第213話:混沌の海、知性の航路
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生まれ変わった鋼の翼は、混沌の渦の中へと、一筋の光となってその身を投じた。
視界が白一色に染まり、次の瞬間には、あらゆる色彩が網膜の上で爆ぜる。時間と空間の感覚が曖昧になり、身体が引き伸ばされ、そして圧縮されるような、不快な感覚が襲う。
『次元安定フィールド、出力低下。船体が維持できません』
アイの悲鳴のような警告が響く。だが、その声は、すぐに驚愕の色へと変わった。
『……いえ、違います。船体構造が、この次元乱流に適応、自己再構成を開始しました』
船体を走る青い光のラインが、激しく明滅し、その輝きを増していく。新生したアルカディア・ノヴァは、この未知なる環境さえも、自らの力へと変えようとしていた。
やがて、激しい揺れが、嘘のように収まる。俺たちが目を開けると、ブリッジのウィンドウの外には、信じがたい光景が広がっていた。そこは、星々がきらめく宇宙空間ではない。赤や青の光の奔流が混じり合い、緑色の稲妻が絶え間なく迸る、色彩とエネルギーだけの渦。常識的な物理法則が、一切通用しない混沌の海だった。
「……ここが、次元の狭間……いや、世界の『外』か」
俺は、ごくりと唾を飲み込んだ。
『マスター、船外の物理定数が常に変動しています。我々の宇宙の法則は、ここでは通用しません』
アイの警告通り、慣性制御システムは機能しているのかいないのか、船体は木の葉のように翻弄される。
「吐きそう……」クゼルファが、青い顔でうめいた。「剣を振るう方が、よほど楽です……」
俺は、アイがリアルタイムで表示する観測データを睨みつけた。重力定数、光速、プランク定数……あらゆる物理学の根幹を成す数値が、意味のない乱数のように明滅を繰り返している。
「なるほどな。ここは、物理法則がまだ確定していない、宇宙の初期状態に近いスープのようなものか」
俺の呟きに、ガーディアンの声が脳内に響く。
『その通りだ、来訪者よ。この空間では、物質的な強度など何の意味もなさない』
ここで頼りになるのは、船の頑丈さではない。周囲の環境をリアルタイムで解析し、船体そのものを、この混沌に適応させ続ける、アルカディア・ノヴァの新たな自己進化機能だった。ウィンドウの外では、船体を覆う白銀の装甲が、周囲のエネルギー乱流をいなすため、その分子構造を瞬時に組み替え、魚の鱗のように、あるいは流体のように、滑らかな形状へと絶えず変化を続けていた。
この絶え間なく変化する混沌の海で、三体のAIが、俺たちにとっての唯一の羅針盤となった。
『この広大な確率の海の中から、エネルギー供給源となりうる座標を特定した』
モンテストゥスの惑星規模の演算能力が、無限にも思える混沌の中から、ただ一點、秩序が安定しているであろう「特異点」を導き出す。
『警告する。星の民の記録によれば、この宙域には、我々の知る生命とは異なる、高次の存在が確認されている。下手に接触すれば、存在そのものを消される危険性がある』
ガーディアンが、古の記録から危険を予知し、警告を発する。
『了解。両者からの情報を統合し、最短かつ最も安全な航路を算出します。アルカディア・ノヴァの自己進化機能、及び、次元安定フィールドを最適化』
そしてアイが、二体の超知性からの情報を束ね、この混沌の海を進むための、唯一無二の航路を切り開いていく。
「カガヤ様……」
セレスティアは、この常識を超えた光景の中、ただ静かに祈りを捧げていた。彼女の純粋な祈りが放つ、穏やかで、しかし芯の通った精神的な波動が、この狂った空間の中で、俺たちの心を繋ぎとめる、最後の錨となっているのを、俺は確かに感じていた。
セツナは、そんなセレスティアを守るように、そして俺の背後を護るように、揺れる船内でも微動だにせず、その気配を研ぎ澄ませている。
数時間にも、あるいは数日にも感じられる航海の果て。モンテストゥスが示した特異点へと向かう途中、アルカディア・ノヴァは、不意に、この空間の「澱み」のような場所へと迷い込んだ。
そこは、周囲の混沌とは対照的に、完全な静寂と「無」が支配する空間だった。アイのあらゆるセンサーが沈黙し、ウィンドウの外には、ただただ、光さえ存在しない漆黒が広がっている。
「アイ、状況は?」
『全ての計器が沈黙しています。まるで、この空間には『情報』という概念すら存在しないかのようです』
アイの返答に、俺は背筋に冷たいものが走るのを考えることができた。
その、静寂の中。ブリッジのメインパネルに、巨大な「眼」のような紋様が、ゆっくりと浮かび上がった。
「なっ!」
クゼルファが短く叫び、思わず剣の柄に手をかける。セレスティアも息を呑み、俺の腕にしがみついた。それは物質的な存在ではない。この混沌の海そのものが、俺たちという「異物」を認識し、「観測」しているかのようだった。
『……あれは、我々の知る生命体ではない』
ガーディアンの声が、脳内に響く。
『この宇宙が生まれる以前から存在する、高次の知性体……あるいは、ただの自然現象かもしれん。だが、下手に刺激すれば、我々の存在そのものが『観測』によってこの世界に固定され、二度と元の宇宙には戻れなくなる危険性がある』
進むか、退くか。俺は、究極の決断を迫られた。
俺は、仲間たちの顔を見回した。誰もが、俺の決断を、固唾を飲んで見守っている。俺は、商人としての勘と、仲間たちへの信頼を胸に、不敵に笑った。
「いいじゃないか。俺たちの存在を、この宇宙の始まりにすら刻み込んでやる」
俺が号令を発すると、アルカディア・ノヴァは、ゆっくりと「眼」の中心へと進み始めた。すると、紋様は、まるで俺たちの覚悟を受け入れたかのように、静かに消えていった。
そして、その先に、俺たちの目的地が姿を現した。
「あれが…」俺は息を呑んだ。それは、アイから転送されるデータでその存在を予測してはいたが、実際に目にすると、想像を遥かに超える光景だった。
モンテストゥスが「特異点」と呼んだそれは、漆黒の虚無空間に浮かぶ、唯一の「存在」。まるで、この混沌の海そのものが、一点へと収束し、自らの存在意義を問いかけるかのように、静かに、そして力強く輝いていた。
それは、この混沌の海にあって、唯一、時間が生まれ、空間が意味を持つ、一点の「秩序」。まるで、新しい宇宙が生まれ出る瞬間の、最初の煌めき。
だが、その神聖な光の中心から、微かに、しかし確かに、誰かの「助けを求める声」のような信号が発信されていたのだ。
その、あまりにもか細く、悲痛な声に、それまで静かに祈りを捧げていたセレスティアが、はっと顔を上げた。その碧色の瞳が、信じられないものを見るかのように、大きく見開かれる。
「この声……。嘘……まさか……!」
彼女だけが、その声の正体に心当たりがあるかのようだった。果たして、この声の主は誰なのか?そして、この混沌の海に囚われている理由とは?
俺たちの旅は、一つの謎を解き明かした先に、さらに巨大で、そして根源的な謎を突きつけられていた。
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