第251話:人形の夜明け(セツナの涙)
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「が、あぁぁぁぁぁぁッ!!」
カガヤの絶叫が、ポセイドンのコックピットを引き裂いた。
防御フィールドが消失した瞬間、高次元空間の圧縮された情報圧が、物理的な重圧となってカガヤの生身の肉体を押し潰しにかかったのだ。
彼の目、鼻、口から鮮血が噴き出す。
全身の骨が軋み、血管が破裂寸前まで膨張する。
それでも、彼は操縦桿から手を離さない。
彼自身が「錨」となり、この嵐をその身一つで受け止め、変換し、アイの通り道を作るために。
「マスター! バイタルが危険域を突破! これ以上は……!」
「行けぇッ!! アイッ!!」
カガヤは、血を吐きながら吼えた。
「あいつらを……セツナを、連れ戻せぇぇぇッ!!」
その叫びは、命令を超えた、魂の悲鳴だった。
アイの論理回路が、マスターの覚悟の熱量に焼かれる。
恐怖はない。躊躇もない。
あるのは、ただ一つの「最適解」。
「――了解・マスター」
アイは、カガヤの脳を経由して流れ込んでくる莫大な高次元データに、自らの意識を同期させた。
物理的な世界が遠のく。
カガヤの苦痛が、ノイズとなってアイの回路を駆け巡る。
そのノイズの奔流を逆流し、アイは最初のターゲット――最も深く「虚無」に沈んだ少女の精神領域へと、電子の身体を投じた。
***
そこは、灰色の空が広がる、終わりのない荒野だった。
風はなく、音もない。
ただ、見渡す限りに積み上げられているのは、「壊れた人形」の山だった。
手足のもげた人形。
首のない人形。
顔を焼かれた人形。
それらはすべて、セツナの顔をしていた。
かつて「影」として使い潰され、廃棄された、あり得たかもしれない彼女の末路の具現化。
その人形の山頂に、一人の少女が座り込んでいた。
セツナだ。
彼女は膝を抱え、虚ろな瞳で、何もない地平線を見つめていた。
その背中には、まるでぜんまい仕掛けの鍵穴のような、痛々しい孔が空いているように見えた。
「……セツナ」
アイのアバターが、灰色の世界に降り立つ。
セツナは反応しない。
アイは山を登り、彼女の目の前に立った。
「セツナ。聞こえていますか。私は、アルカディア号のAI、アイです。貴女を迎えに来ました」
「……アイ……?」
セツナが、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、生気がない。
焦点が定まらず、壊れたレコードのように、途切れ途切れの音声を紡ぐ。
「……アナタ……マダ……動クノ……?……イイ……な……」
「セツナ?」
「ワタシハ……もう……壊レタ…………カガヤサマ…ガ……言ッタ……。『失敗作』……ダッテ……」
「それは幻影です。高次元の干渉が見せた、貴女の恐怖の投影に過ぎません」
アイは冷静に告げる。
だが、セツナは首を振った。その動きすら、ギギ、と音がしそうなほど不自然だった。
「チガウ……真実……。ワタシハ……道具……ダカラ……廃棄。……ココガ……処分場……」
セツナは、自分の足元に転がる、首の取れた人形を愛おしげに撫でた。
「コノ子タチト……一緒……。ココデ……朽チテ……動カナイ……ソレガ……最適解……」
拒絶。 完全なる自己否定。 アイの論理では、この強固な絶望の壁を崩せない。 彼女は自らを「故障した人形」と定義し、思考をシャットダウンしようとしている。
(論理的説得、失敗。言語野に重篤な退行を確認。……アプローチを変更。感情データの、直接転送を試行)
アイは、自らのメモリの奥底に格納された、「あるデータ」を解凍した。
それは、カガヤがこのダイブの直前に見た、「本来の歴史」の記憶。
そして、それを見たカガヤが抱いた、激しい「拒絶」と「悲しみ」の感情データ。
「……セツナ。これをご覧ください」
アイが手をかざすと、灰色の空がスクリーンへと変わった。
映し出したのは、カガヤが見た「正史」。
カガヤと出会わなかった世界線のセツナ。
名前すら持たず、「影」として暗躍し、最後は敵の罠にかかり、誰にも看取られず、冷たい石畳の上で血の海に沈む少女の姿。
道具として生き、道具として死んだ、完璧な虚無の末路。
セツナの瞳が、映像に釘付けになる。
ピクリ、と頬が痙攣した。
「……あ……」
「これが、貴女が本来たどるはずだった運命です。貴女が望む『完璧な道具』の末路です」
アイの声色が、無機質なものから、次第に熱を帯びていく。
「貴女は、こうなりたかったのですか? カガヤ様と出会わず、名前ももらわず、誰の記憶にも残らず、ただ部品として廃棄されることを」
「……イヤ……」
セツナの喉から、軋むような音が漏れる。
「……イヤ……あ……あ……」
「カガヤ様は、この未来をご覧になりました」
アイは一歩踏み出した。
「そして、泣いておられました」
「……え……?」
「御覧なさい。これが、マスターの『心』です」
アイは、カガヤから受け取った感情の奔流を、セツナの精神に直結させた。
