第202話:北への道標
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魔の森の静寂の中、アルカディア号の中で迎えた朝は、俺にとっては懐かしい日常の延長だったが、他の三人にとっては、まるで別世界での出来事のようだったに違いない。鳥のさえずりも、風の音も、全てが船体の分厚い装甲に遮られ、そこにあるのは、生命維持装置が発する、心地よい静寂だけだった。
「……信じられませんわ。昨夜は、あんなに泥だらけだったというのに……」
ブリッジに現れたセレスティアは、洗い立ての、清潔な衣服に身を包み、その肌は湯上がりのように艶やかだった。
彼女だけでなく、クゼルファも、そしてセツナでさえも、その表情には、長旅の疲れなど微塵も感じさせない、爽やかな活気が満ちている。
「あの、湯が自動で出てくる小部屋……一体、どうなっているのですか?」
クゼルファが、興奮を隠しきれない様子で俺に尋ねる。シャワーのことだろう。
「ははは。まあ、水を温めて、循環させているだけだよ。この船では、当たり前の設備だ」
「当たり前、ですって……!?あんなものが、当たり前だなんて……」
クゼルファは、信じられないといった顔で、ブリッジの壁をぺたぺたと触っている。その時、彼女の鼻が、くんくんと何かを嗅ぎつけた。
「……!この、良い香りは……!?」
彼女の視線の先、テーブルの上には、アイが用意した朝食が並んでいた。焼きたてのパン、新鮮な野菜のサラダ、そして、湯気の立つスープ。森の中では、到底ありつけない豪華な食事だ。
「昨夜、食べ物が出てきた、あの光る箱……!あれは、一体どんな魔法なのですか!?」
クゼルファの問いに、俺は苦笑しながら答えた。
「あれはレプリケーター。物質を分子レベルで再構成して、あらゆるものを作り出す装置だ。魔法じゃない、科学だよ」
「ぶんし……さいこうせい……?」
クゼルファは、聞いたこともない単語に、頭の上に疑問符を浮かべている。無理もない。彼女たちの常識では、理解の範疇を超えているだろう。
「そんなことばかりに驚いていたら、ここでは身が持たないぞ?」
俺がそう言って笑うと、アイが、滑るようにして俺の隣に現れた。
「アイ。頼んでおいた物は、用意できているか?」
「もちろんです、マスター」
アイがそう答えると、コンソールの一部がスライドし、中から小さな台座が現れた。その上には、三つの、美しい装飾が施されたイヤリングが置かれている。銀細工の、繊細なデザイン。一見すると、ただの装飾品にしか見えない。
「それは一体、何ですの?」
好奇心旺盛なセレスティアが、興味深そうにそれを覗き込んだ。
「通信機だよ」
俺は、その中の一つを手に取った。
「アルカディア号に戻ることを決めた時、アイに作らせておいたんだ。耳につける超小型の通信機。これがあれば、離れた場所にいても、お互いに音声でやり取りができる。そして、アイとも、いつでも会話が可能になる」
俺の説明に、三人は、その小さなイヤリングに、どれほどの価値があるのか、まだ理解できていないようだった。
「……試しに、つけてみてくれ」
俺がそう言うと、三人は、おそるおそる、そのイヤリングを耳につけた。
俺は、誰にも聞こえないほどの小声で、囁いた。
『――聞こえるか?』
その瞬間、三人の肩が、びくりと震えた。
「か、カガヤ様の声が……!?すぐ耳元で、囁かれたようです……!」
「なんてこと……!これがあれば、どんなに離れていても、秘密裏に意思の疎通が……!」
「……作戦の遂行効率が、飛躍的に向上しますね」
三者三様の反応。だが、その瞳には、同じ驚愕と、この小さな道具が持つ、無限の可能性への理解が浮かんでいた。
「直ぐにそこに気づくとは、さすがだな。今は音声だけのやり取りしかできないが、そのうち意思の伝達もできるようにしたいとは思っているんだ。しかし……、これは、この世界では、まだ誰にも見せるわけにはいかない代物だ。使い方には、十分注意してくれ」
