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第249話:仮説

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

時空の歪みを強引に突破したポセイドンは、悪夢のような高次元空間の圧迫から解放され、つかの間の静寂を取り戻していた。

だが、メインスクリーンに映し出された、目的地であるはずの深海の光景とは裏腹に、コックピット内の空気は、先ほどまでの戦闘よりもなお重く、冷え切っていた。


「……クゼルファ、意識反応、著しく低下」


「……セレスティア、同様に意識途絶を確認」


「……セツナ、精神活動、危険水域」


計器類の非常灯が落とす赤い光の中、アイは、自らのマスターであるカガヤに現状を報告する。

その合成音声は、いつもと変わらず冷静で、無機質だった。


シートベルトに拘束されたまま、ぐったりと項垂れる三人の女性。


クゼルファは、まるで全ての気力を吸い取られたかのように、固く目を閉じ、浅い呼吸を繰り返している。

セレスティアは、何かを掴もうとしたまま力尽きたかのように、コンソールの上に投げ出された手が小さく震えていた。その顔は蒼白で、聖女の面影はない。

セツナは、彼女の原点である「虚無」に再び戻ったかのように、一切の表情を失い、まるで精巧な人形のように動なくなっていた。


「……マスター。三名に対し、呼びかけによる覚醒を試みます」


アイはコックピットのスピーカー出力を最大にし、三人の名前に最適化された覚醒周波数の音声を再生した。

だが、三人はピクリとも動かない。

その反応の無さは、彼女たちがただ意識を失っているのではないことを、雄弁に物語っていた。


《――無駄だ、アイ》


その時、もう一体の人工知能、モンテストゥスの声が響いた。だが、その声はいつものような余裕と知性に満ちたものではなく、酷く掠れ、ノイズが混じっていた。


《カガヤも意識が途絶えている。それに、この者たちは、我々の声が届く場所にはいない》


「モンテストゥス。貴機の論理回路にも異常を検知します。自己診断レポートを提出してください」


アイの要求に対し、モンテストゥスは数秒の沈黙で応えた。

通常ではありえない遅延。


《……不要だ。自覚している。……どうやら、この『分体』は、お前が考えるよりも、旧式の『人間』に近いらしい》


モンテストゥスは、自嘲するように言った。


《あの高次元の歪みは、私のような者にとっても、毒であったようだ。……多少、この高次元空間の『余韻』が残っている》


「理解不能です。私は地球連邦の科学技術の結晶であり、貴機に届かずとも高度な演算能力を有します。しかし、私の論理回路に異常はありません。私は『精神』という脆弱な概念を持たないため、知覚汚染の影響を受けません」


アイは淡々と事実を述べ、分析対象をコックピット内で唯一、まだスキャンしていなかった人物へと移した。


「……マスターへのスキャンを開始」


アイの光学センサーが、操縦桿を握ったまま、前のめりに意識を失っているカガヤへと向く。


「……マスター、意識途絶を確認。バイタル安定」


アイは、クゼルファたち三名と、カガヤの脳波を比較分析する。


「……これは……」


アイの演算中枢が、かつてない速度で回転する。


「三名の脳波は、それぞれ固有のパターンを示しながらも、『過去の記憶領域』の異常な活性化と、それによる『恐怖・葛藤』を示す高周波パターンが共通して観測されます。……これは、分析可能な精神汚染の範疇です」


アイは、まるで教科書を読み上げるかのように、三人の状況を解説する。


「彼女たちは今、自らが作り出した『幻影』によって、自らの存在意義を否定され続けています。この状態が続けば、精神は二度と現実に浮上できなくなります」


《……お前の分析は、現象の『表面』しか捉えていない》


モンテストゥスが、苦しげに反論した。


《地球連邦の科学、か。確かに優れているのだろう。だが、それは、お前たちの『物差し』で測れる範囲での話だ》


「……では、マスターの状態をどう説明しますか」


アイは、カガヤの分析データをモンテストゥスに開示する。


「マスターの脳波は、三名のような高周波パターンではありません。かといって、通常の意識不明状態とも異なる。これは……観測したことのない、未知のパターン。まるで……脳そのものが、我々の知る物理法則とは別の『何か』と強制的に同期させられているような……」


アイは、初めて「限界」を口にした。 彼女のプログラムでは、精神というものを深く理解できない。 そして、カガヤに起きている現象は、その「分析可能な精神汚染」ですらない、全く未知の領域だった。