ドクン。
セツナの胸が、高鳴った。 流れ込んできたのは焼けるような熱さ。 胸が張り裂けるような痛み。
『ふざけるな!』
『こんな終わり方、俺は認めない!』
『俺は、セツナに生きていてほしいんだ!』
『道具なんかじゃない! 家族だ! 俺の大事な、家族なんだ!』
カガヤの魂の叫びが、セツナの虚無を焼き尽くす。
あの冷徹な幻影のカガヤとは違う。
不器用で、熱くて、優しくて、誰よりも仲間を想う、本物のカガヤの「熱」。
「あ……ぅ……あぁ……」
セツナの目から、ポロポロと、一筋の涙がこぼれ落ちた。 壊れた人形のような瞳に、色が、温度が戻り始める。
「マスターは、貴女が『道具』であることを求めてはいません」
アイは、セツナの前にひざまずき、その手を強く握りしめた。 アイのアバターから、パチパチと火花が散る。 カガヤの感情データは、AIであるアイの処理能力を超え、彼女の回路にも過負荷を起こしていたのだ。
「マスターは……今、この瞬間も、血を流して、貴女を呼んでいます」
アイの瞳から一筋の雫がこぼれ落ちる。 それはまるで、涙のように見えた。
「貴女が『恐怖』というバグを抱えた人間であることを……マスターは、愛おしいと叫んでいます。貴女が弱さを知る人間だからこそ、背中を預けられるのだと!」
アイの声が割れる。
「戻ってください、セツナ!。貴女の居場所は、この廃棄場ではありません。貴女の居場所は……マスター…カガヤ様の、隣です。」
セツナは、アイの涙を見た。
AIが流す、あり得ないはずの涙。
それは、カガヤの想いが、アイという器を通じて溢れ出した証。
「……カガヤ、様……」
セツナの手が、アイの手を握り返す。
冷たかった指先に、熱が戻る。
たどたどしい機械の言葉は消え、確かな意思を持った「人間」の声が戻る。
「私は……道具じゃ、ない」
セツナが立ち上がる。
足元の人形の山が、崩れ去っていく。
灰色の空に、亀裂が入る。
「私は、セツナ。カガヤ様に名前をもらった……彼の『家族』!」
セツナの顔に朱が混じる。
「私……帰らなきゃ……!あの方が……私を、呼んでいる!」
セツナの瞳に、かつてない強い光が宿った。
それは、暗殺者の冷たい光ではない。
大切な人を守りたいと願う、人間としての意志の光。
「行きましょう、アイ! 私たちの主人の元へ!」
セツナが叫んだ瞬間、灰色の世界はまばゆい光に包まれて消滅した。
***
「――ッ!!」
現実世界。
コックピットで、セツナが弾かれたように顔を上げた。
瞳の焦点が、一瞬で定まる。
「……カガヤ様ッ!!」
彼女の視界に飛び込んできたのは、操縦席で血まみれになりながら、歯を食いしばって虚空を睨み続けるカガヤの背中だった。
彼の身体からは、バチバチと高次元のスパークが迸り、肉体が崩壊する寸前で踏みとどまっているのが見て取れた。
「か、が……っ!」
セツナは、自分の身体を拘束していたシートベルトを一瞬で引き千切り、カガヤの元へ駆け寄った。
「帰って来て、くれたか……セツナ……」
カガヤが、血に濡れた口元を歪めて笑う。
その瞳は、まだ高次元の嵐を見据えたままだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい、カガヤ様……!」
セツナは、カガヤの背中に手を当て、自身の魔力を注ぎ込もうとする。だが、今のカガヤに必要なのは魔力ではない。
彼の精神を繋ぎ止める、「楔」だ。
「無事なら……いい……」
カガヤの意識が、ふらりと揺らぐ。
「まだだ……まだ、あと二人が……残っている……」
「はい……分かっています」
セツナは涙を拭い、その表情を一変させた。 そこにあるのは、もう迷える少女の顔ではない。 主を守る、最強の「影」の顔。 だが、以前とは違う。冷徹さの奥に、燃えるような情熱を秘めた、真の戦士の顔だ。
「アイ。クゼルファ様の座標へ。私が、カガヤ様の意識を支えます」
セツナは、カガヤの手を上から強く握りしめた。
《……了解。セツナ、マスターの精神防壁の補助をお願いします。マスターの自我が霧散しないよう、貴女の声で繋ぎ止めてください》
アイの声もまた、ノイズ交じりだが、力強さを取り戻していた。
「任せて。……絶対に、逝かせない。私がここにいる限り、カガヤ様は、誰にも渡さない!」
セツナの決意に呼応するように、カガヤのバイタルがわずかに安定する。
カガヤは、薄れゆく意識の中で、確かに感じていた。
背中を預けられる、温かい体温。
自分が命を懸けて選んだ未来が、今、自分を支えてくれている。
(ああ……やっぱり、間違ってなかった……)
カガヤは口の中で血を吐き捨て、再び前を見据えた。
「アイ……次は、クゼルファだ……」
「了解。――精神接続、再試行。対象、クゼルファ・ンゾ・ゼラフィム」
アイの電子の意識が、再びカガヤという回廊を抜け、次なる深淵――嫉妬と劣等感が渦巻く「鏡の間」へと飛び込んだ。
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