第35話:新たな日常の始まり
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翌朝、俺は心地よい鳥のさえずりと、窓から差し込む柔らかな光で目を覚ました。アルカディア号の冷たいベッドや、森の中の硬い地面とは違う、ふかふかとした寝具のおかげで、ここ数ヶ月で最も質の良い眠りがとれた気がする。
身支度を整え、一階の食堂へ向かうと、そこには既にすがすがしい朝の空気が満ちていた。
「おはようございます、カガヤ様。昨夜はよくお眠りになれましたか?」
オーナーのジェハンが、カウンターの向こうから人の良い笑顔で声をかけてくる。
「ああ、おかげさまで。最高の寝心地だったよ」
「それはようございました。ささ、どうぞお席へ。すぐに朝食をお持ちしますので」
俺は、昨日の夕食を摂ったのと同じ窓際の席に腰を下ろした。席から窓の外を見ると、朝のヴェリディアは、昼間の喧騒とは違う、穏やかで清々しい活気に満ちていた。荷馬車の準備をする商人、井戸端で談笑する女性たち、元気に駆け回る子供たちの声。その一つ一つが、この街が確かに生きている証のように感じられた。
ほどなくして、猫耳少女のルルンが、湯気の立つ朝食を運んできてくれた。テーブルに並べられたのは、焼きたてで良い香りがたまらないパン、黄金色に輝くとろとろの卵料理、彩りも鮮やかな数種類の果物、そして、白い陶器のカップからはミルクの甘い香りが立ち上っている。
「んー、これも美味いな!」
俺は、出された卵料理を一口頬張り、思わず感嘆の声を漏らした。昨日感動した夕食に続き、朝食も素晴らしい。ふわふわの卵に、刻んだハーブと、おそらくチーズのようなものが混ぜ込まれており、絶妙な塩加減が食欲をそそる。異なる惑星に来て、こんなにもちゃんとした食事にありつけるとは、本当に夢にも思わなかった。
《マスター。このパンは、この惑星に生息する『ホビット麦』を原料としているようです。地球の小麦と比較して、食物繊維が約1.8倍豊富で、消化吸収にも優れています》
アイが相変わらずの冷静な解説を脳内で送ってくる。
〈ホビット麦、か。また変わった名前だな。小柄な人類でもいるんだろうか?〉
《その可能性も否定できません。生態系の多様性は、まだ我々の観測範囲を大きく超えています》
俺がそんなことを考えながら食事を楽しんでいると、食堂の入り口から、見慣れた姿が現れた。クゼルファだ。彼女は食堂の中をきょろきょろと見回し、俺のテーブルを見つけると、少し安心したように一つ息を吐き、こちらへ向かってきた。
「クゼルファ、大丈夫か?」
俺が声をかけると、彼女は「はい」と小さく返事をして、俺の向かいの席に静かに腰を下ろした。その表情にはまだ少し疲れの色が見えるが、昨日、領主屋敷へ向かった時の切羽詰まった様子よりは、幾分か和らいでいるように見える。
「『聖樹の雫』は、無事にお渡ししてまいりました」
「そうか、それは良かった。で、エラルの容態は?少しは良くなったのか?」
俺の問いに、クゼルファは少しだけ眉を下げ、力なく首を振った。
「いえ、まだ治療は始まっておりません。昨日、屋敷の医師団の方々が『聖樹の雫』が真なるものであると確認してくださいましたが、その力を引き出し、薬として精製するには、大変な手間と時間が必要なのだそうです」
「難しい作業なのか?確か、幻の薬草って言われてるんだろ?」
「はい。高位の魔術師であるカルネウス様でさえ、文献でしかその存在を知らなかったと仰っていましたから……。慎重に、手順を追って進める必要がある、と」
彼女の言葉に、俺は納得した。幻と言われるほどの代物だ。ただ煎じて飲めば治る、というような単純なものではないのだろう。最先端の医療でも、未知の物質から特効薬を開発するには、膨大な臨床データと時間が必要になる。それと同じことか。
「それは、なかなか難しそうな課題だな。それで、クゼルファはこっちに来ていて大丈夫なのか?無理に俺に付き合わなくても良いんだぞ?」
彼女の疲れた顔を見ると、少し申し訳ない気持ちになる。何よりも大切に思っている友人が、まさに今、治療の瀬戸際にいるのだ。聖樹の雫という最大のキーアイテムを手に入れたとはいえ、まだまだ予断を許さない状況に変わりはない。こんな場所にいても、気もそぞろで落ち着かないのではないか。
「いえ。私にとっては、カガヤ様も大切ですので……」
