第33話:託された希望
お読みいただき、ありがとうございます。
今回は、クゼルファ視点です。
朝・昼・夕の1日3回の更新を目指しています。
少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。
カガヤ様と別れた後、私はヴェリディアの石畳を、ほとんど駆けるようにして進んでいた。懐に抱いた、ひんやりと滑らかな金属の容器。その中に、エラルの、そして私の、全ての希望が眠っている。その重みが、私の足を前へ前へと急かせるのだ。
領主屋敷へと続く大通りが見えてきた頃、私の姿を認めた馴染みの衛兵が、驚いたように声を掛けてきた。
「クゼルファ様、そのようなお姿で、どうなされたのですか?」
彼の視線が、私の泥や埃に汚れた旅装束に向けられているのが分かった。だが、今は身なりを気にする余裕などない。
「お願いです。ご領主様に、火急の要件にて、お目通りを願いたいのです」
私の切羽詰まった声色に、衛兵は少し戸惑った様子を見せたが、すぐに事の重大さを察してくれたのだろう。傍らに設置された通話用の魔道具に、すぐさま連絡を入れてくれた。
「こちら正門、クゼルファ様がお見えである。なんでも、ご領主様に火急のお目通りを、とのことだが……」
魔道具から聞こえる微かな雑音の後、しばしの沈黙が流れる。私の心臓が、早鐘のように打ち鳴らされるのが分かった。もし、ここで断られたら……。そんな私の不安を打ち消すかのように、落ち着いた声が返ってきた。
「……お通ししなさい」
あの声は、この屋敷の執事を務めるゼドラス殿。良かった……。幼い頃から私とエラルのことを見守ってくださっている彼ならば、無下に追い返すようなことはしないと信じていた。
「お通しするように、とのことです。さあ、中へ」
衛兵に促され、私は深く一礼すると、固く閉ざされていた門の中へと駆け込んだ。
広大な前庭を抜け、屋敷の玄関へとたどり着くと、そこには既にゼドラス殿が扉を開けて待っていた。その顔には、いつもの穏やかさの中に、わずかな緊張の色が浮かんでいる。
「ありがとう存じます、ゼドラス殿。急な訪問、まことに申し訳ございません」
「とんでもございません、クゼルファ様。よくぞ、ご無事でお戻りになりました。さあ、中へどうぞ」
ゼドラス殿にそう促され、私は屋敷の中へと入る。磨き上げられた大理石の床、壁に飾られた壮麗な絵画。私の実家であるゼラフィム家の屋敷とはまた違う、質実剛健ながらも威厳に満ちたこの空間が、今はひどく息苦しく感じられた。エラルの部屋まで、今すぐにでも駆け出したい。その衝動を、私は必死に抑え込み、ゼドラス殿の静かな背中の後を、一歩一歩、踏みしめるように歩いて行った。
案内されたエラルの部屋の扉を開けると、甘い薬草の香りと、沈んだ空気が私を迎えた。天蓋付きの大きなベッドの上で、エラルが静かに横たわっていた。かつて陽の光のように輝いていた彼女の金色の髪は色褪せ、頬はこけ、その顔色は病の深刻さを物語っている。傍らには、心配そうに侍女たちが付き添っていた。
「クゼルファ……。よく、来てくれました……」
先触れがあったのだろう。エラルはゆっくりとこちらを向き、弱々しい、しかし、確かな喜びを宿した声でそう言った。その声を聞けただけで、私の胸は熱くなる。
「今日はどうしたの?……お父様に、急ぎの要件があると……」
エラルがそう話し始めた、その時だった。
ダンッ、と重い音を立てて、部屋の扉がまるで蹴破るかのように、荒々しく開け放たれたのだ。
「お館様。お静かに願います」
ご領主様とて容赦しないゼドラス殿が、静かだが、有無を言わさぬ低い声でそう注意する。
「む……すまんな。そうは言っても、気が逸るというものだろう」
そう言いながら、部屋に入ってきたのは、このヴェリディアの領主であり、エラルの父君であるお方だった。その鋭い鷲のような目が、まっすぐに私を射抜く。
「して、火急の要件とは何だ、クゼルファ」
まるで罪人を問い質すかのような、厳しい声。その声には、一人娘を蝕む病への怒りと、どうしようもない無力感が滲んでいるのを、私は知っていた。
「お父様。そのような怖いお声をなさると、クゼルファも話しにくいですわ」
病床から、エラルがご領主様を優しく、しかし凛とした声で窘める。彼女は、いつだってそうなのだ。どんなに弱っていても、その芯の強さは決して失われない。
「うむ……すまんな、クゼルファ。……して」
「はい。ご領主様。本日は、こちらをお持ちいたしました」
私はそう言うと、懐から、カガヤ様から託された銀色の容器を、恭しく両手で差し出した。
「……それは、変わった入れ物だな。中には何が入っている?」
「はい。こちらには、『聖樹の雫』が入っております」
私の言葉に、部屋の空気が凍りついた。
「なにっ?」
ご領主様は、信じられないといった様子で眉をひそめ、一歩、私に詰め寄る。
「誠に、聖樹の雫なのか?どこで手に入れた?……まさか……其方、あの『魔乃森』の奥地まで行ったというのか?」
