第207話:理の診断
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岩をくり抜いて作られた牢の中は、ひんやりとした湿気が肌を撫で、苔と土の匂いが鼻をついた。重い木の扉の隙間から漏れるわずかな光が、俺たちの姿をぼんやりと浮かび上がらせている。
「……カガヤ様。なぜ、抵抗なさらなかったのですか」
沈黙を破ったのは、クゼルファだった。その声には、抑えきれない怒りと、俺の意図を測りかねる戸惑いが滲んでいる。
「このままでは、何をされるか……!」
「落ち着け、クゼルファ」
俺は、壁に背を預けながら冷静に答えた。
「本気を出せば、こんな牢、抜け出すのは容易いだろう。だが、それをすればどうなる?俺たちはただの『南から来た侵略者』になるだけだ。力ずくで事を運べば、彼らとの対話の道は永遠に閉ざされる」
俺の言葉に、セツナが静かに頷いた。
「……カガヤ様の仰る通りです。あの長老……エダ。彼女の瞳の奥にあったのは、我々への敵意だけではない。もっと深い……何かへの『恐怖』でした。その正体を見極めない限り、この問題は解決しません」
「ですが……!」
なおも食い下がるクゼルファを、セレスティアが優しく、しかし凛とした声で制した。
「クゼルファ様。……信じましょう。コウを」
その一言に、クゼルファはぐっと言葉に詰まり、やがて不承不承といった様子で大剣の柄から手を離した。
物理的には無力だったが、情報的には圧倒的に優位に立っていた。俺が密かに放った昆虫サイズのステルスドローン「スティンガー」が、集落の隅々まで偵察し、その情報をリアルタイムでアイへと送り続けているのだ。
俺の網膜には集落の俯瞰図が常に表示されていたが、その情報の中に、俺はどうしても拭いきれない一つの違和感を覚えていた。
それは、カイや俺たちを捕らえた戦士たち……「脈動の民」の容姿だった。浅黒い肌と頑強な肉体を持つこの大陸の他の人々と、彼らはどこか違う。黒い髪、黒い瞳、そして、俺自身とよく似た平坦な顔の造作。
《アイ。彼らの容姿について、どう思う?俺の故郷の、特定地域の者たちとあまりにも似すぎていないか?》
《……肯定します、マスター。骨格、虹彩の色素、毛髪の成分。表層的なデータだけでも、この惑星の他の人類種よりも、マスターとの遺伝的近似性が高いと推測されます》
《……スティンガーで、彼らの遺伝子サンプルを採取できるか?髪の毛一本、皮膚の欠片一つでもいい》
《……実行します》
脳内でアイと会話をしていた俺の様子に、セレスティアが気づき、心配そうに声をかけてきた。
「コウ?どうかされましたか?」
その声に、俺ははっと我に返った。
「ああ、いや……すまない。少し、気になることがあってな」
俺は苦笑しながら続けた。
「いかんな。今までの癖で、つい脳内で会話を完結させてしまう。これからは、みんなにも聞こえるように話そう。アイ、お前もだ。これからは、通信機を通じて全員に聞こえるように応答してくれ」
『了解しました、マスター』
耳元の通信機からアイのクリアな音声が響き、三人はこくりと頷いた。
『マスター。カイの天幕近くで彼のものと思われる毛髪を発見。回収し、アルカディア号のラボへ転送、高速分析を実行します』
「よし。頼んだぞ」
数分後。アイからの報告に、俺は息を呑んだ。
『……分析完了。対象の遺伝子サンプルは、マスターの遺伝子データと99.8%一致しました。これは、この惑星の他の人類種との差異よりも遥かに小さい数値です。……マスター。彼らは、我々と同じ、地球人類、ホモ・サピエンスと言っても過言ではありません』
地球人……。この、イニチュムという星に?馬鹿な。ありえない。だが、アイの分析が間違っているはずもなかった。戸惑う俺にセレスティアが声を掛ける。
「コウ。大丈夫ですか?」
「……ああ。大丈夫だ。少し驚いただけだ。だが……ますます、このガリアのことを詳しく調べる必要が出てきたな」
俺は、一つの決意を固めた。
「カイを呼んでくれ」
俺は牢の見張りをしていた戦士に、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで告げた。
「なぜお前の言うことを聞かねばならん」
「カイに伝えろ。『お前の命を救った男が、今度は、お前たちの一族を救うための話がある』と。聞くか聞かないかは彼が決めることだ。だが、このまま精霊獣の病を放置すれば、いずれあんたたちの部族がどうなるか……その答えを、カイは知っているはずだ」
俺の言葉に含まれた揺るぎない確信と、わずかな脅し。戦士は、俺の瞳の奥にある何かを読み取ろうとするかのように、しばらく俺を睨みつけていたが、やがて迷うようにカイを呼びにいった。
