肺組織の線維化が原因とされています。既存の治療法は、すべて対症療法に留まり、根本原因である粒子の排出、及び組織の再生には至っていない、と結論付けられています》
アイの報告を聞きながら、俺は思考を巡らせる。肺組織の線維化。粒子の排出。それはつまり、俺の持つ医療用ナノマシンの技術、そして精密な化学分離技術の応用で、治療できる可能性が極めて高いことを意味していた。
「カガヤ様…」
クゼルファが、不安そうな目で俺を見る。彼女の瞳は、問いかけていた。「あなたなら、治せるのではありませんか?」と。
もちろん、治せるだろう。
だが、それは同時に、茨の道に足を踏み入れることを意味していた。
サルディウスが「神の試練」と断じ、自ら治療を禁じている患者を、俺が勝手に治療する。それは、彼の、そして正教会そのものの権威に対する、これ以上ないほど明確な反逆行為だ。異端審問の場で、これほど分かりやすい有罪の証拠を、自ら作り出すようなものだ。
辺境伯たちの庇護も、これでは及ばないかもしれない。
どうする…?
俺は、窓の外に目をやった。空は、不気味なほど静かだった。
一人の若い神官の命が、今、天秤に乗せられている。
片方には、俺自身の安全と、これからの計画。そしてもう片方には、科学者として、いや、一人の人間としての、決して譲ることのできない矜持が。
俺がこのまま沈黙を保てば、ティトゥスは確実に死ぬ。そしてサルディウスは、それを「信仰が足りなかった者の、尊い犠牲」として、自らの正義の糧にするだろう。
そんな結末を、俺は許容できるのか。
答えは、最初から決まっていた。
「クゼルファ。アルケム殿に伝えてくれ。患者の、より詳細な容態が知りたい、と。特に、呼吸の音、痰の色、そして体温の推移。できるだけ正確な情報が必要だ」
俺の言葉に、クゼルファはハッと目を見開いた。
「カガヤ様…! まさか…」
俺はクゼルファの目を見る。
「助かる命があるなら、助ける。それが、俺のやり方だ」
俺は、静かに、しかし揺るがぬ決意を込めて言った。
危険は承知の上だ。だが、目の前の命を見捨てるという選択肢は、俺の中には存在しない。
サルディウスがこれを「神の試練」と呼ぶのなら、上等だ。
その試練、俺が受けて立とう。
神ではなく、この俺が持つ、理という名の力で。
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