第26話:儚い希望と壁
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※ タイトル変更しました。(旧タイトル:宇宙商人の英雄譚)
激闘の興奮が冷めやらぬまま、俺とクゼルファは聖樹の雫が群生する場所へと戻ってきた。森には、巨人の骸と化した二体のオーガが、その異様な姿を横たえている。血と土、そして、焦げたような魔素の匂いが混じり合った重い空気が、聖域であるはずのこの場所にまで漂ってくるが、俺たちに、それを気にする余裕はなかった。
目の前に広がる、青白い光の絨毯。それは、死闘の直後であるからこそ、より一層、奇跡的な風景に見えた。
まだ荒い息を吐きながら、俺はクゼルファの脇腹をちらりと見る。先ほどの戦闘で負った傷が、革鎧の隙間から、血の跡を残して痛々しく覗いている。その蒼白な顔色と、浅い呼吸から、彼女が限界に近いことを悟った。すぐにでも処置が必要だと判断し、俺はアイに問いかける。
〈アイ。クゼルファの治療が必要だ。どうすれば良い? 応急処置では限界がある〉
《はい。マスター。彼女の体内には、以前投与した医療用ナノマシンが、まだ微量ながら残存しています。マスターの触媒ブレスレットを、彼女の患部に近づけてください。私が外部から医療用ナノマシンを再活性化させ、治療を促します》
俺はアイに言われたとおり、クゼルファの傍らに膝をつき、右腕を彼女の傷口にかざした。すると、腕のブレスレットが淡い光を放ち、俺の掌から、温かいエネルギーが流れ込んでいくような感覚があった。
暫くすると、彼女の傷口から滲んでいた血が引き、開いていた皮膚が、まるで時間を巻き戻すかのように、ゆっくりと塞がれていく。痛みを感じていたはずのクゼルファの表情が、驚愕に変わっていくのが見て取れた。
「カガヤ様……これは……」
クゼルファが、信じられないといった様子で、自らの脇腹と俺の顔を交互に見つめる。彼女の傷が癒えていく光景は、まさに目の前で起こる奇跡だっただろう。
「大丈夫か? 少しは、楽になったか?」
俺の問いに、彼女はゆっくりと頷いた。
「はい、痛みは……ほとんど引きました。この、温かい光……。まさか、カガヤ様が、これほど高度な治癒魔法までお使いになられるとは……」
治癒魔法、か。これは科学であって魔法ではないが、彼女の認識ではそうなるのだろう。俺が訂正する間もなく、彼女は視線を聖樹の雫へと向けた。その瞳には、再び、燃えるような希望の光が宿っていた。
「この聖樹の雫……本当に、こんなに大量に自生しているなんて……。奇跡です……!」
彼女の言葉には、感嘆と、そして深い安堵が込められていた。その瞳は、青白い光を反射してキラキラと輝き、頬には、先ほどの恐怖からではない、歓喜の涙が伝っている。無理もない。幻とまで言われた薬草を、これほどの量で目にしているのだ。彼女にとって、どれほどの希望になっていることか。
「まさか、本当に辿り着けるとは思いませんでした……。この場所は、伝説でしか聞いたことがありませんでしたから。これで、エラルは……エラルは救われます……!」
クゼルファの声は震え、安堵と喜びで胸がいっぱいになっているのが伝わってきた。彼女の、大切な友人への深い愛情が、ひしひしと伝わってくる。彼女が身の危険も顧みず、この危険な魔乃森に踏み入れた理由が、今、目の前で形になろうとしている。その事実に、俺もまた、心からの安堵を覚えた。これで、彼女の望みを叶えることができる。
「知り合いの少女、名前はエラル、か」
「はい。私の幼い頃からの知り合いで、姉のように慕っている、大切な方です」
「そうか。本当によかったな」
「はい……!」
満面の笑みを浮かべて、クゼルファは力強く頷いた。
しかし、そんな束の間の安堵は、すぐに、最も冷徹な形で打ち破られた。俺の脳内に、アイの、いつも通りの、しかし、今はあまりにも無慈悲に響く声が届いた。
《マスター、聖樹の雫から感知される第二のエネルギーフィールドを解析した結果、極めて重大な問題が判明しました》
〈なんだ?〉
《はい。マスター。この特殊なエネルギーは、この群生地特有の高密度な魔素環境下でのみ、その構造を維持しています。もし、サンプルを採取し、この場所から持ち出した場合、大気中の魔素濃度の急激な変化により、この第二のエネルギーフィールドは数時間以内に崩壊し、失われてしまう可能性が99.8%です》
〈第二のエネルギーが失われる……? それはどういうことだ? ただの薬草になるってことか?〉
俺はアイに問い返した。
《いいえ。高濃度の魔素自体は維持されるため、並の薬草よりは遥かに高い薬効は残ります。過去にこの薬草が持ち帰られ、一定の成果が出たとされるのは、そのためでしょう。しかし、魔力臓を再び活性化させるという、奇跡的な治癒効果の根源である第二のエネルギーが失われれば、病の根本治療には至りません》
アイの言葉に、俺は全身の血の気が引くのを感じた。まるで、灼熱の砂漠から、一瞬にして極寒の氷海へと突き落とされたような衝撃だった。せっかく辿り着いた希望が、一瞬にして目の前から消え去ろうとしている。
「クゼルファ。落ち着いて、聞いてくれ。良くない、知らせだ。聖樹の雫は、このままじゃ、持って帰れない。この場所から離れると、一番大事な効力が、すぐに消えてしまうらしい」
俺の言葉を聞いて、隣で、ようやく笑顔を取り戻し始めていたクゼルファの顔が、再び蒼白に変わる。その瞳から、希望の光が、急速に失われていくのが分かった。
「そんな……まさか……。では、これまでの話は……。ただの回復薬に……? ここまで、来て……なぜ……」
クゼルファの震える声が、絶望をさらに深くする。ここまで来て、まさかこんな壁にぶつかるとは。この奇跡的な発見が、一瞬にして泡と消え去るというのか。彼女の顔からは、先ほどの喜びが嘘のように、完全に消え失せていた。
その絶望は、俺にも痛いほど伝わってきた。だが、ここで諦めるわけにはいかない。エラルの命が、彼女の希望が、そしてクゼルファの命を賭した努力が、今、俺の双肩にかかっている。俺には、諦めるという選択肢は、もはや存在しなかった。
科学者としての俺が、商人としての俺が、そして、ただ一人の人間としての俺が、この状況を覆すための、あらゆる可能性を探れと、魂の底から叫んでいた。
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