第214話:混沌の囚人
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混沌の海に浮かぶ、唯一の「秩序」。新しい宇宙が生まれ出る瞬間の、最初の煌めきとも思える神聖な光。だが、その中心から発せられる信号は、俺たちの心を締め付けるほどに、悲痛な響きを帯びていた。
「この声……。嘘……まさか……!」
それまで静かに祈りを捧げていたセレスティアが、はっと顔を上げた。その碧色の瞳が、信じられないものを見るかのように、大きく見開かれている。
「セレスティア?どうしたんだ、この声を知っているのか?」
俺の問いに、彼女は震える声で答えた。
「知っている、というのとは少し違います。ですが、この……魂の響きは……」
彼女は、おぼろげな記憶をたどるように、ゆっくりと語り始めた。
「幼い頃、時折、夢の中で不思議な声を聞くことがありました。とても優しくて、温かい、子供のような声です。その声に導かれ、危険を避けられたことも一度や二度ではありません。それが何であるかは分かりませんでしたが……今聞こえるこの声は、その夢の声と、全く同じ『響き』を持っているのです。音の類似ではありません。魂が、共鳴するような……」
彼女の言葉は、この声が単なる救難信号ではないことを示唆していた。俺はアイに、より詳細な分析を指示する。
『マスター。信号の解析を完了しました。これは音声データではなく、対象の精神に直接情報を書き込む、極めて高度な指向性テレパシーです。ですが、信号の波形は、何か巨大な力によって意図的に減衰・抑制されており、その本来の情報をほとんど失っています。かろうじて……本当に、かろうじて、『助けて』という純粋な意思だけが、ノイズの海から漏れ出している状態です』
俺たちは、アルカディア・ノヴァを慎重に「秩序の特異点」へと接近させた。そして、その全貌が明らかになった時、俺たちは言葉を失った。
特異点の中心で輝く純粋な光は、一つの巨大な牢獄に囚われていた。黒く、光さえも飲み込むほどの巨大なエネルギーの渦。それは、俺たちの知るブラックホールのように、周囲の混沌としたエネルギーさえも絶えず吸い込み、その勢力を増しているように見えた。まるで時空そのものが歪み、一点へと落ち込み続ける、宇宙の傷跡。
『これは、物理的な牢獄ではない』
ガーディアンの声が、俺の脳内に響く。
『存在の『在り方』そのものを規定し、封印する、概念兵器の一種だ。我々はこれを「存在論的封印」と呼ぶ。あれに囚われた者は、〝そこに存在する〟ということ自体を禁じられる。物理的に脱出するという概念そのものが、そこでは意味をなさない』
『その通りだ』と、モンテストゥスが補足する。『そして、あそこに捕らわれている意思こそが、我が機能回復に必要な、最後のエネルギー源。彼女は、この宇宙の創世記に関わった大精霊の一人、『ライラ』。その渦は、ライラの力を吸い上げ、自らを維持するためのエネルギーへと変換している。永遠に終わることのない、寄生システムだ』
惑星創世記の大精霊、ライラ。セレスティアが感じ取った魂の響きは、神話の時代の存在へと繋がっていたのだ。俺たちが、そのあまりにも壮大な事実に圧倒されている、その時だった。
漆黒の渦の中心から、黒い人型の「何か」が、まるで染み出すかのように姿を現した。それは、物理的な肉体を持たない、純粋なエネルギーの揺らぎ。人の形をしているのは、おそらく、俺たちという知的生命体を認識したからに過ぎないのだろう。
『警告する』と、ガーディアンの声が、これまでになく鋭くなった。『あれは、星の民が作ったような人工的な番人ではない。この宇宙が自らの『秩序』を維持するために生み出した、意思なき代行者。いわば、物理法則そのものが擬人化したような存在だ』
番人は言葉を発しない。ただ、俺たちという「イレギュラー」を排除するため、その黒い腕を、ゆっくりとこちらへ向けた。
瞬間、俺たちの身体を、経験したことのない悪寒が襲った。それは、物理的な攻撃ではない。俺の腕が、突然、半透明に透ける。隣に立つクゼルファの鎧が、粘土のように形を崩し始める。
『マスター!概念攻撃です!我々の存在確率に干渉し、〝ここに存在する〟という事実を、内側から破壊しようとしています!』
アイの絶叫がブリッジに響く。これが、物理法則を超えた戦い。俺は、すぐさま仲間たちに指示を飛ばした。
「クゼルファ、セツナ!精神を集中させろ!お前たちの、戦士としての揺るぎない自我が、俺たち全員を繋ぎとめる最後の砦だ!」
「応ッ!」
「御意!」
二人の、鋼のような闘志が、船内に見えない結界を張る。クゼルファの「ここにいる」という絶対的な存在感が、セツナの「任務を遂行する」という研ぎ澄まされた意志が、不安定な俺たちの存在を、この混沌の海に辛うじて繋ぎとめていた。
「セレスティア!ライラの声を聞け!渦を破るヒントがあるはずだ!」
「はい!」
セレスティアは、瞳を閉じ、意識を集中させる。彼女の役割は、囚われた精霊の意思を読み解き、俺たちに伝えること。彼女は、この戦いの、唯一の巫女だった。
そして、俺と三体のAIは、この宇宙の秩序そのものとの、思考の戦いを開始した。
『アイ、敵の概念攻撃のパターンを分析し、逆位相の論理フィールドを構築しろ!』
『ガーディアン、星の民のデータベースから、この宇宙の根源的な『理』、存在論的封印を無効化する理論を探せ!』
『モンテストゥス!ありとあらゆる可能性をシミュレートし、この渦のロジックを無効化する、唯一の解を導き出せ!』
激しい攻防が、永遠とも思える時間、続いた。その果てに、三体のAIは、ついに一つの結論へとたどり着いた。だが、それは、希望とは言い難い、あまりにも非情なものだった。
『……結論が出た』と、ガーディアンが告げた。
『この牢獄を破壊する唯一の方法は、渦の存在意義そのものを、内側から否定すること。すなわち、〝囚人が存在しない〟という事実を、宇宙の『秩序』に認識させることだ』
「……どういうことだ?」
『渦は、〝ライラを封印する〟という秩序によって存在している。ならば、その前提である〝ライラが存在しなければ〟渦もまた、その存在意義を失い、消滅する』
しかし、ライラは現に存在し、囚われている。この絶対的な矛盾を、どう解決するというのか。
その時、セレスティアが、はっと目を開けた。その瞳からは、大粒の涙が、止めどなく溢れていた。
「……ライラ様が……最後のメッセージを……」
彼女は、震える唇で、囚われた大精霊ライラの、願いを告げた。
「ライラ様は、仰っています……『私を、ここから消して』……と」
この、あまりにも残酷それは、自らの存在の消滅を願う、悲痛な叫びだった。
ライラを救うためには、ライラを消さなければならない。この究極のパラドックスを前に、俺は何をすれば良いのか。あらゆる自信が、足元から崩れていくような感覚に襲われた。
これは、武力や科学だけでは解けない、哲学的な問いなのかも知れない。それに、俺たち異邦人に、この宇宙の創世記に関わった存在の、運命を決定する権利があるのだろうか。
残酷な選択肢を前に、俺はまだ答えを見つけ出せずにいた。
しかし、時間は多くは残されていない。漆黒の番人の概念攻撃は、クゼルファとセツナの精神力によって辛うじて防がれているものの、その圧力は刻一刻と増している。
俺の網膜に、アイが算出した、存在確率の減衰グラフが赤く点滅していた。
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