その、あまりにストレートな言葉に、俺は「え?」と思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。彼女は、自分が口にした言葉の意味に、その瞬間、気づいたのだろう。途端に、その白い頬が、熟した果実のように真っ赤に染まっていく。
「あ、あの!その、カガヤ様は、私の命を救ってくださった、大恩人ですから!その、大変、感謝しておりますので……!決して、変な意味では……!」
真っ赤になった顔で、しどろもどろに言い訳をするクゼルファ。その必死な様子が、なんだか微笑ましくて、俺は思わず苦笑した。
「大丈夫だよ」
俺は、できるだけ優しい声で彼女を諭し、改めて感謝の言葉を述べた。
「こちらこそ、色々と世話になって感謝している。クゼルファがいなかったら、俺は今頃どうなっていたか分からない。本当に助かっているんだ」
俺の言葉に、クゼルファは、はにかみながら「そんなことはありません。私が受けたご恩を考えれば、これしきのこと……」と、また恩義を口にしようとする。彼女のこの真面目さ、そして純粋さには、これ以上何を言っても無駄かもしれないと悟った。
「それで、カガヤ様は、これからどうされますか?」
話題を変えるように、クゼルファが尋ねてきた。
「そうだな。特に何も考えていなかった。強いて言うなら、この街のことを、もう少し知りたいかな」
現状、この世界の金銭はほとんどないに等しい。できることも限られている。まずは、このヴェリディアという街の構造、文化、経済……そういった情報を収集するのが賢明だろう。商人として、市場調査は基本中の基本だ。
「それでしたら、街を観光なさりながら、お買い物などはいかがでしょうか?」
クゼルファの提案に、俺は首を傾げた。「買い物?」
「はい。カガヤ様には、色々と入り用の物もおありでしょうし……」
そう言いながら、クゼルファの視線が、俺の着ている服に向けられた。そのジト目とも言える視線に、俺は自分の服装を見下ろす。アルカディア号の船員服を、森でのサバイバル用に少し改造したものだ。機能性は高いが、この中世ファンタジー風の世界では、浮きまくっている自覚はあった。
「あー、やっぱりこの服装、変か?」
「え?い、いえ、あの……その、とても個性的で、素敵だと……思います」
クゼルファは明らかに言いよどんでいるが、その答えが全てを物語っていた。
「しかし、俺には先立つ物がないんだよな」
「昨日、ギルドカードにチャージいたしましたが、もうお使いになられましたか?」
「あ、そう言えばそうだったな。スッカリ忘れてたよ」
「ふふふっ。大丈夫ですよ。それに、もし足りなくなったとしても、私が立て替えておきますので」
彼女は悪戯っぽく笑う。その笑顔は、昨日の疲れを感じさせないほど、魅力的だった。
「でも、返すあてがないからな……」
俺が困惑していると、クゼルファは、まるで面白いことを思いついた子供のように、目を輝かせた。
「きっと、『聖樹の雫』の報酬が入りますから。カガヤ様は、大金持ちになるかもしれませんよ」
「しかし、あれはクゼルファの手柄だろ?俺はただ、少し手伝っただけで……」
「そんな訳ありません!カガヤ様がいらっしゃらなければ、私は魔乃森で命を落としていました。聖樹の雫を見つけることも、持ち帰ることも、絶対に不可能でした。ですから、カガヤ様もきちんと報酬をお受け取りください。これに関しましては、私は一歩も譲りませんからね」
彼女の、普段の物静かな様子からは想像もつかないほどの、強い意志のこもった言葉。その真剣な瞳に見つめられては、俺に断る選択肢はなかった。
「……わかったよ。じゃあ、ありがたくそうさせてもらう。とは言え、まだ捕らぬ狸の皮算用だがな」
「とら……ぬ……たぬき……?」
きょとん、とクゼルファが不思議そうに首を傾げる。その単語が、この世界には存在しないことを、俺はそこで初めて悟った。
「あ、いや、なんでもない。こっちの話だ」
俺は慌てて手を振って誤魔化した。
「それでは、朝食が終わりましたら、出かけましょうか」
「了解」
こうして、俺はクゼルファと共に、この異世界の街、ヴェリディアを散策することとなった。それは、俺にとって、この星での新たな日常が始まる、記念すべき第一歩となるのだった。
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