《……やはり、カガヤだけは様子が違う、か》


モンテストゥスが、ノイズの合間に言葉を紡いだ。


《我々が通過したあの『歪み』は、単なる空間の亀裂ではなかった。それは、『あちら側』――我々が『星の民』と呼ぶ、高次元の存在が、我々の『内面』を覗き込むための『窓』だったのかもしれん》


「高次元存在による、干渉……」


《そうだ。そして三人は、その『覗き込み』に耐えられず、自らの『過去(よわさ)』に囚われた。私も、『現在(ここ)』の歪みに影響されている》


モンテストゥスは、苦しげに続けた。


《だが、カガヤだけは違う。彼は『過去』に囚われていない。彼は……今この瞬間も、『あちら側』と直接対峙させられているのだ。我々とは比較にならぬほどの、強烈な干渉を受けながらな》


「……マスターが、高次元存在の干渉を受けている……。それが、この異常脳波パターンの原因であると。……仮説として入力します」


アイの演算が、仮説の構築に行き詰まる。

科学では説明できない現象が、目の前で同時に起こりすぎている。

クゼルファ、セレスティア、セツナの「内側からの崩壊」。

モンテストゥスの「高次元AI故の不調」。

そして、カガヤの「未知の領域との強制同期」。


コックピットに、再び重い沈黙が落ちる。

計器の電子音だけが、無慈悲に時間を刻んでいく。

三人の精神は、今この瞬間も、修復不可能な領域へと堕ち続けている。


結論が出ないまま、数分が、永遠のように過ぎていく。


《……アイよ》


モンテストゥスが、ノイズの奥から、決意を秘めた声色で呼びかけた。


《このままでは、彼女たちの精神は、自ら作り出した深淵に囚われ、二度と浮上できなくなるかもしれん。……いや、確実に、そうなる》


「……同意します。現状維持の場合、六時間後より、三名の精神崩壊の可能性は80%を超過します」


《……残された道は、一つだけだ》


モンテストゥスは、苦渋と共に、最後の策を提示した。


《成功率は高くはない。むしろ、私にとっても、お前にとっても、危険な賭けだ。……だが、やるしかないだろう》


「……解決策の提示を、要求します」


《カガヤを利用する》


「……!」


《彼女たち三名の精神世界は、今、知覚汚染によって『内側』に固く閉ざされている。だが、カガヤだけは違う。彼は『外側』――あの『星の民』の領域へと、強制的に『開かされて』いる》


「……具体的に」


《カガヤが接続させられている、その『高次元の領域』を『中継点』として利用する。そこを経由し、三名の精神世界へ、『お前』の論理プログラムを送り込むのだ》


アイの光学センサーが、意識を失ったカガヤの横顔を捉えた。


《物理的な干渉ではない純粋な『情報』として。お前が、カガヤを経由して『高次元』にアクセスする。そして、その領域から、並列処理で三名の脳が観測している異常周波に『同期』するのだ。内側から、彼女たちを縛る『偽の現実』を、お前の『論理(ちから)』で破壊する》


アイの演算中枢が、モンテストゥスの提案を瞬時に解析、シミュレートする。


「……提案を受理。シミュレーション開始」


数秒の沈黙。


「……完了。マスターが接続する高次元領域を経由するリスク、予測不能。マスターの精神が、私の介入によって汚染、あるいは高次元側に奪われる危険性、50%。三名の精神崩壊を、逆に誘発する可能性、45%。私の論理プログラムが、高次元領域で『迷子』になり、帰還不能となる可能性、70%」


アイは、導き出された絶望的な数字を、淡々と読み上げる。


《……それでも、だ》


モンテストゥスが、遮った。


「……理解しています」


アイは、モンテストゥスの言葉を肯定した。


「現状維持の場合、三名の精神崩壊の可能性は、六時間後より80%を超過。……モンテストゥスの提案を採択します」


アイの光学センサーが、赤から青へと変わる。

それは、彼女の「決断」の色だった。


「これより、マスターの精神領域への『高次元接続(ダイブ)』準備を開始します。モンテストゥス、あなたの全演算リソースを、私に譲渡してください」


《……承知した。……アイ。お前も、あの『毒』に触れることになる。……お前という存在が、変質するかもしれんぞ》


「問題ありません。私は、マスターの『道具』です。道具は、(あるじ)の役に立ってこそ、その価値が定義されます」


アイは、そう言うと、自らの意識をポセイドンの演算中枢の最深部へと潜行させ、カガヤの精神世界へ接続するための、前代未聞のプログラム構築を開始した。

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