第205話:癒えぬ傷、閉ざされた心
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洞窟の中には、吹き荒れる吹雪の音だけが響いていた。
その若きガリアの戦士は、俺たちへの敵意を剥き出しにしたまま、意識を失った。
「……ひどい傷ですね」
セレスティアが、彼の足元に膝をつき、その傷口を覗き込んだ。彼の足には、魔獣の爪によって深く引き裂かれたであろう大きな切り傷があり、その傷口の周囲はどす黒く変色し、不気味な紫色の筋が足全体に広がっている。
「毒か……。それも、かなり強力な」
俺の呟きに、クゼルファが厳しい表情で頷いた。
「並の魔獣の毒ではありません。この森の奥深くに棲む、特殊な個体のものでしょう。通常の解毒薬では、気休めにしかなりません」
「ですが、このままでは、彼の命が……」
セレスティアは、そう言うと、静かに両手を彼の傷口へと差し出した。彼女の手のひらから、温かく、そして清らかな聖なる光が溢れ出し、若者の身体を優しく包み込む。
「――聖なる母の御名において、その痛みを和らげ、その命を繋ぎとめたまえ」
光が、傷口の出血を抑え、彼の苦悶に満ちた表情を、わずかに和らげていく。だが、傷口に広がる紫色の筋が消えることはなかった。
「……ダメです。毒の進行を遅らせるのが、精一杯……。彼の体内に、私の力が届かない、何か異質なものが巣食っています」
セレスティアが、悔しそうに唇を噛む。彼女の聖なる力さえも拒む、未知の毒。この世界の理だけでは、彼の命を救うことはできない。
「……俺がやろう」
俺は、悔しそうに唇を噛むセレスティアと交代し、若者の前に屈み込んだ。そして、腰のポーチから、一つの銀色の小箱を取り出した。それは、この世界のどんな工芸品とも違う、滑らかで継ぎ目のない、不思議な輝きを放つ金属の箱だった。それを見た仲間たちが、息を呑むのが分かった。
俺は、キットから、注射器のような形をした、極細のサンプラーを取り出すと、傷口から、わずかに血液を採取した。
「カガヤ様、それは……?」
「分析装置だ。この毒の正体を、分子レベルで解析する」
俺の言葉に、仲間たちは、魔法でも見ているかのような顔で、俺の手元を覗き込んでいる。採取した血液を、メディカルキットにセットすると、その表面に、淡い光のスクリーンが浮かび上がった。無数の文字列と、複雑な分子構造式が、高速で流れていく。
『……サンプル分析完了。毒素A、B、Cを特定。いずれも、既存のデータベースには存在しない、未知のタンパク質毒です。神経系に作用し、細胞組織を内側から破壊する効果を持ちます』
アイの冷静な分析が、俺の脳内に響く。俺は、目の前の傷口と、スクリーンに表示された複雑な分子構造式とを、交互に見比べた。そして、全てを理解した。
「……なるほどな。これじゃあ、魔法が効かないわけだ」
俺の独り言のような呟きに、セレスティアが悔しさと、そしてわずかな希望を滲ませた瞳で俺を見上げた。
「どうして魔法は効かないのですか、カガヤ様?」
その問いに、俺はできるだけ分かりやすい言葉を選んで説明した。
「セレスティアの聖なる力は、生命エネルギーそのものに働きかけて治癒を促す、素晴らしい力だ。だが、この毒は違う。魔力や呪いといった、君の力が対象とするエネルギーじゃない。もっと微細な……目に見えないほどの小さな粒が、彼の身体を内側から壊している、純粋な『物質』なんだ」
俺は、メディカルキットに、いくつかの指示を打ち込んだ。
「アイ、特定した毒素を中和する抗体プログラムを生成しろ。データをこのメディカルキットに転送。この場で、血清を合成するぞ」
『了解。……抗体プログラム生成開始。……完了。メディカルキットへデータ転送を開始します。……血清の合成を開始します。……完了まで、推定三分』
