第252話:誇り高き剣(クゼルファの矜持)
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「カガヤ様、意識レベル、危険域で変動中……!」
セツナの悲痛な声が、ノイズ交じりのコックピットに響く。
彼女は、シートベルトを引き千切った身でカガヤの背中にしがみつき、自身の魔力と意識を総動員して、主の精神が霧散するのを必死に繋ぎ止めていた。
カガヤの肉体は、もはや限界を超えていた。
高次元の嵐を、生身の脳と精神という「フィルター」を通してアイに送り続ける行為。それは、燃え盛る溶鉱炉の中に手を突っ込み続けているようなものだ。
目、鼻、耳からの出血は止まらず、彼の呼吸はヒューヒューと引き攣っている。
「……まだだ……」
カガヤは、血の泡を吹きながら、うわ言のように繰り返す。
「あと……二人……」
「急いで、アイ……!」
セツナが叫ぶ。
「カガヤ様の命が尽きる前に……!」
《――了解。ターゲット・クゼルファ。精神防壁、突破》
アイの電子の意識は、カガヤの苦痛の回廊を駆け抜け、次なる深淵へと突入した。
***
そこは、360度すべてが「鏡」でできた閉鎖空間だった。
壁も、床も、天井も。
逃げ場のないその場所には、無数の「クゼルファ」が映し出されていた。
だが、鏡に映っているのは、今の傷ついてボロボロなクゼルファではない。
白銀の鎧は一点の曇りもなく輝き、剣を構える姿は堂々としていて、迷いなど微塵も感じさせない。
それはクゼルファがずっと憧れ、なれなかった「完璧な理想の自分」だった。
その鏡の部屋の中心で、現実のクゼルファは血まみれになって膝をついていた。
「が、はっ……!」
シュッ、と鋭い音がして、クゼルファの二の腕が裂け、鮮血が噴き出した。
周囲に敵はいない。
ただ、鏡の中に映る「完璧な自分」が、冷たい目でこちらを見下ろしながら、剣を一振りしただけだ。
ここは精神世界だ。
「自分はダメな人間だ」という自己否定の思いが強ければ強いほど、鏡の中の「理想の自分」は強大になり、その軽蔑の眼差しは、現実の肉体を切り裂く鋭利な刃となって襲い掛かるのだ。
『遅い』
『弱い』
『脆い』
無数の鏡から、冷徹な声が響く。
それは彼女自身の声でありながら、他人よりも残酷な響きで彼女を責め立てた。
『お前のような不完全な騎士が、カガヤ様の隣に立てると思ったか?』
『セツナのように役に立つ技能もなく、セレスティア様のように癒やす力もない』
『お前にあるのは、他人を羨む醜い嫉妬心だけ』
「黙れ……黙れぇッ!」
クゼルファは叫び、ふらつく足で立ち上がると、鏡に向かって剣を叩きつけた。
ガギンッ!
嫌な音が響き、彼女の手にある剣が呆気なく弾かれた。
「な……ッ!?」
手元を見て、彼女は愕然とした。
彼女が握っていたのは、名剣でも魔剣でもなく、赤茶色に錆びついて刃こぼれした、ただの鉄屑だった。
『見ろ。それがお前の心の形だ』
鏡の中の完璧なクゼルファたちが嘲笑う。
自信を失い、自分には価値がないと思い込んでいる今の彼女には、まともな剣など作り出せないのだ。
『嫉妬深い女』
『足手まとい』
『不要な存在』
鏡の中の像が優雅に剣を振るうたびに、現実のクゼルファの体に見えない斬撃が刻まれていく。
「う、あぁぁ……!」
物理的な痛みよりも、「お前はいらない」と否定される心の痛みが、彼女を打ちのめしていく。
そうだ。私は嫉妬している。
みんなが持っている輝きが、私にはない。
カガヤ様の隣にいるのに、自分だけが何も持っていないという惨めさが、私を殺そうとしている。
「私は……いらない、存在……」
クゼルファの手から錆びた剣が滑り落ち、カランと乾いた音を立てた。
「――いいえ、違います」
パリンッ!
