第244話:星の民の伝承
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海底渓谷の岩盤を崩落させ、追跡を振り切ってから、どれほどの時間が経過しただろうか。
アルカディア・ノヴァ改――「ポセイドン」のコックピットには、重い疲労と、かろうじて切り抜けた安堵、そして依然として続く深海への緊張が混在していた。
ピ、ピ、ピ……。 警告音が、けたたましいアラートから、船体の現状を淡々と知らせる微かな通知音へと変わっている。だが、その内容は深刻なままだ。 船体各所に生じた微細な亀裂。浸水こそないものの、いつ耐圧限界を超えてもおかしくない。俺たちは、卵の殻のように脆くなった潜水艇で、未だ数千メートルの水圧下を進んでいるのだ。
セツナは、先ほどの戦闘で全神経を使い果たしたのか、ぐったりとシートに身を沈め、まだ青い顔で呼吸を整えている。セレスティナも、いつもの皮肉めいた口調を潜め、固唾を飲んでソナーの反応を見つめていた。
俺は、損傷データから目を離し、アルカディア・ノヴァの運航をアイに指示して操縦席を離れた。
「アイ」
「……はい、マスター」
「損傷状況の自動監視を継続。それと……さっきの戦闘記録…録画映像をメインスクリーンに。もう一度、奴らの姿を精査する」
その言葉に、セレスティナが弾かれたように顔を上げた。
「コウ!? 今は過ぎた脅威の分析よりも、一刻も早くこの船体の修理を……いえ、なにより、目的地の『星の監獄』へ急ぐことが先決では? またいつ、あの化け物が岩盤を掘り起こして追ってくるかも分からないのに!」
セレスティナの言うことは、この上なく正しい。だが、俺は静かに首を振った。
「逆だ、セレスティナ」
「逆、ですの?」
「二度と会いたくない相手だからこそ、徹底的に分析するんだ。あの環境で、あれだけの巨体と群れを維持できるエネルギー源は何だ? なぜ俺たちを襲った? 何も分からんままじゃ、この先の深海は進めない」
俺は、宇宙での経験を反芻するように言った。
「これは宇宙でも海でも同じ、サバイバルの鉄則だ。未知の脅威を、未知のまま放置することが一番の危険なんだよ」
俺の言葉に、セレスティナは「……合理的では、ありますが」と、まだ納得しきれない様子だったが、口を閉ざした。
アイが俺の指示に従い、メインスクリーンに映像を再生する。
そこには、先ほどの緊迫した光景が、客観的なデータとして映し出されていた。
ブラックスモーカー。海底から黒い熱水が、まるで工場の煙突のように猛然と噴き上がっている。
そして、その熱水を、まるで「捕食」するように受け止めている、百メートルを超える異形の生物たち。
目はない。爬虫類のような、あるいは甲殻類のような、硬質な鱗。
俺たちの光に反応し、音と振動を正確に捉え、襲い掛かってきた、あの「深淵の支配者」の姿が。
「……こうして冷静に見ると、とんでもない化け物だな」
俺は思わず、乾いた笑いを漏らした。
「アイ、分析結果は?」
俺の問いに、アイは即座に応答した。
「はい。マスターの推測通り、生体スキャンデータによれば、彼らはあの熱水に含まれる硫化物や超高温エネルギーを、直接、生体エネルギーに代謝しています。地球で言うところの『化学合成生態系』の、頂点に立つ存在であると推測されます」
「だろうな。問題は、その先だ」
「はい」と、アイは続けた。
「問題は、その進化の度合いです。私の地球連邦基準のデータベースには、これほど高度に、かつ巨大に進化した高温・高圧適応生物のデータはありません。……似たものすら、存在しません」
アイの声に、わずかな焦燥が混じる。
「この惑星に来てまだ日が浅い私のデータでは、完全に不足しています。マスター、私は、あの生物が何なのか……分かりません」
彼女のホログラムが、悔しげに揺らぐ。
「謝るな、アイ。お前のせいじゃない。お前のデータベースは、俺たちが持ち込んだ『最新の科学』だ。だが、この星の『歴史』そのものじゃない」
俺はコンソールを叩いた。
「……なら、この星の『先達』に聞くしかないな」
俺はアルカディア・ノヴァの量子通信システムを起動させた。この深海から、構築された超AIたちのネットワークへと、直接問いを投げる。
「マザー、ガーディアン。聞こえるか。こちらカガヤ。現在、我々は深海で精霊獣を探すミッション中だ。ちょっと聞きたいことがある。 映像データを転送する。意見が欲しい。」
それはそう言うと、アイにネットワークに先程のデータを
「……というわけだ。こいつらの盛大な歓迎を受けた。この生物に心当たりは?」
通信ラグは、ほぼない。
即座に、二つのAIから応答があった。
ガーディアン。《我が管理する地下聖域のデータに、該当存在は確認できず》
マザー。《わたくしたちの地上管理領域、および観測可能な海洋データにも、類似の生体反応はありません。完全な未知の存在です》
