第71話:静かなる戦場
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翌日、正午。
ヴェリディア教会の重々しい扉を、俺は一人でくぐった。
街は静まり返っていた。人々は家の窓から、あるいは路地の影から、固唾を飲んで俺が教会へと入る姿を見守っている。その視線には、期待、恐怖、好奇、そして憐れみ、あらゆる感情が渦巻いていた。まるで、これから闘技場に向かう剣闘士にでもなった気分だ。
〈アイ。作戦は最終確認したな?〉
《はい、マスター。応答は、観測可能な事実に限定。推測や感情的な反論は避けてください。相手の論理の矛盾点を突き、冷静に対処します》
〈ああ。派手な弁論会じゃない。これは、思考の盤上遊戯のようなものだ〉
俺を案内したのは、昨日召喚状を持ってきた若い神官だった。彼は一言も発さず、冷たい石の廊下を進んでいく。
俺が通されたのは、教会の最も奥にある、一般の信徒が決して足を踏み入れることのない一室だった。
高い天井はドーム状になっており、俺の足音が不気味に反響する。分厚い石壁が外の喧騒を完全に遮断し、この空間だけが世界から切り離されているかのような錯覚を覚えた。
部屋の中央に置かれた長いテーブルと、それに向かい合う数脚の椅子が、この場所が対話ではなく断罪のためにあることを物語っている。テーブルの向こう側に、筆頭異端審問官サルディウスが静かに座っていた。
彼の両脇には、数人の神官たちが、まるで石像のように微動だにせず控えている。そして、俺の背後にある唯一の扉を塞ぐように、完全武装した神殿騎士が二人、壁際に立っていた。窓から差し込む光が、ステンドグラスを通して床に色とりどりの模様を描き、その光がサルディウスの黒い法衣を不気味に照らし出していた。まるで、彼だけが神の光に選ばれているかのような、巧みに計算された演出だ。
「…座るがよい」
静寂を破ったのは、サルディウスの、感情の起伏を感じさせない低い声だった。
俺は勧められた椅子に腰を下ろす。テーブルを挟んだ向こう側から、彼の凍てつくような視線が、俺の魂の奥底まで見透かそうとするかのように突き刺さってくる。
これが、異端審問。
俺の、そしてこの世界の常識が、今、試されようとしていた。
サルディウスは、意外にも、俺の医術や薬学のことには一切触れず、静かな口調で尋ねてきた。
「カガヤと名乗ったか。汝はこの街の者ではないな。どこから来た?」
「遠い国からです。訳あって、この地に流れ着きました」
「ふむ。流れ者でありながら、わずかな期間で、汝は薬師として大きな名声を手に入れた。多くの信奉者も生まれたと聞く。汝は、自分自身を、神に選ばれた特別な存在だとでも思っているのか?」
最初の質問から、巧妙な罠が仕掛けられていた。ここで肯定すれば傲慢、下手に否定すれば卑屈と取られる。信仰の有無を問う前に、まず俺の人間性を断罪しようというわけだ。
俺は、表情を変えずに答えた。
「いいえ。私は物事の理を探究する者であり、今は薬師としての役目を果たしているに過ぎません。名声や信奉者は、結果として生まれた副産物であり、私自身の目的ではありません」
「ほう。では、その『役目』とやらは、誰に与えられたものかな? 神か? それとも、別の何かか?」
畳み掛けるように、次の罠がくる。
《マスター。神の存在を肯定も否定もせず、主語を曖昧に》
アイの助言に従い、俺は言葉を選ぶ。
「病に苦しむ人々が目の前にいた。手を差し伸べる知識と技術があった。ただ、それだけのことです。役目とは、人が誰かに与えられるものではなく、自らの意思で見出すものだと、私は考えます」
俺の答えに、サルディウスは微かに眉を動かした。面白くなさそうな顔だ。彼は話題を変えた。今度は、核心に踏み込んでくる。
「汝が行ったという『公開証明』について聞こう。汝は、猛毒を無力化し、薬効成分だけを取り出すという、常人には不可能な事をやってのけたそうだな。あれは、神の御業である『奇跡』を模倣したものか?」
「いいえ。あれは奇跡などではありません。麦の穂から、食せる実と、食せぬ殻を分けるのと同じことです。金鉱石から、不要な石と、価値ある金を分けるのとも同じ。ただの『分離』という名の技術です。そこに、神の御業が介在する余地はありません」
俺は、先日の公開証明で使ったのと同じ、分かりやすい比喩で説明した。部屋の隅に控えていた神官たちが、わずかに「なるほど」という顔で頷くのが見えた。
だが、サルディウスは待ってましたとばかりに、冷たい笑みを口元に浮かべた。
「面白いことを言う。麦から殻を、鉱石から石を分ける、か。つまり汝は、神が創りたもうた自然物そのものが不完全であり、人の手で『改良』すべきだと申すのだな。その理屈で言えば、神がお与えになった毒さえも、汝は不完全なものと断じ、人の浅知恵で手を加えるというわけだ。神の御業を人が修正するなど…これ以上の冒涜が、他にあるかな?」
空気が、凍りついた。
これは、見事な論理のすり替えだ。俺の「分離」という行為を、「神の創造物への冒涜」へと転化させた。彼の理論では、毒には毒としての、神が与えた役割がある。それを人間の都合で変えることは、神への反逆に他ならない、というわけだ。
これに反論するには、神学の知識が必要になる。俺は、窮地に立たされた。
《マスター。彼の論理には、矛盾点があります。彼らの教義における『労働』の概念を使用してください》
〈労働の、概念?〉
《はい。彼らの聖典には「人は、神が与えし大地を耕し、神が与えし糧を育み、神が与えし知恵で、より良き生を築くべし。それこそが、神への感謝の祈りとなる」という一節が存在します》
…なるほどな。
俺は、一瞬の沈黙の後、静かに口を開いた。
「審問官殿。お尋ねしますが、農夫が畑の雑草を抜くのは、神への冒涜にあたりますか?」
「…何?」
「鍛冶師が、ただの鉄の塊から、人の暮らしを守る剣を打ち出すのは、神の創造物を勝手に変える、不遜な行いでしょうか?」
俺は、サルディウスの目を真っ直ぐに見据えた。
「私がやっていることも、それと同じです。神が創りたもうた様々な物質の中から、その最も良い部分を引き出し、人の苦しみを和らげる。神が与えてくださった知恵で、より良き生を築く手助けをする。私にとって、それこそが薬師としての祈りの形です。あなたの言う『冒涜』とは、随分と違うように思います」
サルディウスは、何も答えなかった。
彼の冷徹な瞳の奥で、初めて、青白い炎のような感情が揺らめいたのを、俺は見逃さなかった。それは、怒りか、あるいは屈辱か。
やがて、彼はゆっくりと立ち上がった。
「…今日のところは、これまでとしよう。汝の舌は、その手先と同じくらい、器用なようだ」
彼はそれだけを言い残すと、背を向けて部屋の奥へと消えていった。
俺は、神官に促されて審問室を後にした。背中に、ずっしりとした疲労感がのしかかっている。剣を交えるよりも、よほど消耗する戦いだ。
だが、俺は生き残った。第一ラウンドは、引き分け、といったところか。
しかし、彼の最後の瞳の色が、この戦いがまだ始まったばかりであることを、何よりも雄弁に物語っていた。あれは、論理で屈服させられるような男の目ではない。信仰という名の鎧で固められた、決して交わることのない敵の目だ。
次の一手は、さらに厳しく、そして狡猾なものになるだろう。俺は、気を引き締め直し、明日への覚悟を決めた。
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