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第256話:深淵の捕食者

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

そこは、静寂の死地だった。


トンネルの中は無重力に近い。

俺はスラスターを微調整しながら、滑るように空間を進んでいく。


バイザー越しに見える光景は、狂気そのものだった。


トンネルの「壁」一枚隔てた向こう側では、数千トンの深海水圧と、亜空間の赤黒い稲妻がせめぎ合い、凄まじいエネルギーの奔流となって渦巻いている。

もし、ポセイドンからの照射が僅かでも途切れれば、このトンネルは瞬時に圧壊し、俺は素粒子レベルまで分解されるだろう。


(薄氷の上を歩くってのは、こういうことか……)


俺は冷や汗が流れるのを感じながらも、視線を前方一点に集中させた。

トンネルの先、亜空間の最深部。

そこに、瓦礫と共に浮遊する影が見える。


「……あれか」


近づくにつれ、その姿がはっきりとしてきた。

クジラ型の精霊獣。

だが、その体は小さくなり、身体中に時空の裂傷が走っている。

周囲の空間から伸びる赤黒いエネルギーの触手が、精霊獣の身体に絡みつき、その生命力を吸い上げているようだった。


「……酷え有様だ」

俺はスラスターを噴射し、精霊獣の元へと急行する。



精霊獣はピクリとも動かない。瞳は虚ろに開かれ、光を失っている。

数万年の孤独。

誰にも見つけられず、死ぬことも許されず、ただ世界のバグとして処理され続けた痛み。


「待たせたな。……迎えに来たぜ」

俺は精霊獣の目の前に到達し、そっと手を伸ばした。



その巨大な嘴に触れようとした、その時。


『警告。空間変動率、急上昇』

アイの声が通信機から響く。


『マスター、急いでください! 亜空間が「異物」の侵入に反応し、トンネルを押し潰そうとしています!』


「くそ!やってくれるな!」


俺の手が、精霊獣の冷たい身体に触れた。

その瞬間、ドクン、と精霊獣の心臓が跳ねる音が、スーツ越しに伝わってきた。


「……クゥー……?」


精霊獣の瞳に、微かな光が戻る。

だが、それは希望の光ではなかった。

長すぎる苦痛によって変質した、恐怖と拒絶の光。


「……帰レ……」


直接脳内に響く、しわがれた思念。


「……ココハ……我ノ……墓場……」


ズズズズズ……!!

トンネルの外壁が悲鳴を上げる。

精霊獣の身体から、漆黒の魔力が噴き出し始めた。


「……チッ、やっぱり大人しくは来てくれねぇか!」


俺はスーツの出力を最大に上げ、暴れだそうとする精霊獣にしがみついた。

ここからが、本当の勝負だ。


「墓場なんかじゃねぇ! お前の大精霊が待ってるんだよ! 意地張ってねぇで、さっさと起きろ!!」


静寂のトンネル内で、俺の咆哮と精霊獣の慟哭が交差する。

崩壊寸前の回廊で、命を懸けた綱引きが始まった。


だが、その直後だった。


『――ッ!? マスター! 回避してください!!』


アイの悲鳴に近い警告音。

俺が反応するよりも早く、トンネルの「外側」から、何かが激突した。


ガギィィィィンッ!!


