幕間10-2:シエルの工房、新たなる胎動
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カガヤたちが、王都での激動の日々を経て、始まりの地ヴェリディアへと旅立ってから、数週間が過ぎていた。自由交易都市シエル、その北西区画に位置する「交易商会ミライ」の工房は、主の不在を感じさせないほどの、力強い活気に満ちていた。
「第二ライン、フィルターの圧着急げ!今日のノルマまで、あと五十個だ!」
「第三ライン、資材の残りを計算しろ!リコさんに報告するんだ!」
工房の製造ラインでは、臨時責任者となったギドの野太い声が響き渡る。忘れられた民の男たちは、額に汗を光らせながら、黙々と手を動かしていた。彼らが作り出すのは、カガヤの「理」と彼らの職人技が融合した、この商会の主力商品だ。不純物を取り除く「浄水フィルター」に、疲労回復効果のある「アクア・ヴィータ」、そして、鉄血傭兵団からも絶大な評価を得ている濃縮回復軟膏「ヴィータ・バーム」。
これらの製品は、今やシエルの市場に欠かせないものとなり、かつてスラムの片隅にあった小さな工房を、五大ギルドさえも無視できない存在へと押し上げていた。
その工房の二階、かつてカガヤの執務室だった部屋で、リコは山と積まれた羊皮紙の帳簿と格闘していた。
「……売り上げは順調、っと。資材の在庫も、問題なし。鉄血傭兵団への納品も、来週には……」
ペンを走らせるその横顔は、もはやスリや情報屋で日銭を稼いでいた頃の、荒んだ少女のものではない。一つの大きな組織の台所を預かる、若き財務責任者の顔つきだった。カガヤから託された「この商会を守る」という、何よりも重い任務。その責任感が、彼女を驚くべき速さで成長させていた。
「――リコ!」
執務室の扉が、勢いよく開かれた。息を切らして飛び込んできたのは、孤児たちのリーダーであるレオだった。その手には、一枚の、古びた羊皮紙が握られている。
「どうしたのさ、レオ。そんなに慌てて」
「こ、これ!カガヤ兄ちゃんが残していった、設計図の束を整理してたら、一番奥から……!」
レオが差し出した羊皮紙を、リコは訝しげに受け取った。それは、カガヤがいつも使っていた、精密な線で描かれた設計図とは、明らかに趣が異なっていた。まるで、夢の中で思い描いたものを、忘れないように書き留めたかのような、自由で、どこか楽しげな線。
「……なんだい、これ。見たこともない機械の絵……?」
そこに描かれていたのは、風車と、歯車と、そして巨大な水瓶のようなものが、複雑に組み合わさった、奇妙な装置の設計図だった。羊皮紙の隅には、カガヤの文字で、こう記されている。
『――自動式・連続浄水供給システム(プロトタイプ)』
「じどうしき……れんぞくじょうすい……?」
リコが、首を傾げる。その時、彼女の脳裏に、カガヤがこの工房を設立した当初に、ぽつりと漏らした言葉が蘇ってきた。
『このスラムから、汚れた水をなくしたい。誰もが、いつでも、安全な水を飲めるようにしたいんだ』
「……まさか、これって……」
リコの隣で、ギドが、その設計図を食い入るように見つめていた。彼の、職人としての目が、この奇妙な装置の、本当の意味を理解し始めていた。
「……お嬢。……これは、とんでもない代物だ。もし、この図面通りに作ることができれば……」
「……スラム街全体に、綺麗な水を、いつでも届けられる……?」
リコの言葉に、ギドは、ゆっくりと、しかし、力強く頷いた。
だが、問題は山積みだった。設計図には、彼らが見たこともない素材や、工房の設備では加工不可能な、精密な部品が、いくつも指定されている。
「……ダメだ。こいつは、カガヤ兄ちゃんが帰ってこないと、作れない……」
レオが、悔しそうに呟く。だが、リコは、諦めていなかった。彼女は、設計図を握りしめ、静かに、しかし、強い決意を込めて言った。
「……嫌だね」
「リコ……?」
「カガヤ兄は、あたしたちに、この場所を託したんだ。ただ待ってるだけなんて、真っ平ごめんだよ!……あたしたちの手で、これを、完成させるんだ!」
その言葉は、無謀で、子供の我儘のようにも聞こえた。だが、その瞳には、かつてカガヤがこのスラムに灯したのと同じ、未来を諦めない、強い光が宿っていた。
その日を境に、交易商会ミライの、新たな挑戦が始まった。
リコは、まず、鉄血傭兵団のジン団長を訪ねた。
「ジンのおっちゃん!頼みがあるんだ!」
彼女は、設計図を広げ、この装置が完成すれば、シエルの、いや、この大陸全体の衛生環境が、劇的に改善されることを、熱っぽく語った。
「……面白い。カガヤ殿の考えることは、いつも俺たちの想像を超えてくるな。よし、分かった。資材の調達と、警備は、俺たち鉄血傭兵団が引き受けよう。これも、未来への投資だ」
次に、レオは、鍛冶ギルドや木工ギルドの、腕利きの職人たちを訪ね歩いた。
「親父さんたちの腕を見込んで、頼みがあるんだ!これを、作ってほしい!」
最初は、見たこともない設計図に、難色を示していた職人たちも、レオの純粋な熱意と、ギドという、伝説的な職人からの依頼であると知ると、その職人魂に火をつけられた。
「ふん、忘れられた民の小僧に、ここまで言われて、引き下がれるか。やってやろうじゃねえか!」
そして、ギドは、工房に篭もり、不眠不休で、設計図の解析と、試作品の製作に取り掛かった。忘れられた民たちも、主の帰りを待つのではなく、自らの手で未来を創り出すという、新たな目標に、生き生きとした表情で取り組んでいた。
カガヤがいない工房は、しかし、確かに、彼の意志を受け継ぎ、成長を続けていた。彼らが挑むのは、ただの一つの製品開発ではない。それは、カガヤという太陽を失った後も、自らの力で輝き続けるための、彼ら自身の、独立宣言でもあったのだ。
シエルのスラム街で、今、新たな時代の歯車が、静かに、しかし力強く、回り始めていた。
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次回、第11章スタートです。
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