第49話:焦燥
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領主の館、その奥深く。普段は機密性の高い研究が行われる魔術師の書斎と隣接した特別研究室の一室。錬金術の蒸留器や魔術理論書が所狭しと並ぶ中に、異質な光を放つものが据えられていた。
南の公爵ゼラフィム家の筆頭魔術師、カルネウス・ンゾ・ヴァレリアスは、真剣な眼差しで「聖樹の雫」が入った透明な容器を見つめていた。その表情には、長年の研究で培われた冷静さとは裏腹に、深く困惑した色が浮かび、抑えきれない学術的な好奇心が入り混じっている。彼の傍らには、魔力解析用の複雑な器具が設置され、奇妙な文様が描かれた術式が床に展開されていたが、それら全てが、目の前の代物に対しては無力であることを示しているかのようだった。
「一体これほどの物を、クゼルファ様はどこで手に入れられたのか……」
彼は思わずそう呟いた。彼の知識と経験をもってしても、この容器の技術や、聖樹の雫を取り巻く魔力の濃度は全く理解できなかった。見たことのない素材でできた容器は、信じられないほど精巧で緻密な作りだ。表面には微細な紋様が刻まれているが、それが魔術的なものなのか、あるいは見たことのない技術の粋なのか、判別さえつかない。そして、その中に内包された聖樹の雫そのものもだが、それを取り巻く魔力は、あまりにも濃密で、そこにただ存在しているだけで、熟練の魔術師であるカルネウスですら、体内の魔力が共鳴し、息苦しくなってしまうほどだった。
「通常の聖樹の雫は、ここまで強烈な魔力を発しないはずだ。これは、一体……」
カルネウスは、自身が長年研究してきた魔術理論の全てが否定されているような感覚に陥っていた。その不可解さが、彼の探求心を刺激する一方で、エラルという重病人を前にしている焦燥感を募らせる。
そこへ、部屋の扉が静かに開かれ、薬師のアルケム・ンゾ・アルビレオが近づいてきた。彼もまた、フォルトゥナ王国でその名を知らぬ者はいないと言われる、薬師界の重鎮の一人である。白衣をまとった彼の顔には、疲労の色が濃く浮かんでいた。エラルの容態が芳しくないことが、彼の憔悴を物語っている。
「カルネウス殿、いかがかな? 進捗状況は?」
アルケムは焦る気持ちを抑えつつ尋ねた。エラルの病状は一刻を争うのだ。聖樹の雫が手元にあるにも関わらず、何もできない現状が、彼の心を苛んでいた。日を追うごとに、エラルの生命の灯火が細くなっていくのを感じるたび、彼の胸には苦しみが募る。医師団の他の者たちも、この状況に苛立ちと無力感を覚え、日々、喧騒と沈黙が交錯する中で、解決策を見出せずにいた。
カルネウスは大きく息を吐き、重い頭を振った。
「どうもこうもない。分からないことだらけじゃ、アルケム。なにせこの聖樹の雫ときたら、文献にある記述とは違いすぎるゆえな」
彼は視線を容器から外さず、絶望にも似た声音で続けた。
「文献によれば聖樹の雫は、これほどの魔力を纏ってはいないはずじゃ。確かに魔力は帯びているが、これほどではない。しかしどうだ。息苦しくなるほど濃厚な魔力。これでは、この入れ物から聖樹の雫を出せば、魔力の急激な衰退のせいで、雫が崩壊するやもしれん。あるいは、エラル様の体内に入れたとしても、その過剰な魔力が逆に害となる可能性も否定できん。あまりに常識外れすぎて、迂闊に手が出せぬのだ」
アルケムも神妙な面持ちで頷いた。彼もまた、その容器と雫を幾度となく調べ、薬学の知識と経験を総動員して解析を試みていたが、何も手掛かりを得られていなかった。この雫をどう扱うべきか、見当もつかないのだ。
「幸いなことと言えば、この聖樹の雫がこの屋敷に来てからと言うもの、エラル様の症状が比較的穏やかに成られたことくらいじゃな」アルケムが続けて言う。
「原因はこの、聖樹の雫から漏れ出る魔力だとは思うがな。なんせ、分からぬ事だらけじゃ」カルネウスは肩をすくめながらそう言った。
「であるな。我々が知る聖樹の雫は、もっと穏やかなものだ。これほど強力な魔力を持つ聖樹の雫は、文献にも記されていない。文献に書かれとる処方箋では、危険性が高すぎるだろう。万が一、エラル様に何かあっては……」
アルケムの言葉は、二人の間に重く沈んだ。彼らは、エラルを救うための唯一の希望が、同時に計り知れない危険を孕んでいることに、深く苦悩していた。
「どうしたものか……。やはりこれは、クゼルファ様に尋ねるしかなかろう。聖樹の雫がどのような環境にあったのかが分からぬと、手の出しようがないわい」
カルネウスは腕を組み、深く考え込んだ。彼の眉間の皺が、さらに深くなる。
「辺境伯様にご相談じゃな……。クゼルファ様は話してくださるじゃろうか。なにか、隠している様子だったからのぅ……。そもそも、あの魔乃森の最奥から生還なされたこと、そしてこの奇妙な容器といい、彼女の背後には、我々の理解を超える何かが存在している。それが、この雫の異質さに関係しているかもしれん」
カルネウスの言葉には、学術的な探求心とは別に、一抹の疑念が混じっていた。クゼルファが、この奇跡的な雫をどうやって手に入れたのか。そして、なぜそこまで異質なものになっているのか。全てが謎に包まれている。
それからは早かった。カルネウスはすぐに、ヴェリディア辺境伯に、クゼルファを呼び寄せるよう要請した。この未知の容器と、聖樹の雫を扱うには、容器と採取時の詳細な情報が不可欠だと判断したからだ。エラルの命を救うため、そしてこの謎の雫の正体を解明するため、彼らは残された唯一の希望であるクゼルファからの情報を待つしかなかった。
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