突然、一枚の鏡が内側から砕け散った。
クゼルファが驚いて顔を上げると、飛び散る破片の中から、光をまとったアイのアバターが飛び出してきた。
「アイ……!?」
「迎えに来ました、クゼルファ様」
アイは、無数の鏡に囲まれた空間で、クゼルファを庇うように立つ。
『部外者か』
『消えろ、機械人形』
鏡の中の「完璧な自分」たちが、一斉にアイを睨みつける。
彼女たちが剣を構えると、凄まじい圧力がアイを襲った。
「くっ……! 論理防壁、破損率上昇……!」
この空間において、クゼルファの「劣等感」こそが支配者だ。彼女が自分を卑下すればするほど、敵は無限に強くなる。
「無駄だ、アイ!」
クゼルファが叫ぶ。
「これは私が作り出した怪物だ! 私の弱さそのものだ! お前の理屈で勝てる相手じゃない!」
「ええ、そうです。私の論理では、貴女の感情は否定できません」
アイは、衝撃に耐えながらも、一歩も退かない。
その瞳が、青く輝く。
「ですが、事実をお見せすることはできます」
「事実……?」
「貴女が今、抱いている『醜い嫉妬』と。……貴女が本来たどるはずだった、『嫉妬さえできない虚無』とを」
アイが右手を掲げると、空間に巨大なスクリーンが展開された。
そこに映し出されたのは、カガヤが見た、あの残酷な「本来の歴史」だった。
薄暗い魔乃森。
カガヤと出会わず、魔獣に襲われ、顔と身体を無残に引き裂かれるクゼルファ。
その後の転落人生。
誰にも愛されず、誰をも愛さず。
傷ついた顔を隠し、路地裏で腐った水を啜り、孤独に震える姿。
そこには、嫉妬する相手すらいない。
「誰かより上手くなりたい」「あの人に認められたい」と願う気力すらなく、ただ冷たい石畳の上で、誰にも知られずに息絶える、惨めな最期。
「……っ!?」
クゼルファが息を呑む。
鏡の中の幻影たちも、そのあまりに救いのない映像に動きを止めた。
「これが、カガヤ様と出会わなかった貴女の未来です」
アイが静かに告げる。
「御覧なさい。この世界の貴女は、誰にも嫉妬していません。誰とも比べていません。……だって、貴女の周りには、比べる相手すらいないのですから」
「あ……」
「貴女は今、『嫉妬深い』とご自身を責めています。他者と比べ、焦り、苦しんでいる」
「ですが、それは……貴女が『誰かと共に生きたい』『あの人と並び立ちたい』と強く願ったからこそ、生まれた痛みなのではありませんか?」
アイの言葉が、鏡の部屋に響き渡る。
「孤独な死か。嫉妬に焼かれる生か」
「貴女が選んだのは、後者だったはずです!」
ドクン。
クゼルファの心臓が跳ねた。
映像の中の、孤独に死にゆく自分。その瞳の虚無。
それに比べれば、今のこの胸を焼くような焦燥感は、なんと熱く、なんと鮮烈な「生きている」証だろうか。
『……黙れ』
鏡の中の幻影が、低い声で唸る。
『嫉妬は罪だ。騎士道に背く、醜い感情だ』
「いいえ!」
アイが叫ぶ。
「嫉妬とは、羨望の裏返し! それは、現状に満足せず、もっと高みへ行きたいという強烈なエネルギーです!」
「そして、何より……!」
アイは、カガヤから流れ込んでくる「熱」を、クゼルファに解き放った。
「カガヤ様は、貴女のその『人間臭い弱さ』こそを、愛おしいと言っています!」
『――クゼルファ!』
カガヤの声が、直接脳内に響いた。
それは、血反吐を吐きながら、それでも彼女の名を呼び続ける、魂の咆哮。
『お前が完璧な騎士だから、俺は背中を預けてるんじゃない!』
『お前が、誰よりも足掻いて、悩んで、それでも前に進もうとする……一番人間くさい女だから、俺は好きなんだよ!!』
「カガヤ……様……」
クゼルファの瞳から、涙が溢れ出した。
熱い。
嫉妬も、劣等感も、全てが熱となって全身を駆け巡る。
「……そうですね」
クゼルファは、ふらりと立ち上がった。
足元に転がっていた錆びついた剣を拾い上げる。
それは、「自分はダメだ」と思い込んでいた心が作り出した、みすぼらしい鉄屑。
「私は、嫉妬深い。セレスティア様のようになれない自分が、悔しい」
「セツナのように役に立てない自分が、情けない」
彼女は、顔を上げた。
その瞳には、もう迷いはなかった。
あるのは、燃えるような緑の炎。
「でも、それが私だ」
彼女が柄を強く握りしめると、錆びついた鉄屑が、パキパキと音を立ててひび割れた。
ひび割れから、強烈な光が漏れ出す。
自分を否定するのをやめ、その悔しさごと自分を受け入れた瞬間、心の形が変わったのだ。
「この痛みがあるから、私はもっと強くなりたいと思える!」
「この悔しさがあるから、私は誰にも負けたくないと思える!」
パリンッ!
