第208話:見えざる神の在処
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「……面白い。その話、乗ってやろうじゃないか」
俺の、あまりにも意外な返答。それは、長老エダの、そしてその場にいた脈動の民の戦士たちの計算を、僅かに狂わせたようだった。彼らの目に、一瞬の戸惑いが浮かぶ。
牢から出された俺たちは、生贄として洞窟へ送られる前に、一度、長老エダの天幕へと通された。表向きは「精霊獣様への祈りの儀式」のため。だが、その実態は、俺たちが逃げ出さぬよう監視し、そして、俺という異質な存在の真意を探るための、最後の尋問の場であることは明らかだった。
粗末だが、清浄な空気が満ちるその空間で、俺は早速、本題を切り出した。
「エダ殿。生贄になるのは承知した。だが、その前に一つだけ教えてほしい。あんたたちの言う精霊獣は、一体どこにいる?」
どうせ死地へ向かうのだ。ならば、少しでも情報は多い方がいい。科学者としての、あるいは商人としての俺の思考は、常に最悪の状況下での最適解を探していた。だが、その問いに対するエダの答えは、俺の常識を、そしてこの世界の理そのものを嘲笑うかのような、あまりにも荒唐無稽なものだった。
「……分からぬ」
「……は?」
一瞬、俺は彼女が何を言っているのか理解できなかった。聞き間違いか?
「いや、だから、精霊獣様の居場所を……」
「じゃから、分からぬと申しておる!」
エダは、絞り出すように言った。その声には、長老としての威厳ではなく、長年部族を導いてきた者の、深い苦悩と、そして隠しようのない羞恥の色が滲んでいた。
「我ら脈動の民でさえ、精霊獣様の御姿を、この千年、誰一人として拝んだことはない。……それどころか、その在処さえ、もはや誰にも分からぬのじゃ」
千年……?俺は、その途方もない時間の単位に、言葉を失った。呆気にとられる俺に、エダは、まるで自らの罪を告白するかのように、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「我らが知るのは、伝承のみ。かつて、精霊獣様はこのガリアの大地そのものであり、その御心は常に我らと共にある、と。じゃが、それはもはや、遠い昔のおとぎ話に過ぎん」
「待ってくれ」俺は、混乱する頭を整理しようと、彼女の言葉を遮った。「見たこともない、いるかどうかも分からない存在の、病状を診断しろと?あんたは、本気で言っているのか?」
俺の問いは、科学者としての、あまりにも当然の疑問だった。だが、その言葉は、彼女の信仰を、そして彼女自身の存在意義を根底から揺さぶるには、十分すぎたようだ。エダの顔が、悔しさに赤く染まる。
「おる!精霊獣様は、確かにおわす!」彼女は、杖を握る手に力を込めた。「確かに、我らはその御姿を拝むことはできぬ。じゃが、我ら巫女には、精霊獣様からの『お告げ』が届くのじゃ。それは、この千年の間、一度として途絶えたことはない。これこそが、精霊獣様が今もこの地を御照覧あそばされておる、何よりの証拠じゃ!」
その瞳に宿る、揺りぎない確信。それは、理屈ではない。千年という長大な時間にわたって受け継がれてきた、信仰そのものの輝きだった。俺は、それ以上何も言えなかった。彼女たちの世界では、それが真実なのだ。俺の科学的常識など、ここでは何の役にも立たない。
「では、なぜ呪いだと?」
「眷属たちの様子がおかしいからじゃ」エダは即答した。
「彼らは、主である精霊獣様の御心を映す鏡。その彼らが正気を失い、我らにさえ牙を剥く。これは、大元である精霊獣様の御身に、何か異変が生じておるに違いあるまい。そうとしか、考えられん」
なるほどな。眷属の異常行動から、本体の異常を推測する。非科学的ではあるが、彼女たちの論理の中では、それは至極当然の結論なのだろう。通りで、牢で対峙した時の彼女の瞳に、単なる敵意だけでなく、深い恐怖の色が浮かんでいたはずだ。彼女は、自らの信仰の対象が、得体の知れない脅威に蝕まれていることに、誰よりも怯えていたのだ。
だが、そんなことを言っていても埒が明かない。
「……それで、俺たちはどうすればいい?居場所も分からないのに、精霊獣の前には立つことなどできないだろう」
俺がそう言うと、エдаは、何かを決意したように、俺の目を真っぐに見つめ返した。
「この集落の北にある『嘆きの洞窟』。その最奥に精霊獣様がいらっしゃる……」
「確証はあるのか?」
「……ない。じゃが……」
彼女は、一瞬だけ言葉をためらった。
「……先程、牢でお主らと話しておるとき精霊獣様から、『お告げ』があった。『南より来たりし理の者らを、嘆きの洞窟の最奥へと遣わせ』とな」
その言葉に、俺は息を呑んだ。俺たちのことか?なぜ、精霊獣が俺たちの存在を?