「ぐあぁっ!?」


凄まじい衝撃が走り、俺と精霊獣は無重力の空間ごとかき回される。


トンネルを維持している「次元定着ビーム」の光壁が、激しく明滅した。


「な、なんだ!? 空間が崩壊したのか!?」


俺は姿勢制御スラスターを噴かし、体勢を立て直す。

視線を上げた先。

トンネルの透明な壁の向こう側に、”それ”は張り付いていた。


「……なんだ、ありゃあ……」


それは、深海魚でもなければ、先ほどまで相手にしていた「虚無の番人」でもなかった。

不定形の、半透明なゼリー状の巨体。

その内側では、青白い光がバチバチとスパークし、まるで銀河を飲み込んだかのような高エネルギー反応を放っている。

目も口もない。だが、その身体全体が、俺たちのいるこの「トンネル」を覆い尽くそうと、へばりついていた。


『解析完了……! そんな、馬鹿な……』

モンテストゥスの驚愕の声が響く。

『高エネルギー指向性・ディメンション・イーター! このような原始的な捕食者が、なぜここに!?』


「次元喰いだと!?」


『そうだ! 奴らは生物ではない。安定した空間そのものを餌とする、高次元のエネルギー生命体だ! 普段は事象の地平の彼方に潜んでいるはずなのに……!』


ズズズ、とトンネルの壁が歪む。

奴らが張り付いている部分から、光の壁が急速に輝きを失っていく。

食われているのだ。

俺たちが作った、この安全な空間そのものを。


「まさか……俺たちが呼んだってのか?」


俺は戦慄した。

この亜空間は、混沌とカオスの吹き溜まりだ。

そんな場所に、俺たちは「次元定着ビーム」を使って、完璧に安定した、高純度のエネルギーで構成された「真空のトンネル」を作り出した。


それは、飢えた捕食者たちにとって、暗闇の中に突然現れた極上のディナーテーブル以外の何物でもなかったのだ。


『その通りです、マスター!』

アイの声が焦燥に染まる。


『私たちが構築した「安全な道」が、逆に奴らにとっての「極上の餌」となってしまいました! 周囲からさらに三体、いえ、五体接近中! このままでは吸い尽くされます!』


「冗談じゃねぇぞ……!」


俺は精霊獣を抱え直した。

この道は、精霊獣を助けるための命綱だ。

それが、逆に俺たちを殺す罠になったなんて、笑えない皮肉だ。


ガパリ。


壁に張り付いていた次元喰いの一つが、身体を大きく広げた。

そして、トンネルの光壁に、存在しないはずの「牙」を突き立てた。


ピキッ……。


嫌な音が、真空のはずのトンネル内に響き渡った。

目の前の光の壁に、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。


『警告。次元隔壁、損傷率30%……40%……! 維持不能!セクターC、E、崩壊します!』


「ポセイドンの出力はどうだ!?」


『限界です! これ以上出力を上げれば、エンジンが爆発します!』

セツナの悲痛な叫びが聞こえる。


『カガヤ様! 早く戻ってください! 道が塞がれてしまいます!』

クゼルファの声。


戻る?

俺は背後を見た。

ポセイドンへと続く光の道。

だが、そこにはすでに別の次元喰いが群がり、トンネルの中腹に喰らいついていた。


バリンッ!!


盛大な破砕音と共に、俺とポセイドンの間にあるトンネルの一部が砕け散った。

瞬間、深海の強烈な水圧と、亜空間の泥流が、決壊したダムのようにトンネル内へとなだれ込んでくる。


「――ッ!!」


帰る道が、消えた。


『警告。次元隔壁、完全崩壊まで、あと10秒』


アイの無慈悲なカウントダウンが始まる。


「9」


濁流が、猛烈な勢いでこちらに迫ってくる。

あれに飲み込まれれば、強化スーツごとプレスされ、そのあと亜空間の虚無に分解されて終わりだ。


「8」


俺の腕の中では、精霊獣が暴れている。

「離セ、我ハココデ死ヌ」という拒絶の意思を撒き散らしながら。


「ふざけんな……!」


「7」


俺は精霊獣の首根っこを掴み、無理やり自分の方へ引き寄せた。

逃げ道はない。

前も、後ろも、次元喰いと崩壊の波に囲まれた。


「6」


(考えるな、動け。最適解を探せ)


俺の脳内細胞が焼き切れるほどの速度で思考を加速させる。

ポセイドンへの帰還は不可能。 この場で留まれば圧死。 次元喰いを倒す? 無理だ、キリがない。


「5」


なら、どうする?

生き残る方法は?

この、頑固で死にたがりのクジラを連れて、どうやってこの地獄を抜ける?


「4」


俺の視線が、ふと、足元に向いた。

そこには、まだ崩壊していない、亜空間の「底」が見える。

時空の吹き溜まりの、さらに奥底。

そこには、かつての大災厄で沈んだ古代都市の残骸が、まるで墓標のように漂っていた。


「3」


『マスター! 何をする気ですか!?』

俺の思考を読んだアイが絶叫する。


「2」


俺は、ポセイドンへ向けて通信を開いた。

これは、遺言じゃない。

次への布石だ。


「アイ、モンテストゥス! トンネルの維持を切れ! エネルギーを無駄にするな!」


『なっ!?』


「俺たちは……下に落ちる!!」


「1」


俺はスラスターを逆噴射させ、迫りくる次元喰いの口と、崩壊する壁の隙間――

奈落の底へと向かって、自ら身を投げた。


「0」


ズドォォォォォォンッ!!!


光のトンネルが完全に砕け散った。

深海の闇と、亜空間の混沌が、俺と精霊獣を、容赦なく飲み込んでいった。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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