数分後、カイは罪悪感と、そして何かを決意したような複雑な表情で牢の前に姿を現した。
「……何の用だ」
「あんたたちの長老、エダ殿に話がある。精霊獣の『診断』をさせてほしい、と伝えてくれ」
俺の突拍子もない申し出に、カイはしばらく呆然としていた。だが、やがてその瞳に、藁にもすがるようなかすかな光が宿った。
「……分かった。伝えてみよう。だが、期待はするな」
カイが去ってから、数時間が永遠のように感じられた。
夜が更け、牢の中が完全な闇に包まれた頃、扉が再び音もなく開かれた。そこに立っていたのは、長老エダだった。
「……南の呪い師よ。お前が、我らが精霊獣を診ると申したそうだな」
その冷え切った言葉に、俺は静かに頷いた。
「ああ。病を治すには、まず原因を正確に知る必要がある。俺には、それができる」
「……戯言を」
エダは、俺の言葉を鼻で笑った。
「精霊獣様の御心は、我ら巫女にしか分からぬ。お前のような、穢れた南の民に何ができるというのだ」
彼女はそう言って踵を返そうとした。だが、その背中に、俺は最後の一枚のカードを切った。
「あんたたちの精霊獣が侵されているのは、呪いなどではない。……恐らく何らかの病だ。それも、極めて厄介な、寄生生物による、な」
俺の言葉に、エダの足がぴたりと止まった。
「……カイから、精霊獣の眷属の亡骸の一部を密かに手に入れ、分析させてもらった。そこに付着していた瘴気……いや、あれは瘴気などではない。鉱物をベースにした、未知の生命体の集合体だ。そいつらが、あんたたちの精霊獣の体内で増殖し、その命を喰らっているのだろう」
俺の、あまりにも科学的で、そしてあまりにも冒涜的な説明に、エダはわなわなと唇を震わせた。
「……黙れ、痴れ者が……!そのようなもので、我らが精霊獣様の、神聖な御体を語るでない……!」
彼女はそう叫んだ。だが、その瞳の奥に、俺の言葉を完全には否定しきれていない深い動揺の色が浮かんでいるのを、俺は見逃さなかった。彼女もまた、薄々気づいていたのだ。この災厄が、単なる呪いなどではない、もっと根源的な何かに起因するものであることを。
俺がさらに言葉を続けようとした、その時だった。エダは不意に視線を宙に向け、何か見えざる存在の声に耳を傾けるかのような仕草を見せた。その表情は、驚きから困惑へ、そして、やがて一つの大きな覚悟へと変わっていった。
彼女は再び俺の方へと向き直ると、静かに、しかしはっきりと告げた。
「……よかろう。南の者よ。お前たちを、この牢から出してやる」
そのあまりにも急な心変わりに、俺は一瞬言葉を失った。だが、彼女の次の言葉は、俺たちのささやかな希望を、より深く、そして暗い絶望の淵へと突き落とすには十分だった。
「ただし、それは、精霊獣様への『生贄』として、じゃ」
「なっ……!」
エダの非情な宣告に、クゼルファが思わず大剣の柄に手をかける。セツナもまた、その身を低くし、いつでも動ける体勢を取った。
エダは、そんな俺たちの反応など意にも介さず、続ける。
「お前たちには、『嘆きの洞窟』へ向かってもらう。そこは、正気を失った精霊獣様の眷属たちの巣窟。我ら部族の者でさえ、生きては戻れぬ場所じゃ。精霊獣様は、お前たちの命を贄として捧げることで、そのお怒りを鎮め、病から快癒なされるであろう」
「巫山戯るな!」
クゼルファの怒声が、狭い牢に響き渡る。だが、エダの瞳は、氷のように冷たいままだった。
「もし、万に一つ、お前たちが洞窟の最奥までたどり着き、精霊獣様の御前に立つことができたなら……その時は、助かるやもしれぬな。精霊獣様が、お前たちの命を、受け入れるに値するとお認めになれば、の話じゃが」
それは、選択の余地のない、死刑宣告にも等しい命令だった。セレスティアは、エダの瞳の奥に宿る深い絶望と苦悩を感じ取ったのか、祈るように、静かに胸の前で手を組んだ。その唇が、かすかに動く。
そして俺は、この理不尽極まりない状況の中で、一つの、確かな「真実」の匂いを嗅ぎ取っていた。エダの言葉の裏にある、矛盾。そして、彼女自身も気づいていないであろう、かすかな希望の光。
俺は、猛り立つクゼルファと、いつでも飛びかかれる体勢のセツナを手で制すると、静かに、しかし、挑戦的な光を瞳に宿して、エダを見返した。
「分かった。その話、乗ってやろう」
俺の、あまりにも意外な返答に、今度はエダの方が、わずかに目を見開いた。彼女の計算と覚悟を、目の前の異邦人が、いとも容易く乗り越えてきた。その事実に、彼女の鉄の仮面の裏で、何かが確かに揺らいだのを、俺は見逃さなかった。
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