「はい。その通りでございます。魔乃森の最奥とも言える場所に、咲いておりました」
私は、あの幻想的な光の野原を思い出しながら、静かに答えた。だが、流石に群生していたとは言えなかった。幻とまで言われる聖樹の雫が、たやすく手に入ると分かれば、利権を求める者たちが、あの聖域を荒らしかねないからだ。それは、カガヤ様が守ってくださった場所でもあるのだから。
私の答えを聞き、ご領主様は、じっと私の目を見つめていた。その瞳の奥で、激しい感情の葛藤が渦巻いているのが分かった。
「……そうか。……入手手段は気になるところだが、今は良い。それよりも、一刻も早くエラルの治療を……」
そう意気込むご領主様に、ゼドラス殿が冷静に言葉を挟んだ。
「お館様。お待ちください。まずは、その聖樹の雫が真なるものか、確認する必要があろうかと存じます」
「貴様、クゼルファが嘘を申しておると言うのか?!」
「まさか。クゼルファ様は、誰よりも真摯なお方。ですが、それと聖樹の雫が真であるかは、また別の問題でございます。万が一ということもございます。直ちに、鑑定のご用意を」
ゼドラス殿の冷静な判断に、ご領主様はぐっと言葉を飲み込み、すぐさまエラルの治療にあたっている医師団を呼び寄せるよう命じた。
程なくして、部屋はにわかに慌ただしくなった。集められたのは、このヴェリディア、いえ、この国で最高峰と言われる専門家たち。高位の医療従事者に、高位の魔術師、王都から招かれた薬師……。その誰もが、緊張した面持ちで、私が差し出した小さな容器を見つめている。
ご領主様は、私から聖樹の雫が入った容器を受け取ると、それを医師団の長である、一人の壮年の男性に渡した。
南の公爵、ゼラフィム家の筆頭魔術師、カルネウス・ンゾ・ヴァレリアス様。私の父が、最も信頼を置く魔術師だ。彼がここにいるということは、きっと、お父様がご推薦なさったに違いない。この方ほどに、魔力枯渇症の治療に精通している方を、私は他に知らない。
カルネウス様は、厳かな手つきで容器を受け取ると、それを開けることなく、じっと見つめ始めた。おそらく、カガヤ様が仰っていた通り、この容器から出しては効力が失われると、その魔力の本質から見抜かれたのだろう。彼は、その透き通るような青い瞳を閉じ、全神経をその掌中の奇跡に集中させているようだった。
部屋中の誰もが、固唾を飲んで彼の一挙手一投足を見守っている。落ちる針の音さえ聞こえそうな静寂の中、永遠にも思える時間が過ぎていった。
やがて、カルネウス様は静かに目を開き、そのお顔を上げ、厳かに口を開いた。
「ご領主様……これは……。間違いなく、幻と言われた『聖樹の雫』にございます。私も文献でその存在を知るばかりで、実物を手にするのは初めて。ですが、この内に秘められた、生命そのものとも言うべき高次元の魔素……鑑定の結果と、古の文献との記述を鑑みても、真なるものと断言いたします」
カルネウス様がそう宣言した瞬間、部屋の中に、堰を切ったような感情の奔流が巻き起こった。歓喜の声を上げる者、息をのむ者、その場に泣き崩れる侍女たち……。
ご領主様は、その中にあって、震える声で、最後の望みを問いかけた。
「カルネウス殿。その聖樹の雫をもって、エラルの治療は……可能なのか?」
「はい。初めての試みとはなりますが、これほどの生命力を宿す秘薬です。必ずや、エラル様の病に効果がありましょう。お約束いたします」
カルネウス様の力強い言葉に、ご領主様は、ここでようやく、張り詰めていた緊張の糸が切れたように、安堵の息を深く、深くついた。そして、次の瞬間、彼は、私に向き直り、このヴェリディアの領主たる方が、深々と、その頭を下げたのだ。
「クゼルファ……ありがとう。お前には、感謝してもしきれない……」
「い、いえ……!そのような……もったいないことでございます!お顔をお上げください!」
私は、慌ててそう言いながら、後ずさりそうになるのを必死で堪えた。違うのだ。感謝されるべきは、私ではない。この奇跡は、私の力で手に入れたものではないのだから。そのほぼ全てが、カガヤ様という、ただ一人の異邦人のおかげなのだから。
だが、そのことを、今ここで申し上げることはできない。
カルネウス様は、すぐさま他の医師団の方々と、聖樹の雫をどのようにして精製し、エラルに投与するかを、文献と照らし合わせながら、慎重に検討を始められた。
今、この場でエラルの病状が良くなったわけではない。だが、閉ざされていた暗闇の中に、確かに、今までになく大きな希望の光が見えた瞬間だった。
本当に、良かった……。本当に、ありがとうございます……カガヤ様。
私は、カガヤ様がご滞在されている宿屋があるであろう方角へ、心の中で、深く、深く頭を下げ、感謝の祈りを捧げた。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!
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