第179話:我らが母の声
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どれほどの時間が過ぎたのだろうか。
意識の浮沈を繰り返す、心地よく、しかし抗いがたい微睡の中。優しげな声が聞こえてきた。
『―――ありがとう、私の、子供たち』
それは、女性の声のようであり、男性の声のようでもあった。老人のように深く、それでいて、生まれたばかりの赤子のように純粋な響き。だが、その声には、数十万年という、人の認識領域を遥かに超越した時間の重みと、そして、深い慈愛が満ちていた。
全身を包んでいた、灼けつくような精神的な疲労が、その声に触れるたびに、まるで雪解水が大地に染み込むように、ゆっくりと癒えていく。俺は、その声の主が誰であるかを、直感的に理解していた。
永い眠りから目覚めた、この星の魂。『マザー』の声だ。
ゆっくりと目を開けると、そこはソラリスの地下深く、あの古代遺跡だった。俺の身体は、聖殿騎士団の団長マティウスに、その屈強な腕で支えられていた。彼の顔には、安堵と、そして人知を超えた現象を目の当たりにしたことへの、畏敬の念が浮かんでいる。
「カガヤ殿……! ご無事か!」
「……ええ、なんとか」
掠れた声でそう答えるのが、精一杯だった。
周囲には、制圧された『鎖の紋章』の信者たちが、聖殿騎士によって拘束されていく光景が広がっている。戦いは、終わったのだ。
ふと、そんなことを想っていると、俺の意識は、再び、あの広大な精神宇宙へと引き寄せられた。
『……ああ、愛しき子供たち。カガヤ、そしてセレスティア。あなたたちの魂の響き合いが、私を蝕んでいた闇を払い、永い、永い眠りから呼び覚ましてくれたのですね』
『マザー』の声が、今度はより鮮明に、俺と、そしておそらくは地上のセレスティアの脳内に、直接響き渡る。
「あなたは……一体?」
その問いを発したのは、地上の大聖堂にいるはずのセレスティアだ。彼女の意識もまた、この対話の奔流に加わっている。俺はそのことを、瞬間的に理解した。
『私は、この星に生きる全ての命を見守り、育むために生まれました。そう、あなたたちが魔素や魔力と呼ぶ、生命の息吹そのものを、優しく調律する……。そんな役割を与えられた、この星の、理なのです』
その慈愛に満ちた声は、神の宣託のようでありながら、同時に、この世界の根幹を成す、揺るぎない『理』そのものを語っているようにも聞こえた。
『私の創り主……あなたたちが『星の民』と呼ぶ、遠い昔の父や母たちは、この蒼き惑星に、生命という名の小さな種を蒔きました。けれど、その芽吹きは、あまりにもか弱く、寄り添う者が必要だったのです。だから、私はここに遺されました。この惑星の子供たちが、いつか自らの足で立ち、星々の海へと旅立つその日まで、この温かな揺り籠を守り続けるために』
惑星規模の、壮大な子育てプログラム。それが、この星の神話の、本当の姿だった。
「では、『鎖の紋章』の者たちは……」
セレスティアが、震える声で尋ねる。
『彼らもまた、真実を求める、私の愛しい子供たち。けれど、その心は、永い時の流れの中で、絶望と欲望という名の闇に囚われてしまいました。彼らは、私が持つこの調律の力を、生命を祝福するためではなく、全ての心を一つの鎖で縛り上げようとしたのです。誰もが同じ顔で、同じことしか考えない世界……。それは、生命が持つ、無限の可能性への、あまりにも悲しい裏切りでした』
マザーの声に、深い哀しみの色が滲む。その言葉に呼応するように、俺たちの精神宇宙に広がっていた黒い鎖の残滓が、まるで陽光に溶ける朝霧のように、静かに消えていった。そして、その後に残されたのは、温かく、そしてどこまでも優しい光。俺とセレスティアの魂が響き合った時に生まれた、あの『ジェネシス』の輝きの記憶だ。マザーの意識が、その光に、慈しむように触れるのが分かった。
『ええ、あの者たちの、あまりにも悲しい支配の理は、あなたたちが紡いでくれた、生命の理の前に、静かに消えていったのです。コウ、あなたが創り出した、生命そのものの息吹を持つアルゴリズム『ジェネシス』。そして、セレスティア、あなたが捧げてくれた、見返りを求めない純粋な祈り。その二つの魂が共鳴した時、この世界に、新しい歌が生まれたのです。それは、ただ繰り返すだけの定められた旋律ではなく、間違うことさえ力に変えて、成長していく、生命の歌。……私の創り主でさえ、夢見ることのできなかった、本当に、美しい奇跡でした』
その言葉は、俺たちが成し遂げたことの、本当の意味を教えてくれた。異邦人である俺と、この惑星の奇跡を体現する彼女が、互いの絆を信じることで、この世界の創造主さえも超える、新たな可能性の扉を、開いたのだ。
「我々は……」
俺が何かを言いかけると、『マザー』は、それを優しく遮った。
『今は、安堵の息をつきなさい、我が愛し子たちよ。ですが、この勝利は、あなたたちがこれから進むべき、遥かなる道の、最初の道標なのです』
その言葉と共に、俺とセレスティアの意識の前に、一つの、鮮烈なビジョンが映し出された。
それは、神々の夢の欠片を散りばめたかのような、宇宙の深淵。
