第64話:静かなる毒
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辺境伯とアルケム殿に相談してから、数日が過ぎた。
俺の報告を受け、ヴェリディアの街は目に見えて警備が強化された。街の城壁や主要な通りには、普段より多くの衛兵が立ち、夜間の巡回には冒険者ギルドのベテランたちも加わっているという。おかげで、あれ以来、襲撃者の影はぱったりと姿を消した。表面的には、街は以前よりも安全で、平穏になったようにさえ見えた。
だが、その静かな水面下で、何かが静かに、そして確実に蝕まれ始めていることに、この時の俺はまだ気づいていなかった。
その最初の兆候は、些細な違和感だった。
薬師ギルドでの研究に必要な素材を仕入れるため、俺は街の中央市場に足を運んでいた。活気に満ちた市場は、いつものように人々でごった返している。俺は顔なじみになった薬草問屋の店先へと向かった。
「親父さん、いつもの『月光草』を頼む」
「……ああ」
以前なら「おお、カガヤ先生! いつもありがとうございます!」と満面の笑みで迎えてくれたはずの初老の店主は、一瞬だけ俺と目を合わせると、すぐに気まずそうに視線をそらし、無言で商品を包み始めた。その手つきはどこかぎこちなく、俺との間に見えない壁を作っているかのようだ。
(何か、気に障ることでもしたか…?)
代金を払いながら、俺は内心で首を傾げた。思い当たる節はない。単に虫の居所が悪かっただけか、あるいは何か家庭の事情でもあったのかもしれない。俺は深く詮索することなく、その場を後にした。
次に訪れた冒険者ギルドでも、似たような違和感があった。
扉を開けると、いつものように多くの冒険者たちが酒を飲んだり、談笑したりしている。俺の姿に気づいた何人かと目が合ったが、彼らは以前のように気さくに手を振ってくるわけでもなく、かといって敵意があるわけでもない、何とも言えない表情で視線を逸らし、ひそひそと仲間との会話に戻っていく。
まるで、俺という存在そのものの扱いに困っているかのような、そんな居心地の悪さ。
(有名になるってのも、面倒なもんだな)
俺はそれを、急激に高まった名声に対する戸惑いのようなものだろうと、半ば無理やり自分を納得させた。
カウンターでは、クゼルファが依頼の報告書を提出しているところだった。彼女は俺の姿を認めると、ぱっと顔を輝かせたが、その笑顔にはどこか憂いの色が混じっているように見えた。
「カガヤ様、お疲れ様です」
「ああ。そっちは依頼の帰りか?」
「はい。簡単な薬草採取の依頼でしたので、すぐに終わりました。…あの、カガヤ様」
クゼルファは、何かを言いかけて、口ごもった。周囲を気にするように、不安げに視線を揺らしている。
「どうした?」
「いえ…。その…最近、街の様子が少し、おかしいような気がしませんか?」
「おかしい?」
「はい。何と言いますか…皆さんが、カガヤ様のことについて、色々と…」
彼女がそこまで言いかけた時、ギルドのマスターであるゴルバスが、カウンターの奥から顔を出した。
「クゼルファ、ちょっといいか。次の依頼の件で話がある」
「あ、はい! 今行きます!」
クゼルファは、ゴルバスに呼ばれると、どこかホッとしたような、残念そうな複雑な表情で俺に一礼し、カウンターの奥へと消えていった。
俺は一人、ギルドの喧騒の中に残された。
クゼルファの言いかけた言葉が、頭の中で引っかかっていた。「カガヤ様のことについて、色々と…」。一体、何だというのか。
その答えは、思わぬ形で俺の耳に届くことになった。
薬師ギルドでの研究を終え、宿屋への帰り道。日が落ちて人通りもまばらになった路地を歩いていると、少し先の家の軒先で、二人の主婦が世間話に興じているのが見えた。俺は特に気にも留めず、その横を通り過ぎようとした。
「…聞いた? あのカガヤって薬師様の話」
「ええ、聞いたわよ。何でも、あの人の作る薬は、魂を代償にするんだって」
「まあ、怖いわね! だから、あんな奇跡みたいなことができるのね…。エラル様は治ったけど、その分、何か悪いものが辺境伯様のお家に溜まってるんじゃないかしら」
「うちの子にも言っておかないと。あの人には、あまり近づいちゃいけないって…」
俺は、その場で凍りついたように足が止まった。
頭を鈍器で殴られたような衝撃。耳鳴りがして、周囲の音が遠のいていく。
魂を、代償に? 悪いものが、溜まる?
馬鹿馬鹿しい。非科学的にも程がある。一笑に付すべき、愚かな迷信だ。
だが、あの店主のよそよそしい態度、冒険者たちのひそひそ話、クゼルファの憂いを帯びた表情。すべてのピースが、一瞬で繋がった。
俺が感じていた違和感の正体は、これだったのだ。
俺の背後で、ゆっくりと、しかし確実に、毒の沼が広がっていた。俺を社会的に孤立させ、その価値を貶めるための、悪意に満ちた「噂」という毒が。
それは、剣や魔法よりも厄介で、人の心という最も脆い部分を的確に攻撃してくる、見えざる刃だった。
襲撃者たちの顔が脳裏に浮かぶ。『我らが神』『異端』…。彼らは、物理的な攻撃が失敗した今、次の一手を打ってきたのだ。武力で駄目なら、社会的に殺す。実に合理的で、陰湿なやり方だ。
俺は固く拳を握りしめた。怒りが、静かに腹の底から湧き上がってくる。
だが、同時に、俺の頭は冷静だった。これは感情で対処すべき問題ではない。噂は、感情で否定すればするほど、真実味を帯びて広がるものだ。
ならば、どうする。
「面白い。やってやろうじゃないか」
俺は、闇に染まり始めたヴェリディアの空を見上げた。
この街での俺は、ただの一介の冒険者だ。だが同時に、一年任期の特任研究員…薬師でもある。ならば、人の心に巣食う、この非科学的な「病」もまた、俺が治すべき対象だ。
必要なのは、正しい知識と、揺るぎない事実。
俺は、俺のやり方で、この戦いに臨むことを決意した。
静かなる調査は、敵の正体を暴けなかった。
だが、その敵が仕掛けてきた、新たな戦いの狼煙は、確かにはっきりと見えた。
これは、俺の科学者としての、そして薬師としての矜持を賭けた、反撃の始まりだった。
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