俺は、通信機の他にも、いくつかの便利なアイテムを彼女たちに渡した。周囲の魔素や生命反応を探知する簡易レーダー。あらゆる毒を中和する、携帯用のメディカルキット。それらは全て、俺の科学知識と、アイの製造能力が可能にした、この世界には存在しない「理術」の産物だ。
三人は、俺から渡された、見たこともない道具の数々を、興味津々といった様子で手に取った。
「この板は……魔獣の気配を捉えることができるのですか!?これさえあれば、もう奇襲を受けることもありませんね!」
クゼルファが、簡易レーダーを興奮したように見つめる。
「こちらの小箱は……どんな毒でも?信じられませんわ。これ一つで、どれほどの命が救われることか……」
セレスティアは、メディカルキットを、まるで聖遺物のように、敬虔な手つきで受け取った。
セツナは、何も言わずに、ただイヤリング型の通信機を指先で弄び、その戦術的な価値を冷静に分析しているようだった。
「ははは、まあ、その驚きも、腹が減っていては続かんさ。まずは、アイが用意してくれた朝食を食べよう」
俺の言葉に、三人は我に返り、テーブルに並べられた豪華な食事に、再び感嘆の声を上げた。
「さて、と。腹ごしらえが済んだら、作戦会議を始めるぞ」
俺の言葉に、仲間たちの表情が、引き締まる。
ブリッジの中央に、アルカディア号の多次元複合センサーアレイ「ヘイムダル」が収集した、魔の森と、その先に広がるガリアの地形データが、巨大な立体ホログラムとして映し出された。
「これより、目標……北方諸部族連合ガリアに関する、ブリーフィングを開始します」
アイが、冷静な声で説明を始めた。
ホログラムには、無数の情報が、リアルタイムで表示されていく。ガリアを構成する、複数の部族の勢力図。彼らの移動ルートと、主な集落の位置。そして、この数日間、アイが放った数十機の探査ドローン「スティンガー」が収集した、詳細な地形データと、魔獣の分布図。
「現在、ガリアの主要な三つの部族間で、小規模な紛争が頻発しています。我々が直接接触すれば、彼らの争いに巻き込まれる可能性が極めて高いと予測されます」
アイは、ホログラム地図の上に、一本の緑色のラインを描き出した。
「ですが、スティンガーの探査により、彼らの勢力圏を避け、目標の遺跡へと到達可能な、安全なルートを発見しました。このルートを進めば、ガリアの民と接触するリスクを、最小限に抑えることが可能です」
その、あまりにも精密で、膨大な情報量に、仲間たちは、ただ息を呑むばかりだった。
「……すごい」
クゼルファが、感嘆の声を漏らした。その言葉に、俺はホログラムに映し出された緻密なデータを見ながら、静かに相棒を称えた。「流石だな、アイ。」
これほどの情報があれば、この世界のどんな軍隊をも、容易く出し抜くことができるだろう。だが、俺は、その力を、決して支配のためには使わない。
「よし。ルートは確定だな」
俺は、アイに最後の確認を入れた。
「ところで、アイ。肝心の遺跡の情報はどうなっている?」
「はい、マスター。外部からのスキャンでは、大まかな位置と規模は特定できていますが、内部構造までは……。強力なエネルギーフィールドに阻まれ、詳細なデータは取得できていません」
「それで充分だ。内部のことは、俺たちが直接この目で確かめればいい」
俺は、仲間たちの顔を見回した。
「準備はいいか?」
三人は、力強く頷き返す。その瞳には、もはや驚きや戸惑いの色はない。あるのは、これから始まる、未知なる冒険への、確かな覚悟だけだった。
俺たちは、アルカディア号を、再び深い森の静寂の中に残し、外へと足を踏み出した。
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