「これは我ら脈動の民の歴史の中で、初めてのことじゃ。精霊獣様が、我ら以外の者を名指しで示されたことなど、一度としてなかった。……あるいは、お主たちのその『理』とやらが、我らが失いかけた希望への、唯一の道標となるやもしれん」
エダの瞳には、藁にもすがるような、切実な光が宿っていた。彼女もまた、この絶望的な状況を打破するため、自らの信仰と常識を打ち破る、大きな賭けに出ようとしているのだ。
こうして、俺たちの運命は、にわかには信じがたい「お告げ」によって決定された。
エダが、集落の中央広場で、俺たちを『嘆きの洞窟』へ生贄として送り出すと宣言すると、脈動の民の戦士たちから、待ってましたとばかりに激しい声が上がった。
「長老!ようやく生贄を捧げるのですね!」
「そうだ!あの洞窟は、正気を失った眷属どもの巣窟!奴らを生贄にすれば、精霊獣様のお怒りも鎮まるに違いない!」
「南の民を贄に、我らが神のご加護を!それでこそ我らが長老よ!」
彼らの視線には、侮蔑と、そして俺たちへの剥き出しの敵意が満ちている。カイは、仲間と俺たちとの間で、ただ唇を噛み締め、俯くことしかできなかった。
その罵詈雑言を、俺たちはただ黙って受け止めていた。クゼルファが、悔しそうに大剣の柄を握りしめている。セレスティアは、彼らの恐怖と不安を、自らのことのように感じているのか、悲しげな表情で顔を伏せていた。
だが、エダは、そんな彼らの熱狂を、静かな、しかし有無を言わせぬ一言で制した。
「――静まれい。精霊獣様がこの者らを求めておられる。奴らが、御心を鎮めるための贄となるか、あるいは、我らが知らぬ道を示す鍵となるか。それを決めるのは、我らではない。……これぞ、精霊獣様の御心じゃ」
エダの言葉の真意を測りかね、戦士たちの間に戸惑いのどよめきが広がった。
「贄ではないのか…?」
「鍵…だと?」
「長老は、一体何を…?」
先ほどまでの熱狂的な殺意は鳴りを潜め、彼らの顔には不満と、そして理解不能なものに対する疑念が浮かんでいる。だが、それでも、長老であり巫女である彼女の言葉は、この部族において絶対だ。彼らは、その言葉に逆らうことなどできず、戸惑いながらも、しぶしぶ道を開けた。
俺たちは、脈動の民の、冷たい視線を背中に受けながら、北へと向かって歩き出した。
非合理な謎ほど、俺の『理』が冴える。
俺は、内心で不敵に笑った。精霊獣の「お告げ」の正体も、この部族が抱える謎も、全て、俺の「理」で解き明かしてやる。
エダは、遠ざかっていく俺たちの背中を、ただ静かに見送っていた。その瞳の奥には、部族の者たちには見せなかった、一つの、か細いが確かな希望の光が灯っていた。彼女は、賭けたのだ。この部族の未来を、そして自らの信仰の全てを、南から来た、得体の知れない異邦人たちに。その賭けが吉と出るか、凶と出るか。それは、まだ、誰にも分からなかった。
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