錆びた剣の殻が砕け散り、中から眩いばかりの蒼白い光が溢れ出した。
それは、彼女の魔力と、カガヤへの想いが結晶化した、真の魔力剣。
「私は、完璧な騎士などではない! ただの、嫉妬深くて、強欲な女です!」
クゼルファは、光り輝く剣を、鏡の中の「完璧な自分」に向けた。
「だからこそ! 私は誰にも彼を渡さない!」
「運命にすら、私の居場所は譲らない!!」
『愚かな……!』
鏡の中の幻影たちが、一斉に襲い掛かる。
だが、もう遅い。自分を受け入れた彼女に、自分の幻影は通用しない。
「はあああああッ!!」
クゼルファの一閃。
それは、迷いを断ち切った、魂の一撃だった。
蒼白い光の軌跡が、鏡の回廊を薙ぎ払う。
パリン、パリン、パリンッ!!
無数の鏡が、幻影ごと粉々に砕け散った。
「完璧な自分」という呪縛は消え失せ、後に残ったのは、傷だらけだが、誰よりも美しく輝く一人の剣士と、彼女を守るAIの姿だけ。
「帰りましょう、クゼルファ様。私たちの場所へ」
「ええ。……待たせましたね、カガヤ様!」
光の渦が、二人を包み込んだ。
***
「――はっ!」
ポセイドンのコックピット。
クゼルファが、弾かれたように目を見開いた。
彼女の身体からは、凄まじい量の魔力が奔流となって吹き出していた。
「クゼルファ様!」
セツナの声。
クゼルファの視界に、ボロボロになったカガヤの姿が飛び込んできた。
全身から血を流し、意識が飛びかけながらも、高次元の嵐を受け止め続けている主の姿。
「カガヤ様……!」
クゼルファは、叫びと共に現実には存在しないはずの魔力の刃を、虚空から引き抜くような動作で構えた。
「させません……!」
彼女は、カガヤとセツナの前に立ち塞がり、剣を振るった。
その剣身には、精神世界で手に入れたあの蒼白い光が、現実の魔力となって纏わりついていた。
「私の愛する人たちに、これ以上、指一本触れさせない!!」
クゼルファが剣を一閃させると、コックピット内を浸食しようとしていた不可視の高次元の圧力が、物理的な衝撃を受けたかのように弾き飛ばされた。
「これは……!」
セツナが目を見張る。
「クゼルファ様の魔力が……実体化している?」
「ただの魔力ではありません」
アイの声が響く。
「精神干渉波を断ち切る、意志の刃。……クゼルファは、ご自身の『弱さ』を『強さ』へと反転させました」
クゼルファは、肩で息をしながら、背後のカガヤを振り返った。 その表情は、以前のような悲壮感漂うものではなかった。 不敵で、艶やかで、そして頼もしい、真の「公女」の笑みだった。
「お待たせしました、カガヤ様。……もう、大丈夫です」
「く、クゼルファ……」
カガヤが、血に塗れた顔で微かに笑う。
「いい……顔に、なったな……」
「ええ。あなたのせいですよ」
クゼルファは、愛おしそうに目を細めた。
「さあ、アイ! 残るはセレスティア様だけです!」
「この場の守りは、私とセツナが引き受けます! あなたは行って!」
《――了解。防衛リソースを、両名に委譲。……最終接続。対象、聖女セレスティア》
カガヤの限界まで、あとわずか。
だが、コックピットには今、絶望を覆す熱い希望の光が満ちていた。
アイの意識は、最後の、そして最も深い闇を抱える聖女の元へと飛んだ。
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