「そうか……」
やはり、この深淵は、マザーたちの管理下からも外れた、真の「未知」か。 そう、諦めかけた時。 モンテストゥスが口を開いた。
《……カガヤ。その映像……。我のデータベースの最古層……環境調律が開始される以前……星の民が残した『伝承』の断片に、酷似したものの記述がある》
「伝承?」
俺は眉をひそめた。この星のAIは、常に論理と観測データで話す。そのモンテストゥスが、「伝承」という言葉を使った。
《ああ。我々が管理システムとして起動する以前の、前文明の記録だ。我も伝承としてのみ認識しており、実在は確認されていない》
「その『伝承』では、奴は、なんと?」
《――名は、『古代龍』》
「龍!?」
それまで沈黙していたセツナが、その言葉に顔を上げた。
この世界において「龍」とは、伝説や神話の存在であると同時に、強大な力の象徴だ。
モンテストゥスは、セツナの反応を意に介さず、淡々と続けた。
《この惑星がまだマグマの海に覆われ、最初の海が形成された直後……地核のエネルギーそのものを喰らうもの、と記されている。……我々がこの地に降り立つ前の、原初の生命体かもしれん》
惑星誕生直後。地核のエネルギー。ブラックスモーカー。
俺の頭の中で、バラバラだったキーワードが一気に繋がった。
「……なるほどな。道理だ」
俺は、先ほどの映像をもう一度見直した。
「惑星誕生直後の、超高温・高圧の『原始の海』。そこは、硫化物と熱エネルギーに満ちていたはずだ。その環境に最適化した生物が、そのまま現代まで、環境の変わらない深海の『ブラックスモーカー』だけを棲家として生き延びてきた……。とんでもない古株だな、こいつら」
俺が興奮気味にそう言うと、セレスティナが冷や水を浴びせるように言った。
「……コウ。それは、つまり……この先も、ああいった熱水地帯があるたびに、あの『古代龍』の縄張りがある、ということなの? とんでもない古株、で済ませる話ではないわ」
その指摘に、俺はニヤリと笑った。
「いや、逆だ、セレスティナ」
「また、逆ですか?」
「ああ。逆に考えるんだ。奴らは、あの『地熱エネルギーが豊富な場所』でしか生きられない、極端に偏った生態系なのかもしれない。あの超高温・高圧環境以外では、おそらく……」
「生きていけない?」
「その可能性が高い。適応しすぎたんだ、特定の環境に。だからこそ、俺たち『侵入者』をあれほど執拗に排除しようとした。縄張りを守るため、あるいは、貴重なエネルギー源を奪われると思ったか」
俺はコンソールを叩き、アイに指示した。
「アイ、今後の航行ルート選定。ブラックスモーカーや地熱活動の活発なエリアを、最優先で回避しろ」
「了解。熱源ソナーを最大出力。回避ルートを再設定します」
「……希望的観測じゃないの?もし、この先の『星の監獄』が、奴らの最大の巣だったら、どうします?」
セレスティナが、まだ皮肉っぽく言う。
俺は肩をすくめた。
「その時は、また全力で逃げるさ。だがな、セレスティナ。これは希望的観測じゃない、『科学的な推論』だ」
俺は少しだけおどけてみせる。
「少なくとも、奴らがこの先の広大な海底平野を、小魚の群れみたいにウロウロしている可能性は低い。そう分かっただけでも、儲けもんだろ?」
「……コウは、いつも、そうですわね」
セレスティナは小さくため息をついたが、その表情はいくらか和らいでいた。
この分析は、無駄じゃない。 俺たちの生存率を、確実に上げたはずだ。
俺は、疲労困憊のセツナに、携帯用の栄養剤を渡した。
「ほら、セツナ。飲んどけ。お前の『耳』が、また必要になるかもしれないからな」
「あ、ありがとうございます……」
セツナがそれを受け取り、自らも口にしようとした、その時だった。
ピピピ……。
これまでの警告音とも、通知音とも違う、静かだが、澄んだアラートがコックピットに響いた。
「アイ?」
アイが、それまでになく緊張を含んだ声で、報告した。
《マスター。……前方、ソナーが異常な空間の歪みを検知》
「歪み?」
《減速します。……間もなく……モンテストゥスより提供された、予想座標……》
メインスクリーンが、ノイズ混じりのソナー反応を懸命に3Dグラフィックへと再構築していく。 そこには、生物でも、岩盤でもない……自然物とは到底思えない、あまりにも巨大な「何か」の影が、深海の闇の奥に、静かに鎮座していた。
幾何学的な直線と、巨大な曲線。
まるで、山脈そのものをくり抜いて建造したかのような、途方もない「構造物」。
《――『星の監獄』に、到着します》
アイのその言葉に、俺たちは息を呑む。
ポセイドンのメインライトが、数億年の闇に閉ざされていた「構造物」の壁面を、ゆっくりと照らし出し始めた。
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