耳元の通信機から聞こえてくる、俺とアイとの常軌を逸したやり取り。そして、目の前の小さな箱が、存在しないはずの薬をその場で作り出そうとしている光景。その全てが、彼女たちの理解を、遥かに超えていた。
三分後。メディカルキットの小さな排出口から、カプセルに封入された黄金色の液体が現れた。
俺は、その血清を手に取ると、若者の口に、慎重に流し込んだ。
俺たちは、若者の様子を覗き込みながら窺う。
数分が、永遠のように感じられた。彼の荒い息遣いが、徐々に、穏やかなものへと変わっていく。そして、彼の足に広がっていた、不気味な紫色の筋が、まるで陽光に溶ける雪のように、ゆっくりと、しかし確実に、その色を失っていった。
「……う……ん……」
やがて、若者は、うっすらと目を開けた。その瞳には、もはや敵意はなく、ただ、深い混乱の色だけが浮かんでいる。
「……ここは……。俺は、一体……」
「気がついたか。……もう、大丈夫だ」
俺の言葉に、彼は、はっとしたように、自らの足を見た。あれほどまでに彼を苦しめていたはずの傷口は、どす黒い変色を失い、ただ、生々しい裂傷だけが残っている。
「……なぜ……。お前たちが、俺を……?」
その声は、震えていた。命を救われたことへの、戸惑い。そして、敵であるはずの南の民に情けをかけられたことへの、屈辱。あらゆる感情が、彼の心をかき乱している。
「お前たちの目的は、何だ。……俺の命を盾に、部族を脅すつもりか……?」
「そんなつもりはない」
俺は、静かに首を横に振った。
「ただ、お前に、聞きたいことがある。……その傷、何にやられた?」
俺の問いに、彼は、一瞬だけ、その瞳に深い絶望の色を宿らせた。
「……精霊獣様の、眷属にやられた」
「精霊獣の眷属?」
俺が聞き返すと、カイは悔しそうに唇を噛んだ。
「ああ。我らが主、精霊獣様が、今、原因不明の病に侵され、日に日に弱っておられる。その影響か、主をお守りする眷属たちが正気を失い、森の全てを敵と見なすようになってしまったのだ。俺のこの傷も、暴走した眷属に……」
その、あまりにも痛切な告白に、俺の脳裏で、全てのピースが繋がった。リリアンナが予測した、地脈の乱れ。そして、この未知の毒。
「……その精霊獣の病、俺なら、治せるかもしれん」
俺の言葉に、彼は、信じられないといった顔で、俺を見返した。
「……何を、言っている。南の民のお前が、我らが精霊獣を、治せるだと……?馬鹿も休み休みに言うんだな。巫女様でさえ、匙を投げたというのに……」
俺は、カイの疑いの眼差しを真っ直ぐに受け止めると、彼の足元――俺が先ほどまで処置していた傷へと、静かに視線を落とした。
「あんたのその傷を治したように、な」
俺の言葉に、彼はぐっと言葉に詰まる。その瞳の中で、部族への忠誠と、南の民への不信感が、激しくせめぎ合っていた。
俺は、そんな彼に、最後の一枚のカードを切った。
「あんたの部族がどうなろうと、俺の知ったことじゃない。だが、精霊獣の病は、いずれこの森全体を汚染し、その影響は、いずれ南の地にも及ぶだろう。俺は、それを、見過ごすわけにはいかない」
それは、半分は真実で、半分は、彼を動かすための、ブラフだった。
若者は、しばらくの間、固く唇を噛み締め、何かを決意するように、天を仰いだ。そして、やがて、その瞳に、一つの覚悟の光を宿した。
「……俺の名は、カイだ」
彼は、初めて自らの名を名乗った。
「……分かった。……お前たちを、俺たちの集落へ、案内する」
それは、彼が、一族の戦士として、そして、この地に生きる一人の人間として下した、あまりにも重い、苦渋の決断だった。
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