第246話:無力なる剣(クゼルファの焦燥)
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「全員、意識を保持しろ! 今、この瞬間に集中しろ!」
俺の絶叫が、時空の歪みに突入したポセイドンのコックピットに響き渡る。 アイは俺のバイタルサインを「現実のアンカー」として再起動し、即座に防御フィールドを展開。船内の物理的な安全は、かろうじて確保された……かに思えた。
だが、一歩遅かった。 知覚汚染は、すでにコックピット内の乗組員の「精神」の、最も脆い部分に侵入していた。
ここは、我々が知る物理法則が崩壊した高次元空間。 アイの防御フィールドは、物理的な攻撃や魔力的な干渉は防げる。だが、この「現実そのものの歪み」が精神に与える影響までは、完全には遮断できない。
「あ……あぁ……」
最初にその「毒」に飲み込まれたのは、クゼルファだった。
彼女は、俺の言葉が届いていないかのように、虚空の一点を見つめていた。その瞳は、現実のコックピットではなく、彼女自身の「内面」を映している。
ポセイドンが時空の亀裂に引きずり込まれたことで、メインスクリーンに映し出される映像は意味のないノイズの嵐に変わり、コックピットは、計器類の非常灯が明滅する、悪夢のような暗闇に包まれていた。
その暗闇が、クゼルファの精神世界と、最悪の形でリンクした。
「――やはり、お前では無理だ」
冷たく、澄み切った声が、クゼルファの頭の中に直接響いた。
それは、彼女自身の声だった。
ハッと顔を上げるクゼルファ。 明滅する計器類の光の中に、「それ」は立っていた。 クゼルファ・ンゾ・ゼラフィム。 だが、それは、今ここにいるクゼルファではない。 一切の迷いも、焦りも、嫉妬も知らない、完璧な「騎士」としての理想像。もしも彼女が、あの時、辺境のヴェリディアで「冒険者」の道を選ぶのではなく、ゼラフィム公爵家出身の騎士」として順当にエリートの道を歩んでいたら、こうなっていたかもしれない「選ばなかった自分」の幻影だった。
幻影のクゼルファは、現実のクゼルファを、氷のような目で見下している。
「お前は、アルフォンスにも劣る。ヴェリディアでも、カガヤ様の役に立つこともできず、ただ守られるだけだった。今もそうだ。この深海で、お前は何ができる? 剣も抜けぬこの鉄の棺桶の中で、お前は無力だ」
「ちがう……私は……!」
「――ええ、その通りですわ」
今度は、別の声が響いた。
クゼルファが最も畏れ、同時に、最も焦がれる声。
幻影のクゼルファの隣に、いつの間にか、もう一人の人物が立っていた。 聖女セレスティア。 だが、その表情は、いつもコックピットで見る優しげなものではない。ソラリスの神殿で、数万の信徒を前にした時のような、絶対的な「聖性」と「威厳」に満ちた姿だった。
幻影のセレスティアが、クゼルファに優雅に微笑みかける。その笑みは、彼女の心を凍らせるほど、冷たかった。
「クゼルファ様。あなたには、カガヤ様の隣に立つ『資格』はありません」
「……ッ!」
「考えてもごらんなさい。カガヤ様が本当に必要としているのは、あなたのような『力』だけの存在でしょうか? 彼は、この星の理そのものを変えようとなさっている。私のように、彼と『対等』に語り合い、彼と同じ『高み』から未来を見据えることができる存在こそが、彼の隣にはふさわしい」
幻影は、嘲笑う。
「あなたの剣は、この深海では役に立たない。あなたの騎士としての誓いも、この時空の歪みの中では、無意味。……あなたは、ただの重荷ですわ」
「だまれ……私は……重荷などでは……!」
クゼルファが、獣のような声を絞り出す。
だが、幻影は容赦なく彼女の心の傷を抉る。
「アルフォンスは、別働隊の隊長としてカガヤ様を支えている。既にあなたを超えた。セレスティア様は、カガヤ様の『唯一』になろうとしている。セツナは、カガヤ様の『目』と『耳』として役に立っている。アイは、彼の『力』そのもの。モンテストゥスは、彼の『道』を拓いている」
「「――では、お前は?」」
幻影のクゼルファと幻影のセレスティアが、声を揃えて、現実のクゼルファに問い詰める。
「お前は、一体、なんのために、そこにいる?」
「私は……私は……!」
理性が、焼き切れる。
知覚汚染による幻影だと、頭のどこかで感じながらも、突き付けられた「真実」の刃が、彼女の精神を切り裂いていく。
そうだ。
この幻影を、この私を嘲笑う「偽物」を、斬り捨てればいい。
このコックピットで、私は無力かもしれない。だが、精神世界でなら、私の剣は、まだ――!
クゼルファは、自らの腰にあるはずの剣の柄に、手をかけた。
だが、その手は虚しく空を切る。
ここはコックピトの中だ。剣など佩いていない。
「……ぁ……」
その、ほんの一瞬の「現実」とのズレが、決定的な隙となった。
「そう。あなたは、もう『騎士』ですらない」
幻影のクゼルファが、冷酷に告げる。
「剣を振るうことしかできないのに、その剣すら、今あなたの手にはない」
「あなたは、無力」
「あなたは、無意味」
「あなたは、不要」
「「重荷」」
「やめ……て……」
幻影の言葉が、呪いのようにクゼルファの意識に染み込んでいく。
抵抗しようと開いた唇からは、意味のある言葉が出てこない。
計器類の明滅が、幻影のセレスティアと幻影のクゼルファの嘲笑う顔を、代わるがわる照らし出す。
「私は……カガヤ、様の……」
絞り出した声は、誰の耳にも届かない。
クゼルファの瞳から、急速に光が失われていく。
彼女の意識は、コックピットの暗闇よりもさらに深い、自らが作り出した絶望の深淵へと、音もなく沈んでいった。
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