第63話:招かれざる者
お読みいただき、ありがとうございます。
朝・昼・夕の1日3回の更新を目指しています。
少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。
翌朝、俺は辺境伯邸へと足を運んだ。ヴェリディアの朝は、活気に満ちていた。
市場へ向かう人々の賑やかな声、パン屋から漂う香ばしい匂い。だが、そんな平穏な街の風景も、今の俺の目にはどこか現実味のない、薄っぺらなものに映っていた。昨夜の出来事が、俺とこの世界の間に、見えない壁を作ってしまったかのようだった。
辺境伯邸の重厚な門の前に立つと、槍を携えた屈強な門番が、俺の姿を認めて目を見開いた。彼はすぐに姿勢を正し、硬質な、しかし敬意のこもった声で呼びかけた。
「カガヤ様ではございませんか。本日はどのようなご用件で?」
突然の訪問だったが、エラル様を救った恩人として、俺の顔はすでに知れ渡っているらしい。
「辺境伯様に、急ぎご報告したいことがある。取り次いでもらえるか?」
俺の言葉に、門番は真剣な表情になった。
「急ぎのご報告、でございますか。……承知いたしました。確認して参りますので、少々お待ちを」
彼の態度は職務に忠実でありながら、俺に対する明確な敬意が感じられた。
門番は深く一礼すると、邸の中へと消えていった。
門前払いも覚悟していたが、数分後、戻ってきた門番は、変わらぬ恭しい態度で俺に門を開けた。
「お待たせいたしました。辺境伯様が、執務室でお待ちです」
どうやら、俺の突然の訪問は、幸運にも受け入れられたらしい。
執事のゼドラスは、俺の姿を認めると、驚いた顔一つせず、すぐに執務室へと通してくれた。重厚な執務室では、壮年の領主、カレム・ンゾ・ヴェリディア辺境伯が、書類の山を脇にやり、穏やかな表情で俺を迎えてくれた。
俺は深呼吸を一つして、本題を切り出した。
「辺境伯様。実は先日、街の裏路地で何者かに襲撃されました」
その一言で、辺境伯の穏やかだった表情が一変した。鋭い眼光が俺を射抜き、部屋の空気が一瞬で張り詰める。
「…何だと?詳しく聞かせてもらおう」
俺は、先日の出来事を、相手の人数や装備、そして彼らが口にした言葉も含めて、淡々と、しかし詳細に報告した。一通り話し終えた後、俺は懐から紋章のスケッチを取り出した。
「これが、彼らの装備に刻まれていた紋章です。これに、何か見覚えはありますか?」
辺境伯は羊皮紙を受け取ると、その意匠を食い入るように見つめた。
「……見たことのない紋章だな。鷲の意匠は王家や高位の貴族も好んで使うが、自らの胸に炎を宿すかのようなこの図は、どの家門にも当てはまらん。…いや、それよりも気になるのは、この様式だ。これは現代の紋章の描き方ではない。少なくとも数百年前、あるいは建国よりもさらに古い時代のものだ。歴史の表舞台から消えた、忘れられた家門か、あるいは…何らかの集団か…」
辺境伯は忌々しげに紋章を睨みつける。
「『異端』を口にする狂信者…。領内の教会にも、それとなく探りは入れさせてみよう。だが、おそらく正教会の者ではあるまい」
彼は立ち上がると、執務室の中を苛立たしげに歩き始めた。
「許しがたいことだ。我が領地で、我が家の恩人である君が襲われるなど、領主として断じて見過ごせん。直ちに街の警備体制を強化させよう。君の身の安全は、この私が必ず保証する」
その力強い言葉に、俺は深く頭を下げた。公の権力者が味方でいてくれることの心強さは計り知れない。だが同時に、彼の反応は、敵がその権力が及ばない場所にいることを示唆していた。
《マスター。例の聖理教が正教会から分派したのは300年以上前です》
〈なるほどな。それなら、辺境伯の言う条件と合致するかも知れないな〉
辺境伯邸を後にした俺は、思考を巡らせながら、街の大通りを歩いていた。その時だった。
「おや?そこにいるのは何時ぞやの馬の骨ではないか」
聞き覚えのある、不快な声に振り向くと、そこには、以前ギルドでクゼルファに絡んできた、いかにもな貴族の男が、数人の取り巻きを引き連れて立っていた。確か……クズマン?だったか?
俺は、関わり合いにならないように、完全に無視を決め込み、その場を立ち去ろうとした。だが、男はそれを許さなかった。
「おい、待て。この私を無視するとは、良い度胸だな」
取り巻きたちが、俺の行く手を阻むように立ちふさがる。
〈アイ、これって反撃して良いのか?不敬罪とかないの?〉
《申し訳ありません、マスター。この国の法的な側面、特に貴族への暴力行為に関する罰則については、まだ情報収集が不十分です。現時点での物理的な反撃は、不確定要素が多すぎます》
〈そもそも貴族なら、こんなところほっつき歩いてるんじゃないよ〉
《マスター。ここは辺境伯邸のお膝元、いわゆる貴族街です。彼らのような下級貴族が、権力者に己を売り込むためにうろついているのは、珍しいことではありません》
アイの冷静な分析に、俺は内心で舌打ちした。その時だった。俺と貴族の取り巻きたちの間に、すっと一つの影が割り込んだ。
「何者だ、貴様!」
貴族の男が、狼狽したように叫ぶ。
「私をクズマン様と知っての狼藉か!」
(しらねぇよ……)
そんな俺の呑気な思考をよそに、現れたその影――黒い外套を目深にかぶり、顔を隠した人物は、あっという間に取り巻きたちを打ちのめした。その動きは、無駄がなく、洗練されている。まるで、影が踊っているかのようだ。
そして、その影は、目にも止まらぬ速さでクズマンに近づくと、その耳元で何事かを囁いた。
クズマンは、その言葉を聞いた瞬間、まるで蛇に睨まれた蛙のように全身を硬直させ、その顔から急速に血の気が引いていく。その瞳には、先程までの傲慢さなど微塵もなく、ただ純粋な、動物的な恐怖だけが浮かんでいた。彼は、声にならない悲鳴を上げると、もつれる足で、なりふり構わずその場から逃げ出した。打ち倒された取り巻きたちも、主人のその醜態を見て、這うようにして散り散りに逃げていく。
黒い外套の人物は、クズマンたちが完全に視界から消えたのを確認すると、ゆっくりとこちらを振り返った。フードの奥深く、暗い影の中で、二つの光が俺を射抜く。それは、値踏みするでもなく、敵意を向けるでもない、ただ純粋に、俺という存在の深淵を覗き込むかのような、静かで、そして底なしの瞳だった。
ほんの数秒。だが、永遠にも感じられるほどの時間が流れた後、その人物はふっと踵を返した。そして、次の瞬間には、まるで夕暮れの影に溶け込むように、その姿は掻き消えていた。そこに人がいたという痕跡さえ残さずに。
〈なあ、アイ。今の、俺の知ってる物理法則、一個も当てはまってなかったよな?〉
《肯定します、マスター。対象の移動速度、及び消失現象は、既知の物理法則では説明不可能です。また、マスターの心拍数が平常時の1.5倍に上昇。アドレナリンの分泌が活発化しています。ストレス反応と推測されます》
〈そりゃそうだろ。お前は心拍数上がらないからいいよな。〉
それにしても次から次へと、面倒事が起こる。
俺は、この街に渦巻く、見えない力の存在を、改めて感じずにはいられなかった。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!
「☆☆☆☆☆」からの評価やブックマークをしていただけると、今後の創作の大きな励みになります。
感想やレビューも、心からお待ちしています!