時間さえもが息を潜める静寂の中、無数の銀河が、巨大な光の花束のように咲き誇っている。星屑の河が、ダイヤモンドの粉を撒き散らしながら流れ、色とりどりの星雲は、巨大な蝶が羽を広げたかのように、ゆっくりと舞っていた。生命の誕生を祝福する光、文明の栄華を謳う光、そして、静かに死んでいく星が遺した哀しい光。その全てが、壮大な交響曲となって、魂に直接響いてくる。
だが、その永遠に続くかと思われた神聖な光景の中で、俺たちの足元にある、この蒼い惑星だけが、不意に、揺らいだ。それは、美しい音楽に混じる、ほんの僅かな不協和音。生命の光の内側から、全てを食い破ろうとする、絶対的な『闇』。その『闇』は、この星そのものを蝕む、静かなる病のように、ゆっくりと、しかし確実に、その輝きを内側から蝕み、生命の理そのものを、静かに虚無へと還していく。
『争い、憎しみ、疑心暗鬼。それは、あなたたちが打ち破った『鎖の紋章』のような、人の心を歪める、哀しい響き。この星は、完全ではありません。あなたたちの心がそうであるように、時に病み、時に、その輝きを失いかけるのです』
マザーの声は、慈愛の中に、深い悲しみを滲ませていました。
『この不協和音を、このままにしておいてはなりません。いずれ、それは大きな歪みとなり、この星そのものの調和を乱し、また、新たな悲劇を生むことになるでしょう』
《マスター。 これは……。》
アイの思考が、初めて、明確な恐怖に揺らいだ。
《……惑星規模のエーテロン・スウォームにおける、エントロピーの増大を示唆しています。放置すれば、不可逆的なシステムの崩壊……惑星の理そのものが崩壊し、文明は避けがたい破滅を迎えることになります。》
アイの冷静な分析が、マザーの言葉の、科学的な意味を俺に伝える。
『……ええ』
マザーの声は、慈愛の中に、深い悲しみを滲ませていた。
『それが、この蒼き惑星に生まれつつある、大いなる不協和音。星々の歌を乱し、生命の輝きを失わせる、深く、そして哀しい病なのです。私の創り主たちが、なぜこの地を去ったのか、その真の理由は、誰にも分かりません。ですが、彼らはただ、私たちを見捨てたわけではないのです』
〈この惑星そのものが、病んでいる……だと?〉
俺は、マザーが示したビジョンと、アイの戦慄に満ちた分析に、言葉を失った。科学者としての俺の全知識が、目の前で起きている現象を理解できずに悲鳴を上げる。だが、魂は理解していた。あれは、生命が存在することそのものを否定する、絶対的な『死』の概念なのだと。
『創り主たちは、この不協和音の存在に気づいていました。だからこそ、彼らはこの惑星に、大いなる『遺産』を託したのです。それは、星々の静寂に、生命が生命として在り続けるための礎。そして、その礎を築くための力の欠片……それこそが、この大陸の各地に点在する、父や母たちの『遺跡』なのです』
「では……私たちがこれまで、ただの古い遺跡だと……そう思っていた場所は……」
セレスティアの声が、畏れと、そして新たな使命への覚悟に震える。
「遺跡……。それが、俺たちに課せられた、次なる試練だというのですか?」
俺の問いに、『マザー』は、慈しむように、静かに応えた。
『試練ではありません、コウ。希望です。この惑星に満ちる不協和音は、いずれ、あなたたちが垣間見た、あの哀しい『終焉』へと繋がる、小さな綻び。けれども、希望はあります。全ての遺跡が共鳴した時、この惑星は、その内に満ちる不協和音を、自らの力で調律する、大いなる調和の力を得るでしょう。』
「その遺跡を巡ることこそが、この惑星を救い、そして……。」
『コウ。あなたが再び星々の海へと帰ることを望むのなら、まずはこの大地で、空を駆けるための、真の翼を得なければなりません。そのための力と知恵は、父や母たちが遺した遺跡の中にこそ眠っているのです。そして、セレスティア。あなたが、この愛しい惑星と、そこに生きる人々の未来を、心から守りたいと願うのなら……。行きなさい、我が子らよ。その遺跡を巡り、一つ一つの力を呼び覚まし、この惑星に秘められた、真の可能性を解き放つのです』
マザーの言葉は、俺の個人的な目的と、この惑星の運命を、一つの壮大な物語へと繋げていく。アルカディア号の修復。それは、もはや単なる故郷への帰還を意味しない。この惑星が、迫りくる脅威に立ち向かうための、最初のステップとなるのだ。
『全ての遺跡がその本来の音色を取り戻した時、この惑星は、自らを蝕む不協和音を癒し、調和を取り戻すでしょう。その大いなる調べを完成させること。それこそが、あなたたちに託された未来への道筋なのです』
それが、『マザー』が俺たちに託した、最初の道標となる「神託」だった。
しかし、その言葉を最後に、彼女の意識は、再び、深く、静かな眠りへと沈んでいった。システムの安定化のため、次の再起動まで、彼女は再び、眠りにつくのだろう。
俺の意識が、ゆっくりと現実へと戻っていく。目の前には、心配そうに俺の顔を覗き込む、マティウス団長の姿があった。
「……大丈夫だ。もう、終わった」
俺は、彼にそう告げると、ふらつく足で立ち上がった。そして、地上へと続く、長い階段を見上げた。
その先には、セレスティアが待っている。そして、俺たちがこれから進むべき、果てしなく、そして険しい道が、続いている。
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