第72話:ヴェリディアの三つの盾
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最初の審問を終え、「古木の憩い」に戻った俺の元には、誰からの訪問もなかった。
街は、異様な静寂に包まれている。異端審問官サルディウスという存在が、見えない重石となってヴェリディア全体を押し潰しているかのようだ。俺は部屋に籠もり、アイと共に次の一手をシミュレートし続けていた。敵の次なる攻撃は、さらに狡猾で、論理の隙間を的確に突いてくるだろう。
翌日、再び教会への召喚状が届くかと思われたが、その日は何も起こらなかった。その次の日も。
サルディウスは、あえて俺を泳がせているようだった。その沈黙は、獲物をいたぶる蛇のように、俺の、そして街の人々の心をじわじわと締め付けていく。俺に関する噂は、この静寂の中でさらに歪んで広がり、「審問会でカガヤは禍つ者の正体を暴かれたらしい」という、新たな憶測まで生まれ始めていた。
だが、その水面下で、俺がヴェリディアで築いてきた絆は、静かに、しかし力強く動き始めていた。
最初に動いたのは、この街の統治者、カレム・ンゾ・ヴェリディア辺境伯だった。
彼は、正教会が拠点としているヴェリディア教会に、仰々しい儀礼用の馬車で乗り付けた。領主としての権威を最大限に示す、堂々とした訪問だ。
応対に出たサルディウスに対し、辺境伯は穏やかながらも、有無を言わせぬ口調で告げたという。
「審問官サルディウス殿。私がこのヴェリディアを統べるカレム・ンゾ・ヴェリディアだ。貴殿が中央教会の名代として、この地を訪れた理由は承知している」
辺境伯は、サルディウスの凍てつくような視線をものともせず、続けた。
「本題に入る前に、一つ明確にしておかねばならぬことがある。カガヤ殿は、我が娘の命を救った恩人であり、このヴェリディア辺境伯家が公式に庇護する『賓客』であるという事実をな。貴殿の審問が、公正明大な神の教えに基づき行われることを、この街の統治者として、厳粛に見守らせていただく。万が一にも、私の賓客が不当な扱いを受けるようなことがあれば…それは、このヴェリディア辺境伯家、ひいてはフォルトゥナ王国の秩序そのものに対する挑戦と見なす。覚えておかれるがよい」
それは、貴族としての礼節を保ちながらも、明確な牽制だった。「お前たちの好きにはさせんぞ」という、領主からの強烈な意志表示だ。
次に動いたのは、アルケムギルド長だった。
彼のやり方は、辺境伯とはまた違う、学者らしいものだった。彼は、ヴェリディア薬師ギルドの名で、王都の中央教会本部に宛てた公式な嘆願書を起草した。その内容は、俺が提唱した「分離薬学」の学術的な価値と、その将来性を詳細に記し、この新技術の芽を異端として摘むことは、王国全体の損失であると訴えるものだった。
その嘆願書には、アルケム自身の署名だけでなく、彼の呼びかけに応じたヴェリディア中の薬師や学者たち、さらには彼の名声と人脈を頼る、他都市のギルド長たちの署名まで連なっていた。知の権威たちが、連名で「カガヤは異端者ではない、革新者だ」と証言したのだ。それは、知の権威たちが、絶大な権力を持つ教会に対し、自らの存在意義を賭けて突きつけた、静かだが、何よりも鋭い刃であった。
そして、三番目に動いたのは、最も意外な人物だった。冒険者ギルドのマスター、ゴルバスだ。
その日、彼は一人で教会を訪れると、サルディウスとの面会を求めた。部屋に通された彼は、椅子にも座らず、腕を組んだまま、単刀直入に言ったという。
「審問官様とやら。あんたがどこのどなた様か知らねえが、一つだけ言っとくぜ。カガヤは、俺たち冒険者ギルドが認めた達人級であり、伝説級に限りなく近い、腕利きの冒険者だ」
ゴルバスの口調には、貴族や学者のような敬意はない。あるのは、現場を仕切る人間の、現実的な迫力だけだ。
「この街がどうやって成り立ってるか、あんたにゃ分からねえだろうな。俺たちみたいな荒くれ者が、毎日命懸けで魔物を間引きし、街道の安全を守ってるからこそ、商人や市民が安心して暮らせるんだ。その重要なギルドメンバーを、根拠のねえ噂で『異端』だの『禍つ者』だの決めつけて、社会的に潰そうってんなら…俺たちも黙っちゃいられねえ」
彼は、テーブルの端を指でトン、と叩いた。
「ギルドの連中が、もし『カガヤを不当に扱う教会なんて、守る価値もねえ』って、一斉に仕事を放棄したらどうなる? この街は、一月も経たずに魔物で溢れかえるぜ。そうなった時、あんたの神様は、魔物を追い払ってくれるのかい?」
それは、嘆願でもなければ、牽制でもない。剥き出しの、交渉であり、脅しだった。
辺境伯という「権力」の盾。
アルケムという「知性」の盾。
そして、ゴルバスという「実力」の盾。
俺がこの街で関わってきた人々が、教会という絶対的な権力を前に、それぞれの立場を賭して、俺という異邦人を守るために立ち上がってくれていた。
その日の夜、クゼルファが宿屋に、アルケム殿からの手紙を届けてくれた。そこには、三人の動きが簡潔に記されていた。俺は手紙を読み終えると、静かに目を閉じた。
胸の奥から、熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
手紙を届け、心配そうに俺の顔を覗き込んでいるクゼルファに、俺は一度だけ力強く頷いてみせた。俺の決意を汲み取ったのか、彼女はこわばっていた表情をわずかに和らげ、静かに頷いて部屋を出ていった。
扉が閉まった後も、俺はしばらくその場から動けなかった。
辺境伯、アルケム殿、ゴルバス…。それぞれの立場から、それぞれのやり方で、俺という異邦人を守ろうとしてくれている。そして、どんな時も変わらず、俺の身を案じ、隣に立とうとしてくれるクゼルファがいる。
この世界に来て、俺はずっと一人だと思っていた。だが、違ったらしい。
俺は、もう一人ではなかった。
感謝、という陳腐な言葉では到底足りない、熱い何かが胸の奥からこみ上げてくるのを感じた。
と、同時に、新たな闘志が湧き上がってくる。
彼らの想いを、無駄にはできない。この街で俺が築いた絆を、踏みにじらせるわけにはいかない。
サルディウスは、この三方向からの圧力に、どう出るか。
ともすれば、彼はさらに追い詰められ、より過激な手段に出てくるかも知れない。
だが、もう恐れはない。俺の背後には、ヴェリディアの守護者たちがついている。
俺は窓の外に広がる夜の街を見つめ、次なる戦いへの覚悟を